闇に笑う鬼

 門扉は、中から閂がかかっている。時間のことを思えば、当然であろう。その脇の潜り戸も同じであったから、裏口などもきっと厳重に戸締まりをしているに違いない。

 どうするのか、というような表情を新九郎が浮かべたが、三蔵は無表情のまま踏み切って塀を蹴り上がり、いちど塀瓦の上に身を落ち着け、音もなくその内側に消えた。

 ほんの僅かな時間ののち、潜り戸が頼りない音を立てて開かれた。

「さ、行くぞ」

 おっかなびっくり新九郎が身を滑り込ませると、足元には人の身体がひとつ。死んでいる。旗本屋敷とはいえ、夜間に見回りを立てるなど、尋常ではない。

「武士じゃあねえな」

 なるほど、言われてみるとその風体は武士のものではなく、刀も短い脇差のようなものを帯びているにすぎない。夜によく溶けるとされる柿染めの装束に、見覚えがあった。

「伊賀者」

「だろうな。伊賀か甲賀かは知らぬがね。どういうわけか、そういう連中がここにはいやがる」

 水仙の一党が水仙自身の手によって全滅したことを知らぬ二人であるから、真っ先にあの艶かしい肢体と物言いの割に笑顔が澄んでいる変わった伊賀者の娘のことを思い浮かべたであろう。

 どちらにしろ、並の旗本屋敷ではないということである。

「暗がりに、気をつけろ。壁か何かのそばの暗がりからは決して出るな。暗がりにいる限り、こちらからは月に浮かぶ敵が見え、相手からこちらは見えぬ。そして、俺の背から、離れるな」

 三蔵は新九郎に死なぬための秘策を授けてやり、その言葉の通り塀が作る影へと身を溶け込ませた。


 このようにして、いつも動いているのだ。新九郎は無論、夜にその身体を闇に滲ませるような生き方などしたことはない。しかし、三蔵はいつもこのようにして動いてきたのだ。

 外塀に沿って、母屋を大きく迂回するようにして移動する。夜目のきくはずの猫すら、三蔵には気付かない。新九郎の気配に気づいてわずかに身構えていた塀の上の猫が、思いのほか三蔵が我が身に接近していたことに驚き、声を上げて逃げた。

 それを聞き付けたのか、建屋の方で影が音もなく動いた。まだ母屋には至っていない。おそらく、客を通すための離れか何かであろう。

 その影は、音を鳴らすことなく砂利を踏んで、身を低くしている。あたりの気配を聴いているのだろう。新九郎は自分の心臓が脈を打つ度に口から飛び出しそうになるのを必死でこらえたが、三蔵は平然とした様子で足元の砂利を小石を拾い上げた。

 ぴしり、と小石が警戒を示す影に向かって飛んだ。影はそれを反射的に掴み取る。どこから飛来したのかは、分からぬらしい。

 もう一つ。さらにもう一つ。その全てを影は掴み取り、さらに警戒を示した。

 どこだ。何者だ。そんなことを考え、暴れる鼓動をつとめて平静に保とうとしているのだろう。

「おい」

 不意に、背後から声がかかった。

 影がはっとして振り向こうとしたとき、闇からにゅっと伸びた三蔵の腕が影の首を捉え、そのまま一息に捻り切った。

 音もなくそれを横たえ、何事もなかったかのようにして三蔵はまた闇に身体を預けた。

 月の出る夜、現れる鬼。もしかすると、光のある夜の方が闇が際立つから、三蔵はそれを好むのかもしれぬ。


 じりじりと音を立てぬように進む。進むたび、新九郎の鼓動は高くなった。その鼓動の音がこの屋敷に潜んでいる敵に自らの所在を知らせてしまうのではないかというほどであった。

