第三十四話 眼前
藤崎君は以前から思わせぶりなことを言っていた。「決心したんですね」とか「もう終わったんですか」とか。
彼はパソコン製作が趣味というくらいだし、佐々部長が秘密にしていたインスタも探し出した。「ハッキングできるの?」なんて、僕から藤崎君に振ってしまったことが悔やまれる。
僕の住所だって彼なら簡単に調べられるだろう。
そして誰よりも――僕と同じくらい、佐々部長を憎んでいるはずだ。
まずは彼を問いただしてみよう。
翌日、昼休みにはいるとすぐに藤崎君を捕まえた。
会社終わりにとも思ったけれど、もし彼がミキではなかったときのことを考えるとうかつなことは言えないし、ここで探りを入れてみる。
「ちょっと話があるんだけどいいかな。五分もかからないから」
「構いませんけど。何ですか」
お昼を食べに行くところへ声をかけて、給湯室へと促した。
彼に動揺している素振りはない。
「この前さ、僕に『もう終わったのか』みたいなことを言ってたでしょ。あれはどういう意味?」
「えっ、いや、どういう意味って……」
「その前には『もう決めたのか』って言ってたよね。僕のことなら全部分かってるみたいなことも。いったい何を知ってるっていうの?」
「あのぉ……いいんですか、言っちゃっても」
藤崎君は廊下を通る人の気配を伺うように首を伸ばし、左右を見渡した。
僕に向き直ると、ハンドタオルを取り出し眼鏡を持ち上げて顔の汗を拭いた。
(え、まさか本当に彼は知ってるの?)
内心ではかなりびくつきながら黙ってうなづくと、彼は上半身を僕の方へ乗り出すようにして小声で言った。
「山瀬さん、会社を辞めるんですよね」
はぁっ? 何言ってんだ、彼は。
「佐々部長のパワハラに耐えられず、この会社を辞めると決心したのが僕には分かりました。いつからだったかな、とてもすっきりとした表情になってましたよ。山瀬さん、思ってることがすぐ顔に出るから。それが三週間くらい前だったかな、今度は自信に満ち溢れた感じへと変わりました。すでに新しい会社の面接も終わった。そうでしょ?」
あぁ。とんだ勘違いをしてたんだな、彼は。
勝手に妄想して僕のことを分かった気になっていたという訳か。
「でも最近はまたちょっと悩み始めたようだったので、辞めることを部長に言うタイミングで迷ってるんだとばっかり……違うんですか?」
僕の反応を見て、さすがに彼も自分の思い込みだと気づいたのかな。
「会社、辞めるつもりはないから」
「えぇっ! そうなんですか⁉」
大きな声をあげてしまって慌ててまわりを見渡している藤崎君に「変な噂、立てないでよ」と念押しをする。
この驚きっぷりはとても演技とは思えない。彼は僕が会社を辞めると本気で思っていたようだ。
大人しい彼だから、このことをほかの誰かに話してはいないだろう。
これで藤崎君は関係ないことが分かった。
残るは総務の金井さんだけど、あのお局様が僕を利用して佐々部長を殺させようとしているなんて、どうしても思えない。
でも確かめなきゃ先には進めない。
彼女と話をするなら、やはりお昼休みがいい。明日はお弁当を作ってこよう。
午後は佐々部長と一緒に須崎ロジスティクスへ打合せに行かなければならない。打合せと言っても僕は資料を持っていくだけで、説明などはすべて部長が行う段取りになっている。
準備を終えて時計を見ると、会社を出る予定の一時半にはまだ十五分ほどある。
(三木さんからその後は連絡がないけれど、検討は進んでいるのかな)
確認のため電話を入れてみることにした。
受話器を取りプッシュボタンを押していると、部長席に藤崎君が呼ばれているのが目に入った。
『はい、瀬田建設です』
「よつばエステートの山瀬と申します。三木様をお願いします」
『あいにく三木は外出しており、帰社予定は四時となっております』
一瞬、移転を担当しているほかの方に代わってもらおうかと思ったけれど、検討中は出来るだけ内密にしたいと言っていた三木さんの言葉がよぎり、あらためて連絡する旨を伝えて電話を切った。
藤崎君はまだ部長席の前で立っている。
「あの、そろそろ出かける時間ですが」
佐々部長に声をかけると、藤崎君との話を切り上げて松葉づえに手を掛けた。
いつもひょうひょうとして部長の話を聞き流しているのに、いま立ち去ろうとしている藤崎君の背中はやけに小さく見えた。
「何かあったんですか」思わず聞いてしまった。
「ん? あぁ藤崎のことか。異動の内示ってやつだ。正式には年明けだけどな」
佐々部長は目を細めながら鼻で笑った。
「転勤にならなかっただけでも感謝してもらいたいもんだ。そうそう、支店長とも相談しているから次はお前の番だ」
両脇に松葉杖を挟んで立ったまま、後ろにいる僕へ顔だけを向けてニヤリとした。眼鏡越しの視線からは意地の悪さしか感じない。
(やっぱり異動になるのか!? それと部長が言ったのは僕も同じ立場になる、って意味だよな。だとしたら……)
部長の言葉が胸に引っ掛かったまま会社を出た。
佐々部長がタクシーに乗り降りするのも僕が手伝わなくてはならない。
異動の話を聞いたばかりだし、なんでこんなことまでしなくちゃいけないんだという思いがどうしても頭から離れない。
そんな僕の気持ちを思いやることなどあるわけもなく、部長は骨折したことを相手方への話のつかみに使っていた。「大変ですね」「そんなときにわざわざお越し頂いて」と言葉を掛けられるたび、「いえいえ、これが仕事ですから」とまんざらでもない顔で答えている。
須崎ロジスティクスとの打ち合わせも順調に進んだ。先方の感触もよく、支社の移転について前向きに検討してくれそうだ。
結局、僕は一言も発言しなかったけれど、いろいろ言われながらも資料を作成した身としては交渉が上手くいけばやはりうれしい。
道路の反対側に行って帰りのタクシーを拾うため、横断歩道へ向かう。佐々部長はまだ松葉杖になれていないせいか、後ろから見ていると歩く姿が危なっかしい。そんなことは気にせず、本人も今日の手ごたえがあるのか上機嫌だ。
「この怪我も脚でよかったよ。頭なんか打ってたら、我が社の大きな損失だったぞ」
軽口をたたきながら僕の先を進んでいた佐々部長が、まだ赤信号の横断歩道へ差し掛かったときだった。
道路の方へ体の向きを変えようとして、部長は路面に敷かれた点字ブロックの凸部で松葉杖を滑らせてしまった。ちょうどそこは車道との段差をなくすために、やや勾配のきついスロープになっていた。
バランスを崩した部長はスロープに痛めていない右足をついたけれど、こらえきれない。たたらを踏むように横断歩道へ頭から倒れていった。そこへクラクションを鳴らしながら白いトラックが向かってくる。
僕の目の前でスローモーションのように佐々部長の体が宙に舞った。
我に返ると、辺りにはタイヤのゴムが焼け焦げた匂いが漂っている。急ブレーキをかけたのだろう。
数メートル先には体をくの字に折り曲げるようにして部長が横たわっていた。さらにその先に二本の松葉杖が落ちている。
部長の眼鏡は吹き飛び、顔を背中の方に向けるほど首を回して、瞬きもしない視線を僕の方へと注いでいた。
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