蕾を求めて
「思ったよりも、遅くなった。三蔵どのは、もう戻っているだろうな」
夕の風で回る風車に眼をやったままの唯を連れて、新九郎は居所にしている木賃へと足を向けた。下町の薄暗い路地に申し訳程度に掲げられた、
「きちん」
という看板をくぐろうとしたとき、不意に背後から声がかかった。
「おい」
新九郎が何気なく振り返ると、さきほどの車と名乗った男がいた。
「これは、車どの――」
そこまで言って、新九郎は唯を庇うようにして立った。傾きつつある陽がもたらす風が路地に入って鋭くなり、それを受ける新九郎が僅かに放った殺気に反応したのだ。新九郎は次男坊だから剣術くらいしかすることがないから、それなりに研鑽は積んではきたが、たいして上手くならなかった。それでも、自らの仇討ちのため人を殺し、そのときに三蔵の行うほんとうの殺しを見もしているから、多少は勘のようなものが磨かれているらしい。そうでなければ、人のよい新九郎がこのような動きをするはずはない。
「何用か」
声が鋭く沈んでいる。庇った唯が握っている手に、わずかに力が籠められた。
「いや、なに。仕事さ。さっきも言ったろう」
「私を、
「尾けた」
「なんのために」
唯の手をそっと離し、代わりに同じ手で自らの刀の鯉口を切った。
「唯どの。退がっていなさい」
唯が背後で頷き、宿の中にわずかに引っ込んだ。部屋に逃げ戻るつもりはないらしい。
「ほう、やる気かね、お武家さん」
「車どの。お主は──」
三蔵を追っている。今さら、自らの迂闊を悔いた。
「車風太郎なんて、笑わせるよな。俺は六文竜。ほんとうの名は、まあ、いいだろう」
と自らの通り名を明かした。明かしたのは、新九郎を生かしておくつもりがないからか、あるいは生かして三蔵への手土産にさせるためか。
「あちこちで、いろいろと話を聞いて回っていてね。その中で、松戸と荒又って侍の果たし合いの話も聞いた。そこに残された亡骸は、おおよそ侍なんかのするようなもんじゃないくらい惨たらしい有様だった。できるとすれば──」
鬼。そう言って竜が笑ったとき、放たれていた殺気が弾むようにして溢れ、新九郎は思わず刀を握る右手に力を入れた。それを、
「おおッと、抜くな」
と竜は制した。
「抜くなよ。抜けば、そこまでだ」
その言葉には、新九郎がこれまで知らなかった圧力があった。
「何が、狙いだ」
乾ききった口で、かろうじてそれだけを言った。
「あんたに、用はねえ。三蔵の旦那に、用がある」
「やはり」
新九郎は、言葉を発することでつとめて自らが抜刀してしまわぬように努めた。抜けば、竜の言う通り、それまでになってしまうのが分かるからだ。
「あんたも、迂闊だねえ。逃げる身でありながら、自分の本名を真っ正直に名乗り、でかい声で唯どの、唯どの。あんたが荒又って奴を斬った勧進橋の近くの茶店で、老いかけた汚らしい男が女の子を連れていて、それに唯って声をかけてたって話も出てる。こんどは、気を付けるんだな」
ず、と黄色っぽい土が鳴ったと思ったら、新九郎が応じようとするよりも先に、拳で腹を打たれた。
「──この次が、あるならな」
崩れ落ちる新九郎を通り過ぎ、竜は木賃の軒をくぐった。
「さあ、おじさんと一緒に行こう」
唯が、拒むようにして後ずさる。
「風車、買ってやったろう」
「唯どの、逃げろ──」
地面に転がりながら、新九郎が辛うじてそれだけを言った。それを聞いた唯が、ぱっと屋内に向けて
「おおっと、どこに行く」
我が手を捉えた竜の手を唯が振り解こうとするが、戦いも知らぬ唯のそれは竜のざらざらとしたそれの前では虚しいものであった。
「ほら、いい子だ。おじさんの言う通りにしないと。間違えて斬っちまったらどうするんだ」
唯はちらりと新九郎に目をやり、大人しくなった。そのまま、手を引かれるに任せ、呻きながら腕を伸ばす新九郎を通り過ぎ、竜に従った。途中、何度も省みた。
「まことに、申し訳ない」
しばらくの後に戻った三蔵の前で、新九郎は床板を抜くほどの勢いでもって自らの額を板敷きに押し付けた。その影を、灯りが頼りなく揺らしている。
「六文竜。また、妙な手合いが出てきたな」
三蔵は、普段とそう変わらぬ様子で、のっそりと言った。
「かくなる上は――」
新九郎が額を上げ、悲壮な顔を向けた。どうするのかと思って見ていると、するすると自らの脇差を帯から抜き、いちど我が前に置いて、その柄に右手を、鞘に左手をかけた。そこで、三蔵のぼんやりとした声がその動作を制止した。
「待て、待て。やめておけ」
「しかし、三蔵どのから預かった唯どのをこのような目に合わせて、このままのうのうと生きてなど」
「嫌だねえ」
三蔵は、苦笑した。
「何かにつけて、すぐ生きた、死んだ。侍ってのは、嫌な生き物だ」
