第二十一話 罵倒
佐々部長が打ち合わせのために直行していたこともあり、午前中の社内には穏やかな時間が流れていた。
藤崎君のおかげで、まだぎこちなさは残っているものの水野とも気まずい空気にはならずに済んだ。
モニターに向き合いながらもミキの言葉、臼井老人の顔、そして水野の温もりが浮かんでいく。
(今夜、ミキと会うまでにはもう一度、自分の気持ちをはっきりさせないと)
キーボードを打つ音が耳の奥まで入ってくる。
でもそれはかりそめの静けさに過ぎなかった。
午後になり外出した支店長と入れ替わるように佐々部長が帰ってきた。
机に荷物を置くなり、大きな声を張り上げる。
「山瀬、ちょっと来い!」
不機嫌さを隠そうともせず、遠くから僕をにらみつけていた。
午前中に部長が持って行った資料は確かに僕が作ったものだ。でも、先週の段階で部長自らがOKを出している。
また何か言い掛かりをつける気か。
うんざりしながら部長席の前に立った。
「はい、なんでしょうか」
部長は何も言わずに資料を机の上に放り投げた。
「五ページのアンダーライン、読んでみろ」
肘をついた右手でかたむけた頭を支えながら、押し殺した声で凄んでいる。
言われた通り資料を開いて赤い線を目で追った。
「なんて書いてある」
「『傾向がみれます』となっています」
これか……。ら抜き言葉になっている。佐々部長がいつも突っつくポイントなのに、このときは僕も見落としてしまったんだな。胃がキリキリと痛みだす。
この後に延々と続く嫌味を覚悟してうなだれた。
「だよな。今までに俺が何回注意した? この前も言ったよな、俺が一から十まで全てを見なくちゃいけないのか、って。俺が全部やらなくちゃいけないなら、お前の存在ってなんだ? いらないよな。結局は俺がやるなら、お前なんかいらないんだよ! とっとと辞めちまえっ! 給料を返せ!」
僕へ説教している間に興奮してきたのか、佐々部長の声が徐々に大きくなって、最後のひとことは腹の底から怒鳴るようにぶつけてきた。
その反動で執務スペースにいる人たちの動きがすべて止まり、一瞬の静寂が訪れた。
背中にもみんなの視線を感じる。
(そこまで言わなくたっていいじゃないか)
喉元まで出かかった言葉を飲み込み、こぶしを握り締めた。
「部長、そこまでおっしゃらなくても良いのでは」
割って入ってきたのは水野の声だった。
振り返ると、ヤツと目が合った。
「ミスはミスとして注意をし、改善を促せばよいだけのことです。
「なにぃ? お前はこいつの肩を持つのか」
「そういうことではありません。他の者も委縮してしまうので言動には――」
「随分と偉そうなことを言うじゃないか。お前もこいつみたいに、ここでは働けなくなるぞ。分かってるのか?」
言葉に詰まった水野の前に半歩出て、頭を下げた。
「今回の件は私のミスです。部長にご迷惑をお掛けして申し訳ありませんでした」
もう一度、深々と頭を下げて足早に席へ戻った。
当事者の僕がいなくなれば水野も引き下がるだろう。僕なんかのためにヤツまで巻き込みたくない。
様子をうかがっていた人たちもそれぞれの仕事に戻っていく。
それにしても、もう支店長にでもなったかのように脅してくるなんて……。仮に支店長だったとしても、あんな風に人を罵倒して恫喝するやり方が正しいわけがない。
やっぱり最低な男だ。あの男をトップの座につけてはいけない。
部長が席を外したタイミングで水野には謝っておいた。「気にするな」と優しく笑いかけてくれたけれど、ヤツの気持ちに甘えるわけにはいかない。
呑みに行く誘いも断り、部長から押し付けられた仕事を黙々と進めて、残業を終えたのは七時半だった。
(ミキと約束した九時には、ぎりぎり間に合いそうだ)
更井駅の改札を出たのは八時半過ぎ。たしか先週も同じ時刻の電車に乗ってきた気がする。
いつものようにコンビニへ寄ると、今日もズンさんが「イラシャイマセー」と迎えてくれた。あんな風にいつも笑顔でいられたらなと、彼を見るたびに思う。
今夜は気分を変えてチョコクロワッサンとチーズデニッシュを選び、野菜ジュースと一緒にカウンターへ差し出した。会計が終わると、ズンさんが声をかけてきた。
「アー、ジカンアリマスカ」
いったい何だろうと思い「少しだけ」と答えると、なにやらポケットから紙を取り出し、拡げて見せた。
そこには妙に角ばった直線状のカタカナで『ナニガスキデスカ』『オカネアリマセン』と二行に分けて書かれている。
「アテマスカ」
(ん?……あぁ、合っているか、ということか)
日本語としては合っているけれど、意味が分かっているのだろうか。
「あー、in English、What do you like?、I have little money、分かりますか」
ベトナムの言葉なんて分からないから、とりあえず英語で言ってみた。
ズンさんはちょっと考えるそぶりを見せたが、すぐにいつもの笑顔になった。
「オー、OK! アリガトゴザイマス」
なんだかよく分からないけれど彼の役には立ったらしい。
しかしコンビニの店員さんと、しかも外国の方とこうして言葉を交わすようになるなんて思ってもみなかった。
だからといって、それだけで心が通じ合うわけじゃない。言葉だけじゃない何かをお互いに感じて、相手への思いやりや尊重が生まれてくるはずだ。
その
はっきりとした黒い思いを抱えて、ネットカフェへ向かった。
(また気づいてないし)
先週はヘッドホン無しで接客していた店長の新井さんが、もう以前の恰好に戻っている。まぁこの方が店長さんらしいと言えば、らしいけれど。
視界に入るように回り込むと、ヘッドホンを外しながら慌てて顔を上げた。
「いらっしゃい、山瀬さん」
「あっという間にヘッドホン装着へ戻っちゃったんですね。まだ一週間ですよ」
「結局はさ、暇なんだよね。お客さんがくるまでの
悪びれた様子もなく受付作業を進める店長さんに、こちらが苦笑してしまう。
ミキとの約束にはまだ時間があるので、ブースに入って買ってきたパンを頬張りながらパソコンを立ち上げた。
するとブラウザのトップページに表示された、小さな記事が目に入った。
(ここの近くじゃないか)
更井駅から三駅隣の住宅街で、歩いていた女性が知らない男に背中を切り付けられたらしい。
傷は浅く、命には別条がないようで、犯人は今も逃走中と書かれている。
(この犯人は相手を殺すつもりだったのかな)
(刃物で人を切りつけるってどんな気持ちなんだろう)
僕はこの男とは違う、そう思いながら『あなたが殺したい人は誰ですか』へアクセスした。
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