やさしさ

 右。鞘ぐるみ抜いた刀で、それを打つ。

 前。身を退けて斬撃をかわし、交差するように額を打つ。

 そこへ、後ろ。転がってかわし、すねをしたたかに打つ。骨の砕ける音がし、相手は転がった。

 わっと周囲の輪が縮まり、刃を突き出してくる。土にまみれながら二、三度さらに転がってそれを避け、石斑魚うぐいの跳ねるようにして起き上がる。

 胸の傷が、痛む。やはり、無理がある。どのみち死ぬのだ。死ぬなら、少しでも三蔵がこの屋敷の奥にゆくための時間を作ってやりたい。

 派手にするのだ。そうすれば、敵はどんどんここに集まってくる。そのぶんだけ、三蔵は楽に進めるだろう。

「松戸新九郎則政──」

 今一度、名乗った。これが、己の名。それが何を意味するのか、今から示す。

「──参る!」

 着物は裂け皮膚は薄く斬られ肌はその度に赤い血を闇に流す。これが水仙の手の者であろうが誰の手の者であろうが、己に刃を向け、己の道を阻むならば、敵である。

 しかし、どうしても殺しをする気にはなれなかった。自分が三蔵や龍のような腕を持っているとは思えぬし、持っていたとしてもあれほど容易く人殺しができるとも思えぬ。

 だが、今この場においても、そうなのか。不殺を貫けば、自分が死ぬ。げんに先ほど倒した者が息を吹き返し、起き上がってきたりしているのだ。

 それが、己の求めるものか。

 また、斬られた。深いのかもしれぬ。遅れて、腕に痺れのような、あるいは熱のようなものが走る。

 否、と新九郎は思った。目の前にいるのがあと何人であるのか数えるような余裕はないが、少なくとも、己の目当てはそれらの命をらぬことではない。

 唯を救うことこそが、新九郎の目的なのだ。そのためには三蔵が奥にゆかねばならず、新九郎はそのゆとりを作っているのだ。

 それならば、何をためらう。己の手が血で汚れることをいとい、唯のあの透き通った瞳を涙と血で濡らすのか。


 鞘の中で、刃がはしった。

 次の瞬間、それは激しき牙となり、打ち掛かってきた者を骸に変えた。

 一瞬、敵の輪が広まった。その鮮やかな太刀技を見て驚いたのではない。くみし易し、と見ていた新九郎がいきなり嵐の前の夜のような昏い殺気を放ったことに、彼らの身体が反応したのだ。彼らは、そういう生き物である。

「臆したか」

 おそらく生まれてから初めて血を吸ったであろう刃を眼前にすらりと伸ばしながら、新九郎は口を開いた。三蔵と、同じである。言葉をあえて発することで、少しでも、息を。

 まだ梅がこぼれたばかりであるというのに、汗が。

 すぐ眼の前に迫る、己が死期を。それを遠ざけるためのものが、手に握られている。

 気を。それが合い、血潮。人の身体の内を流れるはずのものが、頼りない月をおぼろにする。

「落ち着け」

 言葉の通り、落ち着いた声である。敵のうちの誰かが発したものであるが、どの影がそれをしたのか、新九郎には判別がつかない。

「慌てるな。囲み、一息にやれ」

 後ずさっていた者どもはそれで己が何をせねばならぬかということを取り戻したようで、その声の指示する通りに動いた。


 勝ち負けではない。斬られてわたの飛び出てた腹では、負け腹すらも立てられぬ。

 どちらかなのだ。生きるか、死ぬか。

 侍とは、やさしきもの。

 では、やさしさとは。弱きを助け、悪しきを挫くことか。己の善なるを叫び、阻むものを斬ることか。

 否。

 強さなのだ。新九郎は、今このとき、そう思った。守らねばならぬもののために己を捨て、竜にも鬼にもなることができる強さなのだ。してはならぬことをしてでも、ほんとうにあってはならぬことから守るべきものを守ることなのだ。

 理屈でもない。思いでもない。優しさとは、自らの身体を使い、表すことなのだ。


 刃が、ひとりでに運ばれる。それは手応えもなく柿染めの衣を切り裂き、その下にある脇腹を開いた。あかあかとしたものが噴き出るよりも速く、刃は蝶のように翻り、振り下ろされる斬撃を受け止める。それを流し、首筋を。

