第4話(過去) 要塞フィグネリア陥落-3

 結局、その日の襲撃は一度きりで終わった。

 しかし、久しぶりの本格的な襲撃と依然として高い気位きいの深気。そして、近づきつつある巨大な深層の眷属を前にして要塞全体は緊張感に包まれていた。

 しかしそれでも、非番の警備兵が駆り出されるほどの状況ではなかった。それは、この要衝ようしょうに十分な人員が配置されている証拠でもあった。

 陽はすでに暮れ、闇夜に沈んだ要塞フィグネリアの内部にある保養区で、トールス達は昼番を終えてのささやかな酒盛りに興じている。

 もちろん次の戦闘を目の前にして酔いつぶれるほどのものではない。

 夕食と共にたしなむ程度のものだったが、バケモノとの戦いという恐怖と緊張にすり潰されぬよう気持ちをほぐすためには、こういったアフターケアは大事だとトールスは考えていた。


「隊長、また遠い目になってるっすよ。ホント、レジーナのあねさんにベタ惚れっすね」

「あ? いや、別にそんな訳じゃないが……」


 トールスは妙に落ち着かない気分を誤魔化すようにグラスに入った麦酒をあおった。

 とっくに子供時代を終えたトールスは、これまでの人生でそれなりに女性経験を積んできたつもりだった。今のところ帰りを待っていてくれる特定の女性はいないが、美しい女性に微笑みかけられた程度で惚れ込むほど純粋でもない。

 しかし、言い訳を並べたてても結局はレジーナの顔が頭から離れないのは事実である。

 彼女が何か特別な使命を負ってこの要塞にやってきたことは何となく想像がつく。

 例の頭ごなしな白衣官の男が使った言葉。

 “羊”。

 実にありふれた単語を、妙なところで使うものだと記憶に残っていた。

 それが何を意味するかはわからない。ただ、自分には関係のない話だということはわかる。

 つまり今後、彼女と二度と顔を合わせる機会がない可能性も高いということだった。

 そう考えると酷く気分が沈んだ。


「そんなに気になるなら、司令塔まで覗きに行ったらいいんじゃないっすか? 手土産でも持って」

「馬鹿云うなよ。盛ったガキじゃあるまいし……」

「そう云って若者を馬鹿にしてると、そのうち婚期を逃しちまうっすよ」

「うるせぇ、俺もまだ若いわ」


 トールスはどうにも居心地が悪くなり、外の空気を吸おうと席を立ちあがる。

 そんな彼に、ナッツは意味ありげな笑みを浮かべてまだ空いていないワインをひと瓶差しだした。

 彼の勘違いを一々訂正するのも面倒になり、トールスはそれを乱暴に払いのけてから部屋を後にした。

 外の夜風は冷たく、酒で火照った身体には心地よい。

 トールスは夜灯のかれた壁上を歩く。

 右手に広がる深樹海では、仄暗ほのぐらく青い輝きを放つ深気に満ちた大地が延々と広がっている。

 それは月明かりに照らされた海よりも明るく輝いているにもかかわらず、見る者を不安にさせる底知れない深さがある。純粋に美しいと表現するのは難しい光景だった。

 あてどもない想いを巡らしながら歩いていると、やがて昼間にトールス達が戦った場所にまでたどり着いた。

 すでに暴食鯨ウポル・ガルの巨体は撤去されており、傷のついた床以外に戦いの証跡は残されていない。

 深層の眷属の死骸は、基本的に人間が肉をとって食べるということはあまりない。それは味がどうこう以前に食人種に対する忌避感きひかんによるものだったが、だからといって死骸をそのまま廃棄してしまうわけではなかった。

 例えば暴食鯨であれば、その頑丈な表皮や鋭い牙を加工して活用したり、膨大な皮下脂肪から油を抽出するといったことで利用する。もちろん、深層の眷属自体の生態研究などにも使用されるため、捨てる部位の方が実は少ない。

 要塞フィグネリアの場合は専用の解体区画が設けられており、その日の戦闘で出た死骸はすみやかに運びこまれて処理される。

 担当するのは帝国軍の医官や教皇庁の赤衣官と呼ばれる者たちだ。彼らの職場は最前線の要塞にあっては至極安全な環境だと云えたが、トールス自身は彼らがうらやましいとは考えない。少なくとも、巨大な深層の眷属を解体しながら消化しかかった帝国兵の遺体を摘出するなんて作業は、想像するだけでも身の毛のよだつ話だからだ。

