第二十九話 偶然

 僕の名前を見てカオルと読む人なんて、まずいない。

 偶然なんだろうけれど……。


「いえ、かおりです」

「あぁ、すいません、そうですよね。山瀬さんが素敵な女性なので、なんとお読みするのか気になってしまいまして。女性でもカオルという方はいらっしゃいますが、あれはくさかんむりのかおるという字ですよね」


 頭を下げた三木さんだけど、にこりともせず、初対面の場を和ませるために言ったとは到底思えない。

 ちょっと変わった人みたい。

 ともかく三木さんと一緒に一件目のビルへ向かう。


「TMビルは三澄駅から歩いて七、八分ほどの所にあります。お送りした資料のとおり、築十八年ですが二年前に外装のリフォーム工事を行っています。室内についてもLED照明への改修が終わっているので、かなり明るい雰囲気かと思います」


 歩きながら説明をしているあいだも何か質問をはさむことはなく、僕の左斜め後ろを三木さんは表情も変えずについてくる。

 建設会社の方だから、この程度のことは知識として持っているのだろう。


「こちらがTMビルになります」


 八階建ての事務所賃貸を主としたビルで、外装の金属パネルを洗浄、再塗装しているから見た目は新築と変わりない。

 現在、空室となっている五階、六階を見てもらうためエントランスからエレベーターに乗った。


「こちらは一フロア当たり約二十八坪となっています。社員の方が二十名ほどということでしたので、二フロア借りとしてご提案しました」

「やはり一フロアでというのは難しいのですか?」

「そうですね。一フロアでとなると六十坪ほど必要になります。それほど規模の大きな物件はこの地域ではほとんどないですし、費用も割高となります。そのため二フロア借りで対応されるお客様が多いですね」


 このあとはタクシーで砂州さす駅前に向かった。

 以前、ケーエス・コーポレーションの移転検討の際にも紹介した砂州スクエアがまだ空室のままだった。ここも一フロア当たり三十二坪で三、四階の二フロア借りが可能なので、瀬田建設さんの条件には申し分ない。


「こちらは昨年建設されたばかりの物件です。いかがですか」


 室内をぐるっと見渡している三木さんに声を掛けたが会釈が返ってきただけだった。元々口数が少ないのか、質問されることがほとんどない。

 今まで経験してきた内覧とは決定的に違う点をTMビルの室内を案内しているときから気づいていた。我慢できなくて僕のほうから聞いてみる。


「写真はお撮りにならなくてよろしいんですか」


 内覧のときには担当者が写真を撮って持ち帰り検討することが当たり前のように行われている。家具の配置を決めるために寸法を測ることも多い。

 けれど三木さんはメジャーを持っているそぶりも見せず、写真を撮ることすらしない。

 本当に事務所移転を検討しているのだろうか。


「ええ。写真も事前に送られてきたもので充分です。資料を基に図面を作成してレイアウトもすでに検討しているので、今日は実際の印象や近隣について確認するつもりで来ています」


 そう言われれば、そうなのかなとは思うけれど。

 でももう一つ気になることがある。

 説明をして振り向くと建物ではなく僕を見ている気がする。室内や給湯室を案内したときもそうだった。

 会うなり「素敵な女性」なんて言われたから、ちょっと調子がくるって自意識過剰になっているのかもしれない。


「そういえば、当社のことはお知り合いの方からのご紹介だとか。差し支えなければどちらからのご紹介でしょうか? 当社からも御礼を申し上げたいので」

「大学時代の友人なんです。辺見と言いますが、会社は何と言ったっけ……シークエンス……そんな名前だったと思います」

(辺見さん……シークエンス? 記憶にないなぁ)


 担当した物件の写真を家に貼ってあるくらいだから、すべて覚えているつもりなんだけど。明日、会社に行ったらデータベースで調べてみよう。


 三木さんと別れてから会社へ電話を入れる。特に急ぎの要件もなく、佐々部長の話も出てこなかった。

 久しぶりの直帰なのに一人になるとあのメッセージを思い出してしまう。どこかへ寄る気にもなれず、いつもなら残業している時間には家でシャワーを浴びていた。



「おはようございます」


 翌日、いつものように挨拶をしながら執務スペースへ入ると何やら様子がおかしい。見ると部長席の廻りに何人か集まっていた。水野と金井さんの姿も見える。


「骨折といったってひびが入った程度らしいから、大げさにしないでくれよ」


 人の輪の中から佐々部長の大きな声が聞こえてきた。

 そっと水野の後ろに近づいてのぞくと、部長がいすに座ったままギプスで固められた左足をみんなに見せていた。テーブルには松葉づえも立てかけてある。


「でも一、二ヶ月はギプスも外れないんじゃないですか? その間は松葉づえってことですものねぇ。大変だわぁ」


 金井さんが部長の返答を待たずに畳みかけている。言葉ほど心配している感じはなく、むしろうれしそうなのは気のせいかな。

 それにしても部長が骨折したなんて……。いったい何があったんだろう。


「両手は何ともないし、脳も検査で異常がなかったから仕事は今まで通りこなせるさ。客先との打ち合わせだけだな、問題は」


 武勇伝を語るかのように佐々部長が笑い飛ばしたのを合図に、みんな席へと戻っていった。

 振り返った水野が、真後ろに隠れるようにしていた僕に気づいて驚いている。


「いつからそこにいたんだよ」

「ついさっき。それより佐々部長、どうしたの?」

「一昨日の火曜の夜に、家の近くにある歩道橋の階段から落ちたらしいよ」


(歩道橋の階段から落ちた!?)


 まさか、ミキが……。もしそうだとしたら失敗したってことだし、犯人として捕まっている可能性もある。どうしよう。

 でも彼女がやったなら、僕に届いたあのメッセージは誰が、何のために?

 もうわけが分からないよ。


「どうした?」

「いや、なんでもない。もし自分が落ちたら……って想像したら怖くなっちゃって。転んだのかな」


(それとも、突き落とされた?)


「うーん、かなり酔っていたみたいであまり覚えてないんだってさ。足首を骨折しただけみたいだから、下りているときに一段踏み外しただけかもしれないな」


 そうだよな。いくらなんでも歩道橋の上から階段を落ちたのなら、命を落とさなかったとしても腕や顔にもケガがあるはず。佐々部長の顔には傷一つなかった。

 歩道橋、火曜日の夜。これも単なる偶然なのかな。

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