第2話(過去) 要塞フィグネリア陥落-1
レイフとトールスの出会う約一ヶ月前。
ここは、大陸西方最大の国家・帝国フィードレフの国土と、人類の生活圏を切りとりながら侵食を続ける
トールス・マグニムは、まだ少年と呼べる頃にこの要塞に
昨年から壁上警備第三分隊の分隊長を任命され、部下との慣れないやりとりに苦労しながらもやりがいを感じる日々を送っている。
外環要塞は山岳地帯の合間に位置し、谷を塞ぐように造られた横に長い構造物だ。
その姿は城というよりも壁に近く、深樹海という外圧を押しとどめるダムのような役割を担っている。
「今日も暇っすねぇ。ホントに、深層の眷属なんて来るんすか?」
トールスは使い慣れた
先ほどから小さな
「おい、ナッツ。無駄口を叩くんじゃない。……っておい! お前何やってるんだ⁉︎」
トールスが振り向いた時、ナッツは要塞の縁にある塀の上を歩いていた。
要塞フィグネリアの全高は百五十メートルを超える。
向こう側に落ちればはるか下の深樹海まで真っ逆さま。その結果どうなるかは説明するまでもない。
「馬鹿か、お前! そんなに死にたいのか!」
「大丈夫ですって、意外とこの塀広いですし。眺めもいいし、風が気持ちいいんすよね。ってか、下は深樹海っすから、落ちても何とかなるんじゃないっスか?」
トールスは彼のあまりに考えなしなモノ云いに頭痛を覚えて額を押さえる。
「最近のガキは……。 深樹海っつって、あれは水じゃない。
「へぇ、見た目はほぼ海っぽいっすけど。でも、深層の眷属の奴らはスイスイ泳いでるじゃないっスか。それってズルくないっすか?」
「ズルいってなぁ……。奴らはそういう生き物。俺達はそうじゃない生き物。ただそれだけだ。そもそも、下が海だろうがこの高さじゃ助からねぇよ。いいからさっさと降りろ。胃が痛くて穴があきそうだ……」
深層の眷属は、見た目は海洋生物や水棲生物にひどく似た生命体だ。
普通の生物と異なる点は、種々異なる個体が集団となって人類を襲うこと。襲うという行動には、捕食とそれ以外の両方の意味が含まれる。
深層の眷属は大気中に無数に存在する目に見えないほど小さな物質、
人間を超える体格、数、そして深気の中での運動性。
そんな宿敵とも呼べる存在と、帝国民は歴史の記すかぎり延々と生存競争を続けている。
ただし、そんな敵を前にしても全高百五十メートルを誇る要塞フィグネリアは、トールスの知る限りにおいてはびくともしなかった。
「バカをするならせめて反対側にしとけ。あっちなら、運が良ければ酷い骨折ですむ」
要塞の最上層である壁上層は、馬車であれば十台が横並びで走っても全く余裕があった。
深樹海と反対の側には一段低い層があり、物資輸送用の気動列車が走る線路が敷かれていた。砦運用のための大動脈が構築されているのだ。この線路は中央で昇降機のある物資集積場と繋がり、その最下層である地上からは帝都に向けた鉄道線がはるか東方へと続いている。
本来であればその鉄道線は砦を西にくぐって西方へも広がっていたのだが、深樹海に覆われて以降は閉鎖されて久しい。
トールスがこの要塞に初めて訪れた時、地上の列車から見上げるその巨大さに馬鹿みたいに口を大きく開けて感心したものだった。
その頼もしさは新兵の頃の彼にとっては何モノにも代え難い勇気の源だった。
「俺が来てから何度か
塀からぴょんと飛び降りながら、ナッツは気の抜けた様子でぼやく。
彼の云う通りこのところ数週間、奇妙なほど深層の眷属の活動は息を潜めていた。
しかし、ある日突然、深樹海が引いて深層の眷属がいなくなるなんてことはありえないのだ。
「気を抜くなよ新兵。深樹海に出ている偵察隊からは、かなり近い距離まで敵の大群が迫っているという話もある。いつ敵が迫ってきても、全力で走れるようにしておけ」
「全力で走るって、逃げるんすか?」
「馬鹿野郎、俺たちは見回りだ。お前の仕事は、異常を見つけたら真っ先に要塞司令官殿に状況を知らせることだろうが」
「異常って、例えばあんな感じのやつっすか……?」
ナッツは相変わらず緊張感のない顔つきで深樹海の方角を指差した。
先ほどまで穏やかだった深樹海が波立っていた。
深気が発する淡い青色の光が集まることで、海原とはまた一味違った青が生まれる幻想と混沌に満ちた世界。
その深樹海が今、嵐の前兆のように波立っていた。
ナッツが指差す先。
地平線の彼方に山のようなものが見えていた。
その姿はまだ遠く、はっきりと見てとることができない。
しかし、ここからあんな形で確認できるような標高の山岳は存在しないはずだった。
遠目に見るだけならばほんのわずかな異変。しかし、トールスの直感は激しく反応した。
「ナッツ、伝声管だ。走れっ!!」
怒号のような叫びに尻を叩かれナッツは近くの
壁壕は、壁上の淵に作られた肩の高さほどの溝だ。基本は戦闘時の
ナッツの報告からわずかな間をおいて、要塞中に警鐘が鳴り響いた。
