鬼と水仙と竜

 小柄な娘が、月に洗われ、その姿を顕している。

 鞘は払われ、手元にも小さな月が握られていた。

 それが、また火の花を散らせる。

「なんの意趣かは、知らないがね」

 三蔵にしてみれば、そうである。見たこともないこの娘が自分に刃を向けてくることについての心当たりがないのだ。

「あんまり、無茶はしなさんなよ」

「うるさい」

 余裕のある口ぶりで脇差を受け流す三蔵に向かって、娘は口を開いた。

 瞬間、次の斬撃の軌道が、単調なものになった。三蔵の方が、場数に優れている。

 娘は冬の風を斬るようにして振り下ろしたが、その手がばかに軽い。気付けば、握っていたはずの刃は三蔵の手の中にあって月を宿している。

「いい刀だ」

 三蔵はそれを擬し、くるりと翻して柄の方を向け、娘に返すような仕草を見せた。

 娘が思わずそれを受け取ろうとした瞬間、三蔵の手は刀をぽろりとこぼし、代わりに猛烈な拳打となって娘を襲った。

 辛うじて身体を外してそれを避けた娘が、舌打ちをする。

「どうだい。これで、名を明かしてもらえるかね」

 三蔵がのんびりとした口調で言うのには応じず、娘はまた地を噛むようにして脇差を拾い、一つ流れで飛び下がった。

「そいつは、また今度だね」

 次の瞬間、ぱっと高塀に身を踊らせ、そして消えた。


 くちなわみてえな女だ。三蔵は、なんとなくそう思った。身を低くして地を噛みながら間合いを詰めたり、するすると腕を伸ばしたりする様がそうであると感じたのだ。

 くちなわ、とは、蛇のことである。明らかに日向を生きる者ではあるまい。三蔵と同じような、影に棲む者。それが、何の用であるのか。

 考えつくことといえば、目ッかちの利八親分の差し金ということである。それならば、さっさと殺すなりして黙らせるのがよいであろうが、思いのほか腕が立つことと、まだ若い娘であったことから、返り討ちにして仕留めることをしなかった。

 そのまま、何事もなかったかのように、三蔵はゆく。仕事を仕上げた金を受け取るために山笠屋へと向かうことを悟られぬよう、道筋を晦ませながら。



「どうだった、水仙」

 月影に滲みながら歩いていた水仙を、不意に呼び止める者があった。竜である。

「竜の旦那。趣味が悪いね。覗いておきながら、どうだった、はないだろう」

「察しのいい女だ」

 竜が苦笑を漏らす。

「なあ、水仙。ひとつ、これは頼みなんだが」

 水仙が、片眉を上げた。

「あの三蔵を見つけ出したのは、さすがだ。だがな、俺の邪魔は、しないでほしいんだが。どうだね」

 水仙は、ひとつ笑った。その願いを却下したのだ。

「そうかい。金を積まれりゃ、何でもする、か。お前のような稼業は、信用第一、というわけだな」

「そうさ。あの男は、の獲物だ」

 水仙がそう言うと同時に、あたりの闇が、ざわざわと騒ぎ始めた。それを聴きながら、竜は鯉口を切った。

「ご大層なことだ。食いっぱぐれの一族を連れて江戸の影に棲む、か」

「あたし達の邪魔は、させないよ」

「おい、おい。待て。やり合おうってのか」

 竜が言うのが切れぬうちに、闇のひとつが打ちかかった。

 それはすぐに、音も立てずに乾いた土に転がった。

「俺を、責めるなよ。お前らが始めたことだ」

 峰打ち。いつの間に、抜いたのか。水仙の瞳が大きく開く。そのまま片手を挙げると、闇は、もとの静けさを取り戻した。

「くそ。斬っちまうとこだったぞ、おい」

 ゆらゆらと立つだけの竜に、水仙は戦慄を覚えた。もし、あれが刃を返さぬ斬撃であったなら。竜に打ちかかった者は、胴体を真っ二つにされていたであろう。そして、死角からの跳躍を察し、刃を返して抜いて峰打ちでもってそれに応じるほどの余裕。

