第3話(過去) 要塞フィグネリア陥落-2

 ナッツは無事だ。

 白衣官の女性に護られるようにして地面にへたり込んでいる。

 しかし、彼女の手が暴食鯨ウポル・ガルを押しとどめているわけではない。

 彼女の手には、武器すら握られていない。そもそも、一人の人間が暴食鯨を力で押しとどめることなどできるはずがない。

 ではどうやって。

 トールスは、時が止まったかのようにその場に静止する暴食鯨の顎の中で、青白く輝く異物を見つける。

 直感的に、彼はそれを盾だと認識した。

 大人一人を軽く覆い隠せるほど巨大な六角形の光り輝く盾。それが上下に二つ、暴食鯨の顎を閉じる直前で押しとどめていた。

 不思議なことに、その盾は彼女の手を離れて宙を浮いている。


 神術オーセンティケート


 トールスは、その女性と宙に浮く盾がまとう青い光を目にして理解した。

 この世に存在する多くが未知に包まれた二つの力。


 神術オーセンティケート詐術クラック


 彼女は間違いなく、教皇庁が掌握しょうあくするその神秘の術の使い手であった。


「危ないですから下がってください!」


 女性は口にする。

 大声というわけでもないのに、よく通る澄んだ声だった。戦場に在りながら、どこか安堵を感じさせるほどに。

 しかし、腰が抜けたのかナッツは地面にへたり込んだまま動く気配がない。

 それを見たトールスは壁壕をよじ登って駆けだす。

 隊長としての責任感と、若い命を救いたいという単純明快な想い。そして、目の前に突然現れた可憐な介入者への張りたい無意識的な虚勢が混ざり合い、トールスを突き動かしていた。

 暴食鯨の巨体に近づくほど、その威圧感から背中に汗以外の何かと勘違いするほど粘りつく不快な湿気が吹きだす。

 いつ動きを止めている暴食鯨がこちらに振り向き、喰らいついてくるかもわからない。

 鼻孔を突き刺す鉄サビの匂いはどんどんと濃くなる。生臭い肉食獣の呼気もだ。

 トールスの意識がその悪臭にそれた一瞬。

 左の視界の端で白く巨大なモノが映った。

 それが何か。気がついた時には全てが手遅れだった。

 暴食鯨の巨大な尾。

 邪魔者をなぎ払うようにくりだされたそれに対し、トールスにとれる行動は何一つなかった。


(死ぬ―――)