 死んだ仲間には申し訳ないが、人には得手不得手、適材適所が存在するということである。

 トールスが、以前知人の医官から聞いた解剖のエピソードを思い出しながら顔をしかめていると、ふと、暗がりの中で誰かが地面にかがみこんでいることに気がついた。

 遠目には姿が影となっていたが、近づいてみるとそれがレジーナだとわかった。

 思いもよらない再会に心がざわつく。

 同時に、昼間に暴食鯨に向かってすら駆け出すことができた自分が、今は一歩踏みだすことすら躊躇ちゅうちょしていることに思わず苦笑した。


「レジーナ? こんなところで何をしているんだ」


 意を決し、声を出して一歩を踏みだすと笑えるほど心が湧きたち足どりは軽くなった。

 両の手を握り静かにかがみこんでいた彼女は、ゆっくりと立ちあがりトールスへと振り向いた。


「祈りか。今日、暴食鯨に喰われた奴らのために?」

「あー……。まぁ、その。これでも一応、修道女シスターだしね? やだな、なんか女々しいところ見られちゃったかな」

「いや、アンタは女だろう」

「そうなんだけどさ」


 彼女は視線を深樹海へとそらしながら、首にかけたペンダントを右手の指先でもてあそんでいた。その様子は、心細さを誰かに頼ることで埋めているかのように見えた。


「……怖いのか?」

「んー、まぁね。もう、元の暮らしには戻れないだろうし」

「別に死ぬと決まったわけじゃないだろう。生き残れば住んでいた街に帰れる。そうすれば、アンタの暮らしも元通りだ。恋人だって帰りを待ちわびてるだろうよ」

「恋人……?」


 レジーナは目を丸くして驚いた後、しばしの間沈黙を置いてから吹きだすように笑いだした。


「あぁ、これね。うーんまぁ、恋人ってほど甘酸っぱい関係でもないんだけどね。うん、でもとても大切な子だよ。今は、私のすべてと云ってもいいくらい」


 彼女は中心にエメラルドがはめ込まれたペンダントを見せながら照れくさそうに笑った。

 彼女にそこまで云わせる男とは一体どんな奴だろうか。トールスは想像と興味をふくらませる。

 ただ、自分だけが街に残り彼女を戦場に送りこむという態度は、どういう事情があるかは知らないまでも、同じ男として何か一言云ってやりたい気持ちになった。


「そいつは一緒に来るってことにはならなかったのか」

「まぁ、まだ研修官だしね。あの子には黙って来ちゃった。どうせ今はもう好き勝手に動ける身じゃないし。……本当は、もう少し成長を見守っていたかったんだけどね。初めて会った時はあんなに小さかったのに、今では一人前の男の子になってさ。背丈だって私の半分もなかったのに、今じゃあすっかり追い越されちゃった」


 レジーナは昔を懐かしむように目を細める。

 彼女の身長は女性としては高い方だろう。成人男性の一般的な背丈よりわずかに低いくらいだ。


「ずいぶん長い付き合いなんだな」

「それはもうね。十何年?」

「それに歳の差もある」

「そりゃあ、桁が違うし……」

「桁?」

「あ、いや、初めて会った時のね。はは……」


 妙なところでひっかかるな、とトールスは彼女の様子をいぶかしんだ。

 レジーナは傍目にはせいぜい二十前後。トールスからすれば若いとしか云いようのない外見だ。化粧っ気の少なさから、数字を大きく見誤らせるような細工を施しているとは考えにくかった。