「どうやら、あんたを敵に回すと、怖いことになりそうだね、旦那」

「あいにく、でかい金しか持ち合わせがねえ。お前の一族を相手にするのは、両替屋に行ってからだ」

 斬った相手の、三途の渡し賃。六文竜のあだ名の由来になっているそののことを言っている。

「なにも、喧嘩を売ってるわけじゃあないんだ、水仙よ」

 抜いたままの刀をふらふらと擬し、竜は呑気に言った。

「じゃあ、何さ」

「だから、言ったろう。邪魔はしないでくれ、と」

「あたし達が仕事を遂げようとするなら、あんたの邪魔をすることになるだろうね」

「それも、そうだ。全く、利八の親分も、見境がねえな」

 鍔鳴りを立て、竜が納刀した。それで、吹き付けていた殺気が消えた。

「あんたが、それだけ信用されてないってことさ」

 ようやく、水仙も軽口が叩けるようになったらしい。それに竜はにやりと笑い返し、

「そいつは、違うな。俺は誰に飼われるわけでもねえ。三蔵を追うのは、俺が興深いと思ったからだ」

「相変わらず、変人ね」

「そうでもねえ」

 竜は、水仙に背を向け、夜に凍てた土を踏んだ。

「鬼に、三途の水先を案内あないしてみてえだけさ」

 ゆるゆると歩き、そのまま消えた。



 竜は、酒が好きである。この夜更けに開いている酒屋はないものかとしばらく街を彷徨ったが、やはりあるはずもなく、仕方なく宿に戻ることにした。

 三蔵を、追う。水仙の一党が雇われているのは、むしろ運がよかった。水仙の一党というのは、竜やかつての三蔵と同じく、金で人を殺したりもするが、ゆすりのために人の秘密を探ったりすることをも生業としている。戦国の頃に甲賀者として各地の大名に雇われていたものに端を発するらしいが、時代が降るにつれ落ちぶれ、今では江戸近辺の夜に棲んで稼業をして食いつないでいる。

 闇に自らを溶かし、殺しのとき標的自身ですら死んだことが分からぬほど一瞬で仕留めることができるような技を持つおそるべき集団であるが、その諜報能力もまた凄いもので、そのために竜はこの広く人の多い江戸の街で三蔵の所在についての目処をつけることができた。

 利用できるものは、何でも利用する。それは、水仙の一党とて同じはずであるから、気が咎めることもない。

 三蔵を、はじめて見た。暗がりの中、月にうっすらとその輪郭を浮かべるのみの姿であったが、あれは鬼でも並の鬼ではない、と思った。一党の中でも特に殺しに長けていると言われる女頭領の水仙が、子供のようにあしらわれたのだ。

 背筋の奥の芯のところを、で撫でられるような快感。ただ平らなだけの毎日に飽き飽きした竜にとっての、またとない娯楽。

 斬りたい。

 そう思った。そして、たとえば遊び女を相手にするとき、その行為のみを楽しむだけではなく、どういう言葉を投げかけてどういう手土産を渡してどういう態度で接してどれくらいの期間で落とすか、ということを楽しむように、そこに至る経緯を楽しむ。竜とは、そういう種類の男であった。


 利八親分に、何の義理もない。ただ金で雇われているわけであるが、力がある分敵の多い男だから、人を斬るということに困らぬから居着いた。正直、下らぬやくざ者の喧嘩や用心棒などには辟易していた。彼らはいつもつまらぬ意地や見栄で喧嘩をするが、その先に何も見ていない。

 ――俺は、坊さんじゃあねえ。絵描きだ。そうじゃなきゃ、歌詠みさ。

 竜は、そのように自分を定義付けている。なるほど、僧侶ならば教義があり、それをどう体現するかというような方策について試行錯誤し、その過程で思想や哲学などにも至り、求道を追い、その先にこそ自己実現が待つものであろうが、絵描きは、絵を描くこと以外の目的で絵は描かぬ。歌詠みもそうであろう。彼らにとっては絵を描いたり歌を詠んだりすること自体が目的であり、自らの存在理由である。そのほかの動機はない。

 まず、興を惹くかどうか。次に、相手が強いかどうか。そして、それを斬れるかどうか。互いの命をそのまま投げつけ合うようなやり取りこそ、竜の悦び。


 水仙と三蔵が戦うところをこっそりと覗き見、確信した。

 ――ああ、俺は、はじめて敵を得た。

 水仙が戦いの場を離れたあと、竜はふらふらと歩く三蔵を追ったが、辻を一つ曲がっただけで、その姿は辻行灯の灯りとそれが作る影に溶けて消えていた。

 三蔵を追うよりも、水仙を再び見つけることのほうが容易かった。

「追ッかけっこだ」

 破れた襖に向かい、口に出して呟いた。

 夜が明けたら、三蔵を追う。その姿を追うことはできない。たとえば犬がそうするように、で追うのだ。

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