第二夜 六文一刀
闇に匂う女
「こう、のっそりとした、くたびれた親父でな。髷は結ってない。旅坊主みたいな頭をしている」
徳利を傾けながら、男は言う。
「たぶん、女の子を連れて歩いてる。知らねえか」
「へえ、ちょっと、心当たりがありませんなあ」
「そうかい。まあ、いいさ。もし見かけたら、報せてくれや」
くいと猪口の中の酒を干し、勘定、とみじかく言い、男は席を立った。
埃臭い江戸の風が、夜に冷やされている。それにちょっと首を縮めながら、男は薄い月明かりを踏んだ。
「やっぱり、酒場なんかじゃ、ろくな話も聞けねえな」
いきなり足を止め、男は言った。そうすると、天水桶の陰から、いきなり女の声がした。
「竜の旦那。さすが、勘がいい」
「おんなの臭いが、しているぜ」
す、と女の声が、形を持った。
「利八親分に、お前も雇われたってわけか」
「竜の旦那だけじゃ、心もとない。そういう腹なのかもね」
竜の旦那、と呼ばれるのは、あの六文竜である。利八親分は、
女のことは、よく分からない。
「だけどよ、水仙」
と、女は花の名で女は呼ばれた。無論、ほんとうの名ではなかろう。
「俺ならともかく、お前が三蔵を見つけちまえば――」
風に辻行灯が揺れた。
「――三蔵を生きて連れ帰ることなんざ、できやしねえだろうがよ」
それに水仙は答えず、ただ埃臭い風に女の臭いを振り混ぜ、消えた。
江戸に向かう街道の勧進橋で、荒又という男と松戸という男の果し合いがあった。どうやら松戸側の仇討ちであったものらしく、荒又は斬られている。それだけなら人の娯楽としての噂話になるくらいのもので大したことでもないが、問題はその仇討ちの場の状況である。仇討ちの場合、だれが何の謂れによってそれをしたのかを示す札や書付けなどを残すものであるが、それ以外に、六人の死体が残されていた。
その死に様が、すさまじい。ふつうの武士の仕様ではない。誰も彼も、自分の脇差を腹に突き立てて死んでいた。その話を街道筋の茶屋で聞いたとき、竜は即座に三蔵の仕業であると確信した。この世のどこに、二本差しの者六人を相手取り、その脇差しを抜いて殺すような真似ができる者がいよう。そして、その茶屋の娘は、女の子を連れた初老の男が夕暮れ前に勧進橋の方に消えてゆくのを見てもいた。
探すなら、下町だろう。荒川から隅田川を挟んで、千住界隈や浅草界隈を訪ね歩くつもりである。三蔵らのいた藩から江戸に至るにはまずその界隈が便利だから、わざわざ西の方まで足を向けることはないだろう。何のために江戸に入ったのかは分からぬが、三蔵が江戸にいることは間違いないのだ。
そこを押さえ、捕らえる。竜にしてみれば、べつに利八の親分に義理立てする理由もないし、その命令に従う必要もない。ただ、興味があったのだ。かつて、鬼と呼ばれた夜半三蔵が、なぜこの世に戻ってきたのか。そして、何のために老いた体に鞭を打って、借金のかたに連れて来られた少女のために賭場のやくざ者や追っ手を痛めつけたのかということについて。
もし、その少女の境遇を哀れに思い、それを助けたのなら、随分優しい鬼もいたものである。そして、勧進橋の果し合いに関与したのも仇討ちの助っ人であったとするならば、義侠心に溢れた鬼であるということになる。
そのような鬼がなにを見、なにを考えているのか。それを想像するだけでも、
粗末な麻衣に綿入れを羽織り、そこからにょっきりと大刀だけを覗かせ、また夜を踏んで歩く。その足が、山笠屋、と屋号の上がった
その山笠屋の中。そこに、竜の求める三蔵はいた。また、仕事を得ようとしているわけである。
「
と、山笠屋はまた名を三蔵に告げた。
「大田晩斎」
三蔵は、かつての癖で、その名を繰り返す。
「これはまた、大層な名だな、親父」
「絵師さ」
絵師とは、木版画として流通する浮世絵の、その下絵を描く者を指す。浮世絵と言えばその完成が見られる江戸中後期や幕末の頃を想像しがちであるが、この享保の頃にはすでにあった。木版画ではないにせよ、肉筆によって描かれる絵画が大衆のなかに取り入れられていったのは意外に古く、十六世紀半ば、室町時代であったとも言われている。それから百年ほどの間はたいした進歩もせず、ほそぼそと続く現代のサブカルチャーのような扱いを受けていたものであるが、江戸期に入って世が治まり、大衆に経済的、心理的余裕が広がると共に進歩、進化を遂げる。この享保の時代は例の倹約令のためにその成熟は他の芸術、服飾文化と共にいっとき停止しているが。