「しかし」
「いいか、新九郎。考えずとも、分かるだろう。唯がその竜って男に連れていかれて、そのためにお前が腹を切って、何になる。お前の気はそれで済むかもしれんが、唯はどうなる。ことを仕損じたがために死ぬなんざ、お前さんの身勝手でしかない」
諭すでもなく、責めるでもなく、ただ三蔵はそう言った。新九郎はしばらく静止したのち、脇差を帯に戻した。
「三蔵どの。あなたには、ほんとうに目を開かれてばかりだ。いや、あなたの言う通りだ」
それ以上は、三蔵は何も言わない。ただ苦笑しながら短く刈り込んだ頭をぼりぼりと鳴らし、汚らしいふけを板敷きに落とすのみであった。
「さて、行くかね」
どこへ、というような顔を新九郎が向けた。
「どのみち、俺に追っ手がかかっていて、それにここが割れたということは、はっきりしたんだ。出るさ」
宿を引き払い、そして、どうするのか。
決まっている。
新九郎は立ち上がって大刀を腰に押し込み、眉を厳しくした。
唯を探し、救い出すのだ。たしかに、責めを負って死んでしまえば、それはできない。責めを負って死ぬよりも、竜に連れ去られた唯を助けるということは、いくらでも意味のある行動だと思った。
侍とは、不自由な生き物である。新九郎に思慮が足りないのではない。彼は、武家の次男として産まれたその瞬間から、こういう思考や行動を取るべく教育を施されており、全ての侍がそうであった。遺伝による継承とはまた違う文化的規範や教育が人間形成に大いなる影響を与えることは言うまでもないが、新九郎はまさにそれによって形作られた、侍という生き物なのだ。だから、現代の我々にとって当たり前の思考や発想も、侍ではない三蔵に言われてはじめて得るのだ。
いや、侍のうちにも、侍らしからぬ者もいる。自らの潔さを示すという虚栄心を極限まで高め、一挙手一投足すべてでそれを表すというのが侍であるとするならば、それをせずに保身や利を考え、他者を犠牲にしてでも自らの快楽や安楽を貪る者がこの時代には多くいることもまた事実で、そしてまたそれは、それを潔しとせず、己はどこまでも清い侍であらんとしようとする新九郎のような不器用な侍を生んでいる。
戦国期に「もののふ」あるいは「つわもの」などとも言われた侍も、江戸期に入ればこのように、ほとんど目に見えないほど緩やかに、その形を変えてゆく。これがもっと時代が降った幕末の頃などになれば、自分の精神世界と周囲の物質世界とを繋ごうとするような向きを持って口舌あるいは腰間の一剣でもってそれを為すというような型の者が多く出現するわけだが、それは余談。
「なあに、すぐに見つかるさ」
三蔵は、当時のおおまかな身分階級として便利な区引きである士農工商のうちの、どれにあたるのであろうか。出自が分からぬ以上、三蔵は、今のところそのどれにも当たらない。分かるのは、彼が、月の夜にあらわれる鬼としてかつて暗い世界の中で恐れられたことと、歳を取ってその頃ほどには思うように体が動かぬようになっていること、そしてそれでも唯を連れて逃げ、阻むものがあれば戦うということ、路銀と唯の食い扶持のため、また暗い世界に戻って殺しを始めたことである。
その名前のない生き物は、唯が連れ去られても焦るでもなく、急ぐでもなく、泰然としている。
「なぜ、そう思うのです」
唯が連れ去られたのは自分が不甲斐ないためであると自認している新九郎は、三蔵の様子を見てかえって焦った。
「まあ、落ち着け」
下町の通りを歩きながら、三蔵は少し笑った。
「唯は、可哀想だが、だしに使われたのだ。竜という男の狙いが俺であるなら、俺をおびき寄せるために、連れ去ったのだ」
たしかに、その通りであろう。
「だから竜はお前を殺さず、自らの通り名を明かし、唯を連れ去るところを見せたのだ」
自分が伝書飛脚のような使われ方をしているというのが新九郎にとっては面白くないが、向き合って一撃で敗れたのであるから何も言えない。
「だから、こうして捜し歩いているうちに、向こうから出てくる、と」
「そういうことだ」
暗い世界で生きてきた三蔵には、竜の考えることがよく分かるらしい。もっとも、唯に危害を加えることが目的ではなかったとしても、自らの通り名を明かしたということは、少なくとも自分と新九郎を斬るつもりではあるのだろう。
そこまでは、新九郎には言わない。ただ竜と出会ったという浅草寺の方を向いて、夜を踏んで歩くのみであった。
「新九郎」
黒であるにも関わらず汚れているのが分かる三蔵の衣が、ひとつ冷たい風に揺れた。
「月が、出ているな」
その三蔵が見上げる月が、ふくらみかけた梅の蕾を塗らしている。
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