 反して、相手の男が教皇庁の研修官という。トールスは教皇庁の登用の仕組みについては詳しくなかったが、ようは社会に出たばかりの年齢ということだろう。

 二人の間に年齢差がそれほどあるとは考え難く、トールスは会話の妙なズレが少しばかり引っかかった。

 しかし、彼女なりの価値観というものがあるのだろう、と内心で無理矢理に納得する。

 女性に対する無粋な発言で仲違いをしたことのある昔の苦い記憶が、これ以上その話題に踏み込むべきではないと警告していたからだ。


「さて、と。おしゃべりはそろそろお終い。もうすぐアイツが来るだろうから」

「アイツ?」


 レジーナがまっすぐと視線を向けた方角。深樹海の先へとトールスも視線を向けた。

 月は雲に隠れ、青暗く輝く世界の全容は闇の黒と混じりあってほとんどが視認できない。

 妙に静かに感じられた。

 夜番の帝国兵達が周囲で慌ただしく活動しているにもかかわらず、世界に自分と彼女の二人しかいないと思えるほどだった。

 そうであればどれだけよかっただろうか。


「そうだ。マグニムさん」

「トールスでいい」

「じゃあ、トールス。一つ、お願いがあるんだけど」


 そう口にしながら、彼女はゆっくりと名残を惜しむようにペンダントを首から外した。


「これを、預かっておいてくれない? それで、できれば私に何かあった時、ある人に返して欲しいの」

「さっき云ってた大切な人にか?」

「そう。ごめん、会っていきなりこんな」

「いいぜ。どこの誰だ?」

「……ありがとう」

「ただし、俺は兵隊だ。持ち場を捨てて勝手に逃げるなんてことはできない。どこかでくたばって届けられなくても恨むなよ」

「大丈夫。私が護るから」


 その言葉は大きな声ではないにも関わらず、圧倒的な力強さに満ちていた。正直、軍人であり男である自分が修道女シスターである彼女にそう云われることに不満がないではなかったが、昼間の戦いを見た後では偉そうな口も叩けない。


「帝都エクスガム。ブルーウィル孤児院に週に一回はだいたい来る。レイフ・ブルーウィルという名前の男の子に渡して欲しいの。年齢は十代半ばを過ぎたくらい。銀髪赤眼で……」

「正確な歳はわからないのか?」

「うーん、あの子と出会った時、周りにその事を聞ける人は誰一人としていなかったからね」

「そうか。わかった。可能な限りは約束を守ろう」


 トールスはレジーナからペンダントを受けとると、それを軍服の内ポケットへとしまい込んだ。


「代わりに一つ、条件をつけてもいいか?」

「私にできることならね」

「もし、アンタも俺も無事に生き残った時の話だ」


 そう口にすると、彼女は何とも云えない悲しげな表情を浮かべた。

 まるで、そんな事はあり得ないとでも云うように。なぜかその事に無性に腹が立った。


「その時は、アンタの知り合いから、アンタと同じくらい良い女を俺に紹介してくれ」

「……えっ、うぅん?」


 レジーナは戸惑うようにうめいた。


「今の流れでそうなるんだ? トールス、貴方って結構変わってるね。目の前の女を褒めながら、他を紹介してくれって。いや、別に失礼だって云ってるわけじゃないんだけど。なんかこう、しっくりこないって云うか……」


「まぁそうだろうな。俺も変だと思う。ただ、俺がコブ付きは狙わない主義ってだけだ。もちろん例外はあるんだが。まぁ気にしないでくれ。アンタの中にある、コイツに対する重たい愛が嫌というほど伝わってきたんでね」