 心の中でつぶやき、前に蹴りだした右足が地面に着くまでの時間が気の遠くなるほど長く感じた。

 トールスの右足は地面を踏みしめ、その勢いのままに左足を前へと蹴りだした。

 そのまま走り続ける。

 予想していた衝撃はいつまで経っても襲ってこない。

 痛みを予期して強張った肩と首の筋肉が突っ張ったように痛い。

 しかしそれだけだった。

 ナッツの首根っこをつかんでから、トールスはようやく事態を把握した。

 無数の盾が、まるで古代の重装歩兵のように整然と横列を組み、巨大な尾を受け止めていた。


「すまない、助かった!」


 トールスは思わず、暴食鯨と向かい合ったままの彼女の背中に声をかける。


「その方をよろしくお願いします」

「わかった。それよりそっちは大丈夫なのか?」

「―――わかりません」

「えぇっ……」


 あまりに呆気ないその返答に、トールスは思わず情けない叫びをあげてしまう。


「実は、この力をこうして使うのは随分ひさしぶりなものですから」


 彼女は息を整えながら応える。

 目の前の暴食鯨は、何とか神術の盾による拘束から逃れようともがいている。

 奴の口から吐き出される悪臭がいっそう生々しく感じられた。

 背筋を走る恐怖が、足に逃げようと訴える。

 しかし、トールスの口からはそんな本能とは異なる言葉が飛びだした。


「俺の隊で支援する。じきに助けがくるはずだ。それまで何とか持ちこたえてくれ」

「いえ、それよりすぐに離れてください。私のことは気にしないで―――」

「馬鹿を云うな、命の恩人を見殺しにできるわけないだろう!」

「隊長!」


 トールスの意志に応えるように、駆けつけた分隊員達が暴食を取り囲むように銃を構えた。


「第三分隊は白衣官殿を支援し、暴食鯨の制圧を行う! 一斉射用意。目標、敵、口内! 撃てェッ‼︎」


 暴食鯨を抑え込む彼女の左右から、神術の盾に押しとどめられ半開きになった口内目がけて一斉射が放たれる。

 どれほど外側を硬く守っている生物でも、内側はもろい。いや、もろいがゆえに外側を守っているはずだ。

 トールスは自らに云い聞かせる。その勘の正しさを証明するように、暴食鯨から苦悶ともとれる咆哮があがった。


「デカブツの尻尾に巻き込まれるなよ! 全員、距離に注意しろッ」


 暴食鯨はいまだ顎に盾を挟んだまま首から下で暴れまわる。

 宙空に静止した神術の盾はまるでその場所に固定されたように、いくら暴れようとも奴の顎を捕らえ続けていた。

 足元の砦に激震が走り、砂埃が舞いあがる。

 分隊にわずかならぬ動揺が走るが、決して士気が崩れることはなかった。

 彼らは、自分たちを守るために先頭に立つ一人の女性に、ただただ恥じぬ戦いを貫こうと奮起していた。

 初めの斉射ののちは、各自が散発的に射撃を続ける。ただひたすらに。

 暴食鯨は、巧みに操られる神術の盾から逃れようと暴れ回りながらも顎を外すことができず、弱点である口内を常に晒し続けていた。

 彼女の度胸に感謝しながら、トールスは永遠とも思える時間の果てに、十度目の射撃を放った。

 それが最後だった。わずかな痙攣けいれんののちに巨体がゆっくりと壁上へ崩れ落ちる。

 その瞬間トールスは、まるで辺りが静寂に包まれたかのように錯覚した。

 わずかな間をおいて、神術の盾は大気に溶けるように消えていった。同時に、力を使い果たしたのか、彼女はその場にへたり込んだ。


「やったのか……?」


 トールスのつぶやき。直後、周囲から暴食の咆哮にも負けぬ歓声が湧きあがった。


「すっげぇッ! 俺たち、あんなバケモノを倒しちまったっすよ!」


 いつの間にか、トールスの隣で戦いに加わっていたナッツが拳を握りしめながら満面の笑みを浮かべていた。

 トールスは思わず苦笑し、ナッツの頭を軽快な音を立ててひっぱたいた。


「調子に乗るな馬鹿。お前、敵前逃亡は銃殺刑だぞ……。結果的に事なきを得たから良いものを。ほら、失態を黙っていて欲しかったら、彼女にちゃんと礼を云ってこい。分隊は周囲を警戒、白衣官殿をお護りしろ!」