それゆえ、絵師はそれだけで食えぬ。だから、口に糊するために稼業を営む者が多い。
「こいつは、悪人かね」
三蔵が珍しいことを訊くものだから、山笠屋は怪訝な顔をした。かつての三蔵は、殺しをする相手が善人だろうが悪人だろうが、人を選ぶようなことはなかった。山笠屋は、とりあえず答えてやった。
「悪人も、悪人さ。金貸しと手を組み、ごろつきを抱え、それに命じて無茶な取立てをしている。女子供にも、容赦はねえ。こないだは、利息の払えなかった亭主の取り立てで、そのかみさんと娘を殴って黙らせ、吉原に引きずっていって売ったって話だぜ」
「ほう。そりゃあ、大悪人だ」
「金を借りる方も、借りる方なんだろうがね。ましてや、返せねえ金だ。それが法外な利息だったとしても。やくざ者に関わるってのは、そういうことだろ」
三蔵は、みじかい髪を何度か撫で付けた。悪人かどうか確かめたことに、深い意味はない。ただ、なんとなく気になったのだ。
「まあ、やるかね」
ひとしきり頭を撫で付けてふけを畳に落とし、気のないことを言って立ち上がった。
そこから、江戸の中心に向かって、西に五丁ほど。大田晩斎の暮らす長屋は近かった。
絵師のような者が、やくざ者に金をもらってごろつきを飼い、取り立てをしている。いまの世とは一見つつましく穏やかであるが、やはりその内では暗く、ねばねばとしたものが蠢いている。なんとなくそのようなことを思いながら、三蔵は月を遮る長屋の軒ぞいの闇を進む。
べつに、世直しではない。悪人を何人斬ったところで世が良くなることはないし、何度仇討ちの助っ人を務めたところで恨みが晴れることはない。世が穏やかであることとそれとは、全く別のことなのだ。どこで産まれたか木の股から産まれたかも分からぬような三蔵には、どうでもいいことである。三蔵のような身分の者が何かを望み、手に入れられるはずもない。
だが、なんとなく、薄戸が寒風にかたかたと鳴くのを聴くうち、分かりかけてきたような気がした。なにが、と言われれば、三蔵にも上手く答えることはできまい。
長屋の並ぶ、奥から二軒目。その戸に手をかけた。無論、鍵などはない。屋内は、完全に闇であった。人の気配もない。
す、と三蔵はその闇に身を滲ませた。
「おう。何か用かい」
いきなり、闇がそのまま声を発した。
「大田、晩斎だな」
落ち葉を踏むような声で、三蔵は闇が標的であることを確かめた。
「絵の注文かね。こんな夜更けに」
「そっちの注文じゃあない」
三蔵は擦り切れた帯に差した短刀を抜き、闇に湿した。
「ほう、すると、どんな注文を付けてくれるのかね」
大田晩斎の声も、三蔵と同じくらい枯れていた。闇を浸している臭いからして、かなり歳を取っている。
「あんた、女子供にも容赦がないんだってな」
「そりゃ違う。容赦がないのは俺じゃねえ。そうなると分かっていながら金を借りた、亭主の方さ」
「ふむ。まあ、そうかな」
「おかしな
大田晩斎も、開いたままの戸を背にする影の具合とその声から、三蔵が歳を食っていると見ているらしい。
「用件を、聞こうじゃないか」
言われて、三蔵は一気に闇を踏み、手にした短刀を繰り出した。戸口にずっと立っていたのは会話がしたかったからではない。塗り潰したような闇に、目を慣らしていたのだ。目も、昔に比べてめっきり悪くなった。闇にもなかなか慣れないし、近くのものがまるで見えない。
大田晩斎も懐に隠していた刃物を抜いたものらしいが、それを振るうよりも早く三蔵が喉笛を裂いたから、声もなく破れ畳に転がった。
「借金のカタに、女子供。感心しないねぇ。金は、金で取り立てるんだったな」
それを、大田晩斎が聴いていたかどうかは、分からない。まだ痙攣を続ける大田晩斎の衣でぐいと刃物の血を拭い、三蔵はまた薄ら月の下に出た。
そのまま、長屋の並ぶ路地から、通りに。
刹那。
ぱっと火花が散った。
ぎょっとした眼を向けた先には、脇差。それを握る、女の手。月に透けるその肌は、若い。顔は布で隠しているから分からない。
「誰だね、娘さん」
老人の歯ぎしりのような音を立てて肉を食い破ろうとする脇差を、咄嗟に抜いて受けた短刀で弾き返し、三蔵は言った。
「あんたに教えるには、まだ早い」
娘のような声である。その声を曳いて、女は地を蹴った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます