第十五話 下見

 ぶつかったときに藤崎君が右手で持っていたコーヒーがこぼれて、彼の左手に提げていたレジ袋の中にも垂れてしまった。


「ごめんね、大丈夫」

「あ、大丈夫ですよ。アイスコーヒーなので」


 彼は冷たいから火傷していないと言いたかったのだろう。僕は濡れてしまったことが気になった。

 両手がふさがっている藤崎君の代わりに、ハンカチを取り出して拭いてあげた。

 レジ袋の中を覗くと雑誌が入っている。


「これも濡れちゃったんじゃない?」

「ちょっとくらい平気ですよ」


 そう言いながらも彼は気にしたのかコーヒーを持ち換えて右手を袋に突っ込む。

 取り出したのはパソコン雑誌だった。しかもかなり専門的な感じ。表紙に並んだ僕にはよく分からない用語の上が茶色く濡れていた。


「藤崎くんてパソコンが趣味なの?」


 表紙を拭きながら意外な気持ちでたずねた。彼には悪いけれど、パソコンで資料を作るのも決して早いとは言えないし。


「家で使っているのは自分で組み上げたパソコンです。ただ表計算でデータをまとめたり分析したりとか、文章を考えながらキーボードで打つのは苦手なんですよ」


 また僕の心のうちがバレている。でも自作のパソコンなんて、すごい特技だな。IT関連の仕事の方が向いているんじゃないかな。

 ふと気になって聞いてみた。


「自分で作るくらいならさ、IT企業に就職しようとは思わなかったの?」

「いくつか受けてみましたけれどダメでした。そもそも創造的な作業に向いていないんですよ」

「パソコンに詳しい人って、キーを素早く打ったり、ハッキングも出来ちゃうイメージがあるけれど」

「ハッキングですか!? どうだろう、やってみたこともないからなぁ。でも相手のことを知っていれば出来るかもしれませんね」

「どうして?」

「IDとかパスワードって、誕生日だったり電話番号だったり、その人のプライベートに関連していることが多いじゃないですか。だから相手との関係が近いほどセキュリティを破りやすい気がします」

「確かにそうかもしれないね」


 拭き終わった雑誌を藤崎君へ返した。ちょっと茶色い染みは残ってしまったけれど、読むのには問題なさそうだ。

 一瞬、藤崎君に佐々部長のプライベートを調べてもらえたらという思いがよぎったけれど、この件に関わる人は出来るだけ少なくしておいた方がいいに決まっている。

 あとで僕がちょっとでも疑われるようなリスクは犯したくない。



「ここの数値は棒グラフに、あの立体的なやつな。それと、ここは太字に変えて――」


 どうでもいいようなことを修正させようとする部長の言葉に対し、怒りよりも憎しみが湧き上がる。


(僕の大好きな仕事をお前なんかに奪われてたまるか!)


 平静を装いながら席に戻ってキーボードに向かう。

 胸の奥でくすぶる黒い炎が消えることはない。 



 ミキと約束をした日は半休を取り、午後から仙北市のふじみ台へ行ってみることにした。

 いちど家に戻って、厚手の長Tシャツとデニムに着替え、フードのついたパーカーを羽織った。着替えているときにベッド脇のコルクボードに貼ってある教会に目が留まった。あのとき見た言葉が頭をかすめる。

 でも、もう動き出したんだ。後戻りはしない。


 三時ちょうどに出て電車を乗り継いで、ふじみ台駅へ着いたのは三時五十分を過ぎたところだった。


(駅までの歩く時間や乗り継ぎも考えると、一時間はみておいた方がいいな)


 高架になった駅舎には改札が一つ。その正面の通路で北口と南口の左右に分かれる。

 先週の休みを利用して見に行った「木のビル」は北口だった。こちらは最近になり開発が進んでいる地区で、小規模ながら商業ビルや飲食店が建ち並んでいた。

 一方、南口にはロータリーがあるものの平日の夕方ということもあってか物静かな雰囲気だ。地図アプリを頼りに、ロータリーの右側から商店街へ入る。ここには何十年もやっていそうな洋品店や総菜屋さん、肉屋などがアーケードを挟んで向かい合っていた。

 五分ほど歩くと商店街を抜けて、左に緩やかなカーブを描いている坂道が続いていた。道の両側には木造の住宅や二階建てのアパートなどが連なっている。


(神社はこの先だな)


 スマホから顔を上げて少し上っていくと神社への参道が見えてきた。その先には……何と言ったっけ……そう、鎮守の森といったおもむきのうっそうと生い茂った木々が重なり合っている。

 鳥居をくぐってすぐのところに、その森へと上っていく石段が続いていた。

 おそらく丘陵地の斜面に神社が建てられているのだろう。

 石段の下まで行ってみる。

 まだ四時を過ぎたばかりだというのにこの辺りは薄暗い。


(あの道路からは石段の上の方が木に隠れて見通せない。突き落とすところを見られる心配はなさそうだ)


 いま来たばかりの坂道を振り返って眺めると、緩いカーブを描きながら高台の上へと向かっている。その先を目で追いながら正面に向き直った。

 まっすぐに伸びた石段を見上げ、数えながら登ってみる。

 全部で五十三段。マンションなら三階以上の高さになる。下から見るよりも勾配は急だ。途中に踊り場が一つあるけれど、一気に上りきると僕でも息が上がってしまった。


(これをお爺さんが上るとなると休みながらじゃないと無理なのでは)


 大きく深呼吸をしてから周りを見渡す。

 朱塗りの柱が色褪せ始めた社殿は、古いけれど手入れが行き届いていて寂れた感じはない。

 でも石段をこれだけ上って来なければならないからなのか、人影はまったくない。 社務所にも昼間の限られた時間帯にしか人がいないらしく、シャッターが閉まっている。

 社殿の右手から奥の方へと抜ける道が見えた。きっとお爺さんの家への近道となるのだろう。

 行ってみよう。


 幅が二メートルもない石畳の道を歩いていくと車が走っている道に行き当たった。

 たぶん、商店街を抜けたところの坂道がここにつながっているはずだ。地図アプリを立ち上げて位置情報を確認する。思った通りだ。


(これならこの神社を抜けていくのはかなりの近道になる。石段の上り下りは大変だけれど、必ず利用するというのも納得だな)

  

 神社の境内は道路よりも少し高くなっている。五、六段降りて歩道に立ち、ミキに教えてもらった住所を調べてお爺さんの家を探した。

 通りの反対側へ渡り、スマホを見ながら坂道を上っていくと、見るからにお金持ちといった家が現れた。

 瓦を乗せた白塗りの塀越しに見事な枝ぶりの松が見える。その向こうには黒光りする瓦屋根の寄棟住宅。

 時代劇に出て来そうな立派な和風の門には臼井と書かれた表札が掲げられていた。


(ここで間違いない)


 立ち止まらずに通り過ぎてから、遠回りをして神社へ戻った。今度はここを抜けて駅までの道のりを確認して、とりあえず下見は終わり。

 さて、いったん家に戻ってから今夜はミキと相談だ。

 駅の自動改札を通り、ホームに向かっていると突然、後ろから声を掛けられた。


「コンニチワ」


 振り返ると褐色の肌に白い歯が見える。満面の笑みを浮かべたズンさんだった。

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