第十三話 決心

 急ぎの仕事もないし、定時で終わらせて帰り支度を始めた。明日は休み。ホワイトボードへ書き込んでおく。

 エレベーターは三階を通り過ぎて上の階へと向かっていった。ここで待っている間に誰かと顔を合わせたくなくて、階段で降りていく。

 外に出るとわずかな明るさだけを残して陽は落ちていた。頬に吹く風が冷たく感じる。


 いつもの残業終わりと違って、仙川駅のコンコースもこの時刻にはたくさんの人が行き交っている。

 空いている吊り革がないほど混雑した車両に揺られ、更井駅のホームに降りると見上げた時計はまだ七時を過ぎたばかりだ。

 立ち止まった僕を次々と追い越していく人たち。みんな家路を急いでいるのか、誰も僕のことなど気にも留めていないに違いない。

 いまの僕がどんな思いでいるのかなんて分かるはずがない。


 なんとなく今日はズンさんの笑顔を見たくなかった。

 ロータリーをぐるっと回って、軽食喫茶と書かれている小さなお店の扉を押した。改札からは大ケヤキに隠れて看板が見えないこのお店は、僕が帰ってくる頃にはいつも閉まっている。こうして入るのは初めてだ。

 昔ながらの喫茶店といった感じの店内はあのコンビニとは違って薄暗い。ボックス席になったソファーがオレンジがかった光で柔らかく照らされている。値段の表示に上から紙を貼って書き直したメニューを眺めた。


「すいません。ナポリタンと瓶ビールをください」


 あまり愛想がよくないお爺さんマスターへ注文を告げると、すぐにグラスとビールを持ってきて黙ったままテーブルの上に置いていった。

 家ではなく一人でお酒を飲むのも初めてだけど、ちょっとアルコールを体に入れておきたかった。

 冷えたグラスにビールを注ぐと白い泡が湧きあがる。

 銀色の皿に乗ったナポリタンはケチャップがたっぷりとつかわれていて、ほんのりとバターが香る。お腹も満たされ、ビールを飲み干して席を立つ。


 今夜はどうしてもミキに


 店を出て、左へ歩いていく。通りを挟んでコンビニの明るい店内が目に入った。

 少し遠回りをしてネットカフェへと向かう。

 見なれた階段を上り、扉を開けて電子音とともに店内へ入っても、また店長は気づいてくれない。

 ヘッドホンをつけているだけじゃなく、顔を下に向けている。何かパソコンに向かって作業しているみたいだ。


「こんばんは」


 少し顔を近づけてのぞきこむように声を掛けると、店長は慌てて顔を上げた。


「あ、ごめん、気づかなくて。いらっしゃい」

「いつものことだから気にしていませんよ」


 本当にいつものことだから怒る気にはならない。すぐに気づいてくれなかったからといって困ることもないし。


「いやぁ、会員証の更新時期なんでデータの整理をしていたんだよ。山瀬さんも帰りには新しいカードを用意しておくから」


 ブース番号が印字された紙を受け取り、分かりました、と答えて移動する。

 昨日はミキが現れるのを待たずに帰ってしまったけれど、明日は休みだし今夜は遅くまで粘ってみるつもり。

 スーツをハンガーにかけてからドリンクコーナーでウーロン茶を入れてきた。

 キーボードに向かい、覚えてしまったアドレスを打ち込む。

 モニターには『あなたが殺したい人は誰ですか』のトップページが表示された。


 掲示板のチェックを後回しにして、チャットルームで「話の続き」という部屋を作った。


(頼む、早く来て)


 そう願いながら掲示板を覗いてみたけれど、やはり昨夜もミキが現れた形跡は残っていなかった。

 不安はあるけれど彼女を信じて待つしかない。

 時間つぶしにスマホでゲームを始めたけれど集中できなくてアプリを閉じた。

 パソコンから、入室を知らせるチャイムは聞こえてこない。

 リクライニングチェアに体を預け、目を閉じてミキと交わした会話を思い返してみる。


(あ、寝落ちしてた)


 ビール一本しか飲んでいないのに、疲れていたのか眠ってしまっていた。

 モニターに表示されている時刻に目をやると十時を過ぎている。

 もうここに来てから二時間が経とうとしていた。

 チャットルームを確認してもミキが来た形跡はない。

 なんだか急にだるさを感じはじめた。


(今夜もあきらめよう。でも……)


 掲示板に移動してメッセージを書き込んだ。

 ただ一言「決めたから」と。

 それだけでミキには僕の思いが伝わるはずだ。


「あれ、もう帰っちゃうの」という店長の言葉を聞きながら、新しい会員証を受け取って家へと急いだ。




 翌朝、めずらしくスマホのアラーム音で起こされた。もう七時だ。いつもならとっくに目が覚めているはずなのに。

 起き上がろうとしたら体にだるさが残っている。少し熱っぽい気もする。ヤバイ。

 体温計を探して熱を測ってみたら三十七度ある。

 平熱が三十五度台と低めの僕にとっては、つらさを感じるほどだ。


(無理しないで、今日の建築巡礼は止めておくか)


 たまたま休日でよかった。

 顔を洗ってから市販の風邪薬といっしょに水をコップで一杯だけ飲んで、もう一度ベッドにもぐりこんだ。


 二度寝から目覚めると十二時を過ぎていた。

 まだ頭がぼぉっとしているけれど、さすがにお腹が空いた。食欲があるということは体調もすぐに回復するだろう。

 こういうときのために買い置きしておいたレトルトのおかゆを温めて食べた。

 念のため市販の風邪薬を飲んでから、またまたベッドへ。横になりながらミキのことを考える。


(熱が下がったら、今夜もネットカフェに行ってみようかな)


 家からあのサイトへアクセスするのは、身バレしそうでどうしても抵抗がある。たとえパソコンに詳しい人だろうと簡単には出来ないのかもしれないけれど、スマホのアドレスやら何やらたどられそうで怖い。

 ましてやをするなら慎重すぎるくらいでもいいはずだ。


 いつの間にかまた眠ってしまっていた。でもだいぶすっきりした気分。

 熱を測ってみると三十六.二度まで下がっていた。

 シャワーは我慢して、ボディシートで体を拭いてから着替えた。

 まだ四時前だから洗濯をしてしまおう。


 夕食は冷凍うどんをゆでて卵でとじた。僕にしては上出来。

 体も温まり、元気になったので出掛けることにした。



「いらっしゃい。ここんところ毎日来てくれるね。それに山瀬さんがスーツを着ていないなんて、めずらしい」

「今日は休みだったので」

「そうなんだ。休みの日にまでわざわざ来てもらえるなんて、うれしいねぇ。俺に会いに来てくれてるの?」


 店長の面白くもない冗談は笑顔でスルー。


(昨日、ミキに会えていればわざわざ来なかったんですけどね)


 心の中で軽く頭を下げた。

 昨日もらったばかりの新しい会員証を差し出し、受付を済ませる。

 今日は暖かいカフェオレを持ってブースに入った。両隣とも人がいる気配はない。

 パソコンが立ち上がるのももどかしく、キーを打ちエンターを叩く。

 すっかり見なれたトップページから掲示板に移動した。


 昨日、帰る時に書き込んだコメントをミキが見てくれていれば、きっと反応があるはず。マウスホイールで履歴をスクロールしていくと――。


『オッケー』


 たった一言、ミキからのコメントがそこにあった。

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