「うぇ、りょ、了解っす……」


 ナッツは今頃自身の失態を理解したのか、顔面を蒼白にして前へと踏みだした。


「その、白衣官のあねさん。助けてくれて、ホント、助かったっす。マジで、ありがとうございましたっす」

「ったく、なんだその言葉遣いは。新兵訓練からやり直しだな。……えっと、俺からも隊を代表して礼を云う。本当に助かった。ありがとう」

「いえ、こちらこそ。皆さんが無事でよかった」


 トールスが差しだした手をとって、彼女はゆっくりと立ち上がる。

 その手は小さく美しかったが、決して無垢ではない苦労が刻みこまれた硬さがあった。

 改めて向き合った彼女の姿を目にして、胸が強く締めつけられる奇妙な感覚に言葉がつまった。

 風に流れて金色にきらめく髪が、戦いの中で流れた汗の伝う白い肌にはりつく。安堵したように細められた目の中でエメラルドグリーンの瞳が本物の宝石のように輝いていた。

 これほど美しい戦乙女がいるだろうか。

 彼女を絵画か彫刻で表現できれば、後世に名を残す大芸術家になれるだろう。

 学もないくせにガラにもないことを考えだした自分に気がついて、トールスは思わず頰が熱くなるのを感じた。


「アンタ、白衣官なんだよな……?」

「いえ、私はただの孤児院の修道女シスターです」


 優しげに浮かべられた微笑みは、慈愛とともに暖かくトールスの心を包みこむ。


「俺の名前はトールス。トールス・マグニムだ。アンタの名は……?」

「私は―――」


 彼女が口を開こうとした時だった。


「レジーナ・ブルーウィル。貴様、どういうつもりかッ!」


 怒声とともに現れたのは、彼女と同じ純白の外套を身にまとった集団だった。

 ただし、顔に影差すフードを目深に被り、口元を布で覆っているという点において、非常に怪しい集団である。

 先頭の男は目元だけでもわかるほどの怒りと緊張ぶりだった。

 どうやら戦場に慣れていないらしいな、とトールスは冷ややかな目で彼らを評価した。緊張に神経をすり減らして気が立っている様子が誰の目から見ても明らかだったからだ。


「―――はぁ、もう、うるさいなぁ」

「何だとッ!?」


 トールスは一瞬、そのつぶやきを発したのが誰であるか気づくのに遅れた。

 レジーナと呼ばれた彼女の声色が、さきほどとは一変して冷たく無機質だったからだ。


「出すぎた真似をするな! 貴様の力は貴様のモノではない。以後、作戦外での神術の行使は離反行為とみなし、処罰の対象とする。いいか、次はないと思えッ」


 男の言葉に、レジーナはただ黙ってまっすぐ相手を見返す。


「なんだ? その反抗的な目は―――」


 その言葉は、彼女の地面を踏みつける音でかき消された。

 それは、暴食鯨の咆哮に勝るとも劣らぬ迫力でもって周囲を沈黙させる。

 彼女は身体に神術の輝きをまとい始めた。

 青白い輝きとともに、彼女の周囲、頭上に無数の盾が出現する。

 その異様は、それがなんたるかを知らない者すらも直感的に理解させる圧倒的な神々しさがあった。


「さぁ、何をどう罰するって? 私は教皇庁との取引に応じてここにいる。アンタの個人的な趣向に付き合う義理はない。こちらが大人しくしているからといって図に乗るなよ、

「貴様ッ、歯向かう気か!」


 殺気立った白衣官達が、リーダーらしき男を守るように前へ出る。


「待てよアンタら。今はそれどころじゃないだろう」


 にらみ合う双方の間に、トールスはレジーナをかばうようにして割って入る。


「見てわからないか? 深層の眷属の襲撃中だぜ。死にたくなけりゃ、こんなところで人間同士争っている場合かよ」


 周囲の状況。襲撃の第一波は何とか無事撃退しつつある様子で、戦場に慣れたトールスとしては特に危機的と感じているわけでもなかった。それでも戦闘が完全に終わったわけではない。


「い、命拾いしたな、小娘。まぁいい、どうせ長くてあと数日の命だ。“羊”である貴様が与えられた役割を全うすると誓うのならば、今回のことは見逃してやる」


 白衣官の男は脂汗をにじませながら一方的に吐き捨てると、司令塔に向かって歩きだす。

 トールス達はその後ろ姿を見送った。


「ごめんなさい。面倒ごとを起こしちゃって。それと、止めてくれてありがとう」


 まるで化粧を落としたかのように、先ほどの剣幕のなりを潜めたレジーナが謝る。


「大したことじゃないさ。戦闘ももう終わりだ。そんなことより、レジーナ。それが君の名前か?」

「えぇ、レジーナ・ブルーウィル」

「良い名だ。響きが良い。それにしても、こういっちゃなんだが、随分と雰囲気が変わるもんだな?」

「重ねてごめんなさい。頑張ってとりつくろってたんだけどね。いろいろ我慢を溜め込んでて。アイツ、ここに来るまでの道中でもずっとうるさくって。つい頭に血がのぼっちゃった」

「詳しい事情は知らないが、まぁ、ああいう頭ごなしの上官がムカつくってのはわかるよ」

「でも、啖呵たんかを切ったら、おかげで少しだけスッキリしたわ。こんな血みどろの戦場でそんなこと云ったら怒られてしまうかもしれないけど」

「今日生き残れた奴は、そんな小さなことにケチをつけたりしないさ」

「そうかな? ありがと」


 トールスの言葉に、レジーナは小さく微笑んだ。

 さっぱりとした彼女の口調に似合う、爽やかな屈託のない笑み。

 その笑顔は、トールスの彼女に対する第一印象を裏切るものではなく、むしろその時に気づいた魅力をいっそう輝かせているように思われた。

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