深海羊

平水 流良

第1話 墓場での縁

 帝都エクスガム。

 その郊外の一角に、教皇庁きょうこうちょうの運営する孤児院があった。

 ブルーウィル孤児院。

 その敷地の片隅に設けられたささやかな共同墓地。

 小さな墓石達が並んでいる。

 その中の一番新しい物の前で一人の少年がひざまづき、その墓石をみつめている。

 十代半ばを過ぎたくらいの若さだ。

 教皇庁の神官。そのうち黒衣官こくいかんと呼ばれる者が身につける黒い外套がいとうを羽織っている。

 どんよりとした曇り空で霧雨の降る中、彼は長いまつ毛についたしずくすら気にせず、ただ墓石に視線を注いでいた。

 だらりと垂れ下がった両腕には、ひじまで隠れる長手袋がつけられている。

 その手袋は、まるで何かをひた隠しにするように分厚く頑丈な革で出来ていた。


「アンタ、もしかしてレイフ・ブルーウィルか?」


 かけられた声に少年、レイフ・ブルーウィルは振り返る。

 銀髪の中に入り混じる青みを帯びた黒髪。その下に覗く赤い瞳が相手へと向けられた。

 声をかけたのは無精髭を生やした男だった。まだそれほど歳を重ねた風ではない。

 三十前後。

 並よりやや高い背丈に鍛え引き締まった身体つき、短めに切られた茶褐色の髪。

 ただ、右手に酒瓶をぶら下げ足元はふらふらとおぼつかない様子から、年齢や体格の割には頼りなく映る。

 明らかに泥酔している証拠に彼の目はすわり、頰は冷たい霧雨に晒されながらも赤らんでいた。


「貴方は……?」

「俺の名はトールス・マグニムってんだ。まぁ、そんなことはどうでもいい。ようやく会えた。孤児院の婆さん連中からここにいるって聞いてね。探したぜ。アンタにこれを渡すよう、その人に頼まれてな」


 トールスと名乗る男は握りしめた左手をレイフへと差し出し、酒瓶を持った右手でレイフの背後にある墓石を指差した。

 その墓石には、レジーナ・ブルーウィルという名が刻まれている。

 レイフはトールスの左手に握られていた物を受け取った。

 それは小さなペンダントだった。中央にはレジーナの瞳の色に合わせたグリーンエメラルドがはめ込まれている。

 それは、間違いなくレイフが彼女へと贈ったものだった。

 そのペンダントが自分の手元に返ってきた意味を彼はすぐに察した。

 遺品だ。


「彼女とはどこで?」

 レイフはたずねる。その声は微かに震えていた。

「要塞フィグネリア。先月、深層しんそう眷属けんぞく共に陥落させられた奴だよ。教皇庁の神官なら知ってるよな」

「えぇ。しかし、なぜ彼女はそんな場所に? 彼女は、この孤児院の修道女シスターだったんです。戦場など縁のない生活を送っていた人でした。彼女に何があったのか教えていただけませんか? 彼女の死は、突然告げられただけなのです。亡骸はその墓下に眠ってすらいません」


 レイフはそう云って右手を差し出した。

 その手に握られた三枚の百フィード紙幣を目にすると、トールスは白い歯を見せてくつくつと愉快そうに笑いだした。


「いいだろう。俺も、ちょうど誰かに話したいところだったんだ。こんな有り様で軍を追い出されてね。話し相手にも困っていた。まぁ、なんだ。ここは寒い。骨の芯まで染みてきやがる。いい店を知っているからそこで一杯やりながらでどうだ」


 レイフはうなずき、二人は墓地の出口へと歩きだす。


「それにしても、いきなり百フィード紙幣を三枚とは。教皇庁の神官ってのは羽振りがいいんだな」

「まだ研修官みならいですが」

「それでも給金は出るんだろう? 俺も、兵隊じゃなくて神官になるべきだったかねぇ」

「裕福さはそれほど変わらないと思いますよ。収入は月に三百フィードくらいですから」

「……おい待て。お前、これ全部じゃねぇか! びっくりするわ。いきなり初対面の相手に月収全部渡すんじゃねぇよ。俺はこれで浴びるほど酒を飲むつもりだったんだぞ」

「気にしないでください。大丈夫ですよ。来月になったらまた貰えますから」

「そういうもんだから月収って云うんだよ! お前、俺をからかってるのか……?」

「からかってたら、月収全部渡したりしませんよ。馬鹿じゃないんですから」

「いや、馬鹿だろう。どう考えても馬鹿だ。……とりあえず、二枚返しとくわ」

「どうしてです?」

「いいか、その思いっきりの良さは嫌いじゃない。ただ、俺が他人の命で買った酒を白々しく楽しめる趣味じゃないってだけだ」

「べつに、命をかけているつもりはないですよ」

「だったら、お前今月どうやって食いつなぐつもりだ? まだ月初も月初。一日ついたち様だぞ。孤児院は卒業したんだろう。また戻るのか? それとも物乞いにでもなるつもりか」

「もうすぐ二日ですけど」

「あと二十九日!」

「……ううん、まぁ、何とかなりますよ」

「目が泳いでるだろうが」


 半ば強引に、トールスは二枚の紙幣をレイフへと押しつけた。

 レイフは考えこむようにその紙幣を見つめる。


「お前がレジーナの話をどれだけ聞きたいかってのは、何となく想像はつくがな。別に、そんな無茶しなくても悪いようにはしねぇよ。俺はこう見えても、部下の面倒見の良い下士官様だったんだぜ」

「ありがとうございます。上官殿?」

「無理に合わせなくてもいいよ、まったく……。あぁ、また霧雨が強くなってきやがった。ほら、さっさと行くぞ」


 疲れた様子を見せながら、トールスは口先をとがらせてそれ以上は何も話さなかった。

 そんな彼を不思議そうに横目で見やりながら、レイフは彼に歩幅を合わせる。

 二人は夜の街、強さを増す霧雨から逃れるように足を早めた。

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