 これが、戦い。

 これが、いのちのやり取り。

 これが、生。

 これが、死。

 敵に与えるような深い傷は、まだ負っていない。しかし、敵を斬るたびごとに、新九郎の身体にも新たな線が引かれてゆく。

 ――三蔵どの。この新九郎、いのちの使いどころを、見つけたようです。

 さすがに、言葉にすることはできない。息を整えるどころか、息すらもできぬ嵐の中にいるように激しく、新九郎に向かって刃が降り注いでいるのだ。

 何人斬ったか。何度、斬られたか。敵の数も、だいぶん少なくなってきたように思う。しかし影は互いに入れ違いながら襲ってくるから、はっきりとは分からぬままである。

 また、一人。なんとなく、このまま全員を斬り伏せられるような気がしてきた。積み上がる屍の上に立つ己を見ることができたのだ。

 頭で考えずとも、身体が動く。技を極めるのとはまた違うところにいるのが分かった。幼い頃から親しんだ剣術であるが、実際にそれを人の身体に向かって振るい、肉と骨を食い破り、腸をばらまくのははじめてである。

 人は、遥か昔から、このように惨たらしく、恐ろしい技を練ってきたのか。どのようにして相手の身体を血染めにし、いのちを奪うか。どうすれば、最も手早く相手を仕留められるか。新九郎が幼い頃から、いや、百年も千年も前からそのために練られてきた技を振るうたび骨が鳴り、血が飛んだ。

 三蔵。板倉を、仕留めたろうか。無事、唯を助け出せたろうか。なんとなく、分かっている。三蔵が、なぜ唯を救おうとしているのか。

 三蔵が強く、優しいわけではない。それは、人ならば誰もが持って当たり前の、自然なことなのだ。それを、三蔵はただ己の身体と生命そのものを使って示しているだけなのだ。


 どこか、山間やまあいの村にでも引っ込み、土を耕して生きるのでもよい。三蔵はいい歳だから、街の大工の手伝いなどには向かぬであろう。しかし、三蔵は唯を救い出したら鬼であることをやめ、そういうようなことをして生きてゆく方がよいのだ。唯も、その三蔵の傍らにいながら、己の長じるに従って生まれる様々な道のうちのどこに向かって歩を進めるか選び取ってゆけばよいのだ。

 だから、戦うのだ。

 己のためになど、人は戦えぬ。人のためだから、戦えるのだ。今、新九郎の全身が、それを証明している。

 あと、数人。いつから息をしていないのだろう、と思うほどに呼吸が浅くなっている。血を、だいぶ失っているらしい。もともと夜ではあるが、視界が深酒をした明くる朝のようにぼやけている。

 しかし、あと数人。

 また斬った。

 数えられる。あと、三人。

 左腕が上がらぬようになった。深傷ふかでを受けたらしい。ちらりと眼をやると、力こぶのあたりがざっくりと割れ、血が白い脂肪を洗っていた。

 それでも、斬った。

 あと、二人。

 斬るのだ。戦うのだ。守るのだ。強くあるために。優しくあるために。守らねばならぬものを、守るのだ。侍とは、そうあるべきなのだ。いや、侍でなくとも、そうあるべきなのだ。そうあるべきかどうかはこの際問題ではなく、そうするのだ。

 横薙ぎに薙いでくる刃に応じようと、右手首が返る。そのとき、柄が滑って手から離れた。

 新九郎は、知らぬ。いや、頭で知っていても、それを体験したことがなかった。血を吸った柄糸は、滑るものなのだと。血には人の脂が多く含まれているから、斬れば斬るほど滑るものなのだと。

 刀が地に逆さに落ちるのと同時に、敵の刃が新九郎の脇腹を斬った。続けて、別の刃が肩口から。


 息を、整えねば。新九郎は、取り落とした刀を再び握ろうと、右手を動かした。しかし、目の前にあるそれを掴み取ることはできない。そもそも、落としたはずの刀がすぐ目の前にあるということがおかしい。

 何にせよ、息だ。それなくして刀を振るうことはできない。

 ――松戸新九郎則政。

 今一度、高らかに名乗りを上げようとした。しかし、声は出ない。代わりに、水が泡を吹くような音がするのみであった。

 敵。足音も、気配もない。さきほどまであれだけ強い殺気を振り撒いていたそれが、どこにもない。

 いないのか。あるいは、はじめからいなかったのか。それならば、自分の受けた傷は、なんだ。自分が斬ったあの肉と骨を割る手応えは、なんだ。

 わからぬ。目の前真っ向に、月があることも。

 月とは低く昇ったり沈んだりするとき以外は、見上げるものではなかったか。その月と睨み合いをするうち、理解した。

 たおれたのだと。そう思った瞬間、新九郎の前は上になり、上は横になった。

 殺気はない。気配もない。しかし、足音がする。誰かが、倒れている自分に、歩み寄ってくるのだ。

 ――三蔵どの。

 名を、呼ぼうとした。しかし、なんとなく、三蔵ではないような気がした。それが、声を発するのを聞いた。

「残った奴は、片付けた。しかしまあ、派手にやったもんだ。お前が、これほどまでにやるとはな」

 聞き覚えがある。しかし、その声を記憶と結びつける前に、新九郎の夜は閉じた。

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