第三十話 泥沼
佐々部長が自ら言っていたように、脳には全く影響がないようだ。
席に座っている姿は今までと全く変わらず、小太りの体型に似合わない派手めな高級スーツを着て、目の前に立たせた藤崎君へ高圧的な言葉を浴びせていた。
ミキへの失望感が増すにつれ、また以前の弱気な僕へと戻りつつある。
部長はその匂いをしっかりとかぎ分けて、僕に対する𠮟責も再び増え始めていた。
(これじゃ前と同じじゃないか。いや、部長が支店長になったら今までよりももっと悪くなる)
僕自身が変わらなければいけないのか、それともやっぱりあのメッセージ通りに次のパートナーを……。
どちらにしても荷が重い。
それにしても、部長の
酔って階段から落ちた、なんて恥ずかしくて人には言えないと僕なら思ってしまうのに、佐々部長は「階段から落ちても脚を骨折しただけの俺ってスゲー」的なノリで自慢話のようにふれ回ってるもんなぁ。
思ってもいなかった部長の骨折話のせいで、三木さんのことをすっかり忘れていた。
よつばエステートに入社して五年。これまでに僕が担当した案件は二十ほどで、会社名と担当者、紹介した物件と住所を写真データと共にExcelへ記録してある。
ファイルを開いて画面をスクロールしてみたけれど、三木さんが言っていたシークエンスという会社名はない。担当者の欄を見ても辺見という名前はなかった。
念のため会社のデータベースへアクセスして、「シークエンス」を検索しても「辺見」を検索してもヒットしなかった。
いったいどういうことなんだろう。
三木さんが単なる思い違いをしたのか。
会社名をうろ覚えというのは分かる。でも紹介してくれた友人の名前を間違うなんて……ちょっと考えられない。
そもそも紹介してもらったのが辺見さんじゃなかった、ってことなのかな。
それともわざと間違えた? なんのために?
最近はこんなことばっかりだ。
三木さんから初めて電話をもらった時も、資料をメールでやり取りしているときも真摯に移転先を探していると感じたのに。
なんだかすっきりしない。
*
ミキのことも、佐々部長のことも、交換殺人のことも、三木さんのことも、そして水野とのことだってモヤモヤしたまま時間だけが過ぎていく。
こうなったら一つずつ片づけていくしかない。
手始めはミキからだ。
金曜の夜になり、水野からの誘いも断って帰路についた。
今夜、あのサイトでミキと接触できなかったら、彼女に騙されたんだとすっぱりあきらめる。
更井駅の改札を抜けてコンビニへ向かった。今日もここで夕食となる野沢菜明太おにぎりと特製中華まん、豆腐サラダを買った。
レジには年配の男の人が立っていた。胸のプレートには「店長」斎藤と書いてある。
「あの、ここで働いていたズンさんが辞められたって聞いたんですが」
会計のときにダメもとで聞いてみた。
「ええ、まじめな青年だったんですがね。急に辞めてしまって」
「ここでいつも笑顔で話しかけてくれていました。なぜ辞めたかご存じですか」
「いやぁ、なんか他の仕事が見つかったと言っていましたけれど、詳しくは……。お金がないとぼやいていましたから、変なことに手を出していなければいいんですけどねぇ」
店長の斎藤さんにお礼を言ってコンビニを出た。
まさかお金のために誰かにそそのかされてあのメッセージを送りつけ、僕を恐喝⁉ そんなことをあのズンさんがするなんて思いたくもない。
一つずつ片をつけるつもりが、いきなりつまづいてしまった。
とにかく、まずはミキの痕跡を探そう。
気を取り直してネットカフェへの階段を上る。
こちらの店長は相変わらず大きなヘッドホンを耳にかぶせ、僕に気づくこともなく手元のパソコンで何か作業をしている。
受付を済ませ、ブースへ入るとすぐにパソコンを立ち上げた。起動するのを待ちきれずにキーボードへ両手を置く。
ブラウザのトップページが表示され、アドレスを打ち込んでエンターキーを叩いた。モニターが切り替わる。
『あなたが殺したい人は誰ですか』――すべての始まりは、この闇サイトだ。
まずは掲示板をマウスでスクロールしながら順に目で追っていく。
ここに残されたスレッドにはミキの名前はどこにもなかった。
僕が最後に書き込んだのも二ヶ月ほど前だから、もう消えている。さかのぼってログイン履歴やIDを調べる技術は僕にはない。
彼女を追う手掛かりはなくなってしまった。
(僕の他にミキと接触している人がいるだろうか)
すがる思いでチャットルームに「ミキを知っている人」という部屋を作った。
誰かが来てくれるのを待つ間に、ミキが殺したがっていた『臼井順二』の名前で検索をしてみる。
あくどいことをしていたなら何かしら引っ掛かるかもと期待をしたけれど、
(ここからもミキにつながる手がかりはないのか。待てよ……)
なんで最初に気がつかなかったんだろう。
臼井老人は地元を中心に不動産を扱っていた。よつば
僕の中の黒い妄想はさらに膨らむ。
初めてミキから臼井老人の話を聞いたとき、本当にあった話だとは思えなかった。
彼女から他にも話を聞くうちにそれを信じたけれど、僕が最初に感じたとおり、もしもあれが嘘だったら……。
誰かが別の理由で臼井老人を殺したかった。ミキという架空の存在を作り上げて僕に近づく。
それが社内の人なら僕のことも知っているし、佐々部長のことだって簡単に詳しく調べられる!
あぁ、だめだ。何もかもが信じられなくなっている。
こんな筋書きだとしたら、あの「ツギハオマエノバンダ」というメッセージには何の意味がある?
ズンさんのことにしろ、この話にしろ、何も確証はない。みんな僕の妄想だ。
まわりの気配だけを感じる狭くて静かなブースの中で、大声で叫びだしたい気分。
もう二時間が過ぎた。
チャットルームには誰もやってこない。
ミキは僕の前からあとかたもなく消えた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます