血塗れの炎の下の修羅

 一人。このうら寂れた漁師町に、一人。

 吐いた溜め息は白くはならず、音だけでその存在を示した。

 水仙は、ここに今、一人であった。

 いや、一人ではない。その細い両腕で男の脚を握っていて、一心にそれを引きずっている。

 死体を一旦片付けておく小屋。臭いが漏れても人に訝しがられぬよう、八丈島から運んできたくさやの漬け汁も合わせて貯蔵してある。その戸を開き、中に男を引きずり入れた。

 これで、最後。小屋の中には、数えきれぬほどの死体が積み上がっている。血にまみれ、恐ろしい顔をして水仙を睨み付けている彼らと共にあるから、水仙は、全くの一人になったということになる。

 本来、この小屋は、夜の闇に紛れて中のものを運び出し、荷車か何かに載せて磯に捨てるために一時いっとき保管しておくためのものなのだ。だが、水仙一人で彼ら全てを磯に運ぶわけにはゆかぬから、最後の一人を運び入れ、小屋から出て火をつけた。

 夜の闇が、血を振り撒くようにして赤くなる。その熱は炎によるものか、今まさに炎に巻かれている者が水仙を恨むために発するものか。

「おとう

 呟いても、一人。

 どこで、狂ったのか。父が、板倉と関わりを持ち始めたときからか。はじめ、多くある依頼人の一人に過ぎなかった板倉の思惑を助けることで、生きづらい世で生きる伊賀者の一党に生きることのできる場を与えるつもりだったのであろう。

 しかし、父には誇りがあった。人の欲を叶える物のようにして生きるのは、伊賀に連なる者のすべきことではないという誇りが。

 きっと、何もかも、面倒になったのだろう。それゆえ、父は足脱あしぬけをしようとしたのだ。脱けて、どこへゆくつもりだったのか。帰るべき家も守るべき土地も何もない伊賀か。そこに帰って、どうするつもりであったのだろうか。

 水仙には、分かる。父は、伊賀者としての誇りに縛られるあまり暗い世でしか生きられぬ自分たちが誰かの道具ではないということを証すため、伊賀者でなくなろうとしたのだと。自分たちを縛る鎖を断ち切ることで、次の世代に新たな生がもたらされることを期待したのだと。だから、決して何もかも面倒になり、逃げるようにして投げ出したのではない、と強く思い直した。

 だが、水仙は、その父を殺した。父がどのような心持ちで足脱けをしようとしたのかということについて考えれば考えるほど、父が断ち切ろうとした伊賀者としての鎖の執行者としての自分の存在を感じ、悲しく、虚しく、腹立たしくなった。

 今の水仙がもし足脱けをしようとする父の前に立てば、同じことはしないだろう。しかし、今の水仙というものがそもそも父の死の上に成り立っているのだから、考えるだけ無駄である。

 波の音は、悲しみを洗い流しはしない。吐いた息すら、白くはならぬ。ただ、夜を血塗れにする赤と怨嗟の橙だけが、彼女を包んでいる。


 共に暮らしてきた一党の者どもは水仙の知らぬうちに互いに結託し、水仙を首領としては認めぬという姿勢を明らかにしてきた。しかし、水仙には、そこから降りて、誰かの下につくようなことはできない。なぜなら、彼女には、父が考え、為そうとした行いを継ぎ、遂げる責務があると考えているからだ。

 自然、ぶつかり合った。まさか、このようなことになるとは、思いもしなかった。数人程度ならまだいい。竜や三蔵によって一気に数を減らされたとはいえ、まだこの漁師町には数十にものぼる伊賀者の男女が暮らしていたのだ。

 それを、ことごとく葬った。一斉に打ちかかってきたのだから、どうしようもない。死なぬために、戦うしかなかったのだ。そして、自分ひとりが生き残り、他の者は全て死んだ。くさや小屋に運び込まれた夥しい数の死体は、全て仲間のものである。

 水仙を恨み、憎み、今彼女だけが生きて砂を踏んでいることが我慢ならないとでも言わんばかりに、炎が巻き上がっている。それを、ただ見るしかない。

 自分に、これほどの力があるとは。数十の伊賀者を全て殺しつくすような、恐ろしい力が。その出所がいったいどこであるのかは、水仙にも分からない。おそらく、父のことに紐付いて生じる何らかの思念が、彼女を生き残らせたのであろう。


 行かなくては。

 しかし、どこに。

 行くところといえば、ひとつしかない。

 板倉のもとへ。そこへ行き、板倉を刺し殺し、自らが、今炎に巻かれている多くの同族が、そして父が物ではなかったと証すのだ。

 そのためには、唯が要る。唯を差し出し、板倉の見ている前で殺す。自らの意のままに世が動かぬことに腹を立てて暗い力に頼る者に、その力が決して自らの意のままにならぬものなのだということを知らしめてやるのだ。

 そののち、殺す。殺して、自らを縛り、仲間を縛り、父を縛った鎖を断ち切る。そうしてはじめて、生きられる。そう考えた。

 そして、それは、向こうからやってきた。

 温い夜の風に混じり込む、砂を踏む音。そして、それは声となった。

「おい、おい。大火事じゃあねえか。いったい、何事だ」

「――竜の旦那」

 振り返りながら、その声の名を呼んだ。いや、六文竜などというのは、名とも呼べぬものである。水仙という名も、夜半三蔵という名も、全て。全て、誰かがその存在を噛み砕いて理解するために勝手に与えた名。その名がある限り、人は物でしかない。それに甘んじている限り、人にはなれない。

「他の連中は、どうした。俺を地獄の果てまで追い回し、殺すんじゃなかったのかい」

「他の連中は」

 言葉を切って、炎を見上げた。それで竜も何があったのかを察したらしく、咄嗟に刀の柄に手をかけた。それが庇う背後には、紛れもない唯の姿。

「漁をしているとさ――」

 水仙は、転がしていた脇差を鞘ぐるみ拾い上げ、抜いた。血や脂の曇りが、べっとりとこびりついていた。

「――あるんだよ、たまに。小さい魚でも獲ろうかと思って垂らした餌に、思わぬ大物がかかる、ってことが」

「お前」

 墜ちたか、修羅に。竜の薄い唇が、そう言った。修羅と呼ぶにはあまりにみずみずしい水仙の唇は、応じて笑んだ。

「その子を、お渡し」

 竜の背後で、唯が身を少し縮めた。しかし、背後の影から少しだけ身体を出し、水仙にはっきりと見えるように首を横に振った。

「鬼婆のところは、嫌だとさ」

 竜が、からからと笑う。だが、その声はわずかに乾きを見せている。水仙の放つ激しい殺気が、そうさせるのだろう。

「あんたの方から来てくれるなんてね、旦那。それも、その子を連れてさ。とんだ大漁だよ」

「俺の方から来たさ。だが、こいつは渡しゃしねえ。たとえ、こいつが行くと言っても、だ」

 いつでも抜けるよう気を放ちながら、顎だけで唯に合図を送った。安全なところに逃げろ、という竜の意思はすぐに伝わったものらしく、手近な物陰に向かって駆けてゆく。

「手間が省けたのは、こっちも同じさ、水仙」

「どういうことだい」

「唯を連れ、お前にくれてやると言ってお前の一党の連中をすり抜けてお前に近付き、一刺しにして殺すつもりだった。だが、そのあと生きて出るには、やっぱり何十もの相手と斬り結ばなきゃならなかった。それを、まさかお前が片付けておいてくれるとはな」

「まるで、あたし一人なら御しやすい、と言ってるみたいだね」

「その通りさ」

 二人、会話をすることで、呼吸を合わせている。これが完全に合ったとき、この赤い夜は静寂に支配され、何かが満ち、それが弾けると同時に二人のうちどちらかがまた血を振り撒いて夜をさらに塗りこめるのだ。

「嫌な男だね。すぐ、女の上に乗りたがるなんてさ」

「実際、嫌いじゃねえけどな」

 笑ったが、さすがにもう笑顔を作ることはできなかった。

 二人の距離は、七歩ほど。踏み込むには遠い。

 竜は、迂闊に仕掛けられない自分がいることに気付いた。彼の知る水仙ならば、一気に地を蹴って距離を詰め、それに応じようと脇差を振り下ろしてきたところに抜き打ちで仕掛け、それが自分の肉に食い入るよりも速く斬り捨てることができた。しかし、今目の前にいるそれは、これまでとはまるで違う生き物であった。

 それを、修羅と呼んだ。修羅と戦うのは、はじめてである。修羅とは言わずもがな阿修羅の略で、修羅に墜ちるとは人が修羅道に足を踏み入れることを指す。

 そこは妄執によって際限なく広がる戦いばかりの世界とされ、畜生道、餓鬼道、地獄道などと合わせて称されるほどに恐ろしく、そして虚しいものである。人は、生きながらにしてでも修羅に墜ちることがある。それは、たとえ正義や高潔な志であったとしても、それに囚われ行いを誤ることで生ずる。

 竜の前に今立っているものは、まさしく修羅であった。

 なぜそうなったのか、竜が考察することはない。彼は、ただ己の目的のため、唯が必要なのだ。そして、それを阻む障害である水仙を、殺しにきたのだ。

 ――笑っちゃいられねえ。俺も、変わりはねえのかもしれねえ。

 目の前でゆっくりと脇差を構える修羅を見て、内心そう呟いた。

 二つの修羅が、血塗れの炎の下、向かい合っている。

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