「第一種警戒警報発令! 第一種警戒警報発令! 深気の上昇指数は毎分500mm。推定最大気位は未知数。総員、臨戦態勢で待機せよ! 繰り返す―――」
馬に乗った連絡員達が周囲の兵に向かって大声で叫びながら走り抜ける。
皆その声に浮き足立ちながらも決められた持ち場へと駆けだして行く。
トールス達も銃を手に近場の壁壕へと駆け込んだ。肩の高さほどの壕に身を隠し、壁面に切られた射撃用の狭間から深樹海の様子を確認する。
眼下の深気がうち寄せる波のように舞いあがり、要塞の半ばの高さをすでに超えていた。
「隊長、もうあんなに深層の眷属が……」
ナッツが壁壕の縁から身を乗り出して壁下を覗きこむ。
群青色の奥底で黒い魚影のようなものが群れをなし、まるで獲物を探し求めるかのように泳ぎ回っている。
「馬鹿ッ、不用意に顔をだすな。跳び上がった奴らに鼻先を食いちぎられるぞ!」
「でも、まだあんなに深気は低いっすよ。奴ら、壁に跳びつくくらいでこんなとこまでは―――」
首根っこをつかまれ引きずりおろされながら、ナッツはそう口にした。
その彼の姿に影が差した。
黒く大きな影。空を覆い隠すほどの巨大さ。
その影はトールス達の遥か頭上を越えてゆく。
「ッ……!? ―――撃てェッ!!」
トールスはとっさに命じた。
自分にとっても突然だった号令は、果たしてほとんど役には立たなかった。
ナッツを地面に放りだし、頭上を越えてゆく巨影めがけてなんとか銃口を向けた。
銃火。閃光と白煙を上げ、周囲まばらに銃声が起こる。
しかし、頭上を越えてゆく巨影は銃火の嵐などものともしなかった。
天をゆく巨鳥のように悠々と空を飛び、壁上に着地する。
足元を
そのあまりの巨大さに圧倒され、トールスの思考は麻痺を引き起こす。
身体だけが厳しい訓練で染みついた動きの通り、
しかし、腰の弾薬入れから取り出そうとした
そのとき初めて、トールスは自分の指先が震えていることに気がついた。
ゆらりとこちらに振り向いたその侵入者は、まるであくびをするようにゆっくりと口を開く。
鼓膜がやぶれんばかりの
不幸中の幸いか、その衝撃がトールスの思考を目覚めさせた。
目の前の光景が一気に脳へと流れこむ。
前に長く突きだした、人間など軽く一呑みにできるほど大きな
その中には鋭く大きな牙が二列でびっしりと並んでいる。
体表面は滑らかで白みを帯びており、鱗のようなものは見当たらない。
水生哺乳類のような巨大な翼状の胸ビレと、同形状の腰ビレがあり、その向こうで長く太い尾がゆらゆらと揺れている。
凶暴な生物たらんことを証明するように、こちらを見下ろす瞳の黄色は生態系の捕食者が被食者へと向ける鈍い輝きに満ちていた。
「
トールスは、悪名高い深層の眷属の名をつぶやいた。
次の瞬間、巨大な顎が動く。
不運にも壁上にいた伝令の兵士が一人。
騎乗していた馬ごと顎の中へと姿を消した。
叫び声は聞こえない。骨の砕ける音がわずかに耳に届いた。
たった一口、ほんの一瞬のことだった。
生々しい水音をたてながらトールスの目の前に何かが落下した。
それが千切れとんだ腕だと気づくと同時に、吐き気をもよおす鉄サビの臭いが鼻奥を突き刺した。
「くそッ、次弾装填! ナッツ、
トールスはこみ上げる吐き気を振り払うように叫ぶ。指揮をとりながら地面にへたりこむナッツへ振り向いた。
彼は目をむきだして
直後、顔面蒼白にしたナッツは言葉にならない叫びをあげながら走りだす。
彼が向かった先は伝声管ではなかった。
「おい、馬鹿ッ。 誰か、アイツを止めろ!」
トールスは部下に命じるが、壁壕の中はすでにそれどころではない状況になりつつあった。
暴食鯨が巻き起こした深気の上昇気流に乗って、小型の深層の眷属・
すでに辺りでは泥沼の激しい戦いが繰り広げられている。ナッツはその渦中を人にぶつかりながら無理矢理進んでいたが、やがて何を思ったか壁壕をよじ登り始めた。
壁壕から誰もいない壁上へ出て、司令塔に向けて走る。
しかしそれは獲物を探し求める肉食獣の鼻先に、血のしたたる新鮮な内臓をちらつかせる行為に等しい。
暴食鯨の黄色い瞳が、はっきりとナッツを追った。
トールスの背筋に
自分のもとにやってきたばかりの部下。その肉体が赤黒い液体を飛び散らせてあの顎の中に消える。
トールスはとっさに銃の引き金を引く。せめても抵抗。少しでもこちらに気を引くことができれば。しかし、そんな小さな銃弾一つで巨大な深層の眷属を止めることは当然かなわない。
次の瞬間、暴食鯨の巨顎はナッツへと喰らいついた。
「ナッツ‼︎」
トールスは叫ぶ。
しかし、飛び散る鮮血の赤色が視界を染めることはなかった。
代わりに映った色は白。
純白のローブが視界の中ではためいていた。
帝国内における二大勢力の一つ。帝国軍を率いる帝家と並びたつほどの規模を誇る宗教組織。
“
その組織に所属する神官のうち、白衣官と呼ばれる者が身につける
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