 トールスが胸ポケットのあたりを叩くと、彼女は合点がいったというようにうなずいた。


「そういうことね。わかった、絶対に約束は守る。私の知り合いは選りどり見どりだから、期待しておいてくれていいよ」


 そういって笑うレジーナの美しさは、トールスのくすぶった未練を刺激するには十分すぎた。しかし、下手に格好つけた手前、もう後戻りはできない。

 その時、二人の会話を遮るように世界が明るく照らされる。

 照明弾。要塞の至るところの砲塁ほうるいから打ち上げられたそれが、空からゆっくりと舞い降りながらまばゆく世界を照らす。同時に、警鐘をかき鳴らす音が要塞中に響いた。

 見張りが何かの接近を確認したのだろう。何かと云っても、それは深層の眷属以外の何者でもないだろうが。


「来たわ」


 レジーナの表情がこわばった。


「楽しい時。夢のひとときはお終い。人肌の温もりは名残惜しいけれど。私は私として生まれた役目を果たさなくちゃいけない。同じくそうである彼のように」


 彼女の独り言は、まるで詩でも紡いでいるかのように感傷的なものだった。しかし、その言葉の意味をトールスが正しく理解することはできない。

 真意をたずねる間もなく、彼女の身体が青い輝きに包まれる。

 神術の盾が一つ、二つと、夜闇を照らす青い光の尾を引いて宙を舞う。

 直後、深樹海より何かが飛来した。

 それが高速で神術の盾に激突する。

 小さな爆発が花開いた。

 直後、トールスの世界は白い光に塗りつぶされた。

 そのまま世界が滅ぶのではないかと思うほどの眩しさ。

 神術の盾を回りこんだ爆圧がフィグネリアをさらう。

 トールスはとっさに身をかばう。しかし、耐えきれずに地面に身体が投げだされた。

 露出した肌を熱が焦がし、全身にヒリつく痛みがあった。

 わずかな間、地面に這いつくばった後、トールスは自分の身体を確かめる。

 幸い、身体は動く。四肢も無事だ。


「TbE弾頭弾! γ-8ガンエイトの奴。こんな旧式を持ちだして!」


 レジーナが何かを叫んでいる。しかし、トールスにはよく聞きとることができなかった。

 ふと違和感をおぼえて右耳に手を当てると、ぬるりと不快な湿り気があった。

 血だ。どうやら右耳の鼓膜が破れたらしい。

 トールスは麻痺した思考の中で漠然と理解した。


「トールス。早く安全な場所へ!」


 レジーナが叫ぶ。

 それに応えようとしたが、上手く声がでなかった。

 喉がかすれ、息をするとヤスリをかけられたように痛い。身体も上手く動かない。立ち上がろうとしてバランスを崩し、地面に手をついてしまう。


「もうっ、しっかりして。ペンダントを届けてくれるんじゃなかったの!」


 駆け寄ってきたレジーナがトールスを抱え起こす。


「なら、もうちょっとしっかり護ってくれよ。俺のヤワな身体じゃ、さっきのヤツは二度ともたなそうだ」

「もう、それだけしゃべれるなら大丈夫そうね。わかったわ、ちょっと気合いを入れ直す」


 その時視界に入った彼女の姿は、トールスの知るものから一変していた。

 エメラルドグリーンの瞳は、今は虹色に輝いている。

 金色の髪は、毛先から半ばにかけて燃えているかのように赤かった。

 あいかわらずの美しさ。しかし、なぜかその姿に妙な違和感、不安感をおぼえてしまう。

 それは、トールスの知る彼女とは別人になってしまったかのような感覚だった。


「レジーナ……。アンタは一体……?」

「私のことは今はいいから! ほら、助けがきたよ」


 同時に、遠くでトールスの名を呼ぶ声が聞こえた。分隊員たちだろう。

 レジーナに背中を押され、トールスは自分の役割を果たすためにゆっくりと歩きだす。

 ふと振り返った時、レジーナが力強くうなずき、そして視線を深樹海へと向けた。

 彼女の視線の先には、深樹海に浮かぶ巨大な何かの姿があった。

 トールスは足を止めずに観察する。

 見たことのないほどの巨体。暴食鯨など比較にもならない。

 まさしく山一つが動いているとしか云いようがなく、フィグネリア要塞に匹敵するほどの大きさだった。

 細部は夜闇にまぎれてはっきりとは見えない。

 しかし、照明弾のわずかな灯りに映しだされる姿だけでも、深層の眷属というバケモノどもを率いるに相応しい禍々しき異形だった。それを象徴するかのように、甲殻類の如き鋭く巨大な脚が幾本も大地につき立ち、世界を唸らせた。

 トールスの足元が激しく揺らぐ。

 要塞全体が、火山の噴火のごとく砲撃を開始した。

 飛び交う砲撃のさなか、レジーナの操る神術の盾が無数に飛び回り、はるか彼方で見事に相手の砲撃を受け止めている。世界を滅ぼすほどの光も、対岸の火事となればまぶしいだけだった。

 しかし、形勢が有利に動いているかはトールスには判断することができなかった。

 彼がこのフィグネリアに赴任ふにんして以来、これほど激しい戦闘は初めてであったからだ。

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