 緊張とは、このことである。その極みに、新九郎はいる。自然、集中した。それが、よくなかった。

 前方に集中するあまり、腰の刀の鞘が脇を通り過ぎた石灯籠に立てかけられていた箒に触れ、それを倒して音を立ててしまった。

 闇が一斉に気配を持ち、人の姿になる。三蔵は地に伏せ、息すらも止めているのではないかと思えるほど静かにその気配を消した。

 数が多い。これほどまでの人間が、それも武士ではない人間が、夜間の旗本屋敷に詰めているというのは尋常なことではない。間違いなく、もっと多くの者がいることであろう。

「三蔵どの」

 静かに、言葉を発した。馬鹿、声を立てるな、と三蔵は言いたいところであるが、すぐ間近の新九郎に応答することはできない。

「私が、注意を惹きます。その間に」

 止める間もなく新九郎は闇から躍り出て、盛大に名乗りを上げた。

「松戸新九郎則政、ゆえあって板倉兵庫どのに目通り致したく参上仕った。板倉どののもとに案内あないするならよし、さもなくば刃にて願い申し上げるのみ!」

 一体、何の口上だ、と三蔵は苦笑したが、もう今更新九郎を助けにゆくわけにはいかない。

 敵は、二十はいるか。新九郎は、まだ傷が癒えきっていない。まず、無理であろう。

 死んだ。そう思うしかない。月が作る明かりの下の新九郎の背が、さらば、と言っていた。三蔵も、月が作る闇の中から、さらば、と胸のうちだけで答えた。

 わっと巻き起こる、争闘の気配。それに新九郎が包まれたとき、三蔵はすでに母屋の方へと歩を進めていた。

 新九郎は、選んだのだ。己の命の使いどころを。そのことについて、三蔵は助言はできても、新九郎の行動を決定づけることはできない。

 だから、二人揃って光の下で戦うよりも、新九郎のいのちを使って先に進むことを選んだのだ。


 何も感じないわけはない。人よりも遥かに多く、そして人が決してせぬ形でいのちというものに触れてきた三蔵が、何も感じないわけがない。

 人は、死にすぎる。人生でたった一度しかないはずのそれを、避けて通ることはできない。ある者は馬に蹴られ、ある者は瓦の緩みを直そうとして足を滑らせ、ある者は目の前の者の刃にかかり、ある者は飢えて腹を空かせ、ある者は病に冒され身体を蝕まれ、死ぬ。

 それでも、花は変わらず咲き、月は変わらず光る。風は変わらず流れ、花の香りを運ぶ。月が作った闇は夜明けと共に陽に払われ、そして沈んでまた闇を作る。

 ものごとは限りなく繰り返す。だから、人は死にすぎる。死したのち、その者は何かを選んだり決めたりすることはできない。死とは、その者の生を永遠に固定するものなのだ。

 だから、人は人の死を惜しみ、悼み、悔やむ。三蔵は、思うのだ。仏の教えやら何やらは、死者のための理屈のためのようであって、その実生きる者のためのものであると。求道ぐどう救世ぐぜも信心も極楽も地獄も、生きる者のためにあるのだと。死後にその者が己の生を決定付けることは決してできはしないが、生きる間ならば、それが為し得るのだと。だから、

 ――人は、死にすぎる。ならば、その生と死をどう使うかくらいは、己の意のままであらねばならんのではないだろうか。

 というようなことを思うのかもしれず、そうであるならば、このとき三蔵が新九郎を置き去りにし、自分だけ先に進んだということについて少しくらいは合点がいくのかもしれない。


 勝手戸を静かに開いて母屋に身を滑り込ませようとしたとき、殺気が肌を打った。遅れて、鈍い風。知らずの間に身を退げていなければ、斬られていただろう。

 振り下ろされた刃を踏み付け、喉笛を肘で打つ。そのまま踏みつけている刃の柄に手をかけると、どういう仕様しざまがあるのか、刃が生きているようにして翻って三蔵の手元に収まった。

 二度、突いた。喉と、胸。これで、相手は必ず音を立てずに絶命する。首や胸の中心を突けば血が滝のように噴き上がり、それが案外激しい音を立てるものだから、それはしない。喉を突くなら喉笛から刃が左右にぶれてはならず、胸を突くなら向かって左のあばらの隙間から刃先三寸まで。それで、息が止まる。

 勝手戸の先は、くりやなのだろう。灯りはない。土間のひんやりとした空気だけがそこに鎮座している。どうにかして息をしようとする男が暴れぬよう馬乗りになって両腕を膝でその土間に押さえ込みながら、闇に目が慣れるのを待った。

 また、別の敵。見回っているらしい。いったい、何事だろう。考えても分からぬから、訊くのが早い。

 三蔵とそれが倒した男には気付かぬまま、厨に足を踏み入れる。

 あっという顔を男が闇に見せたその瞬間、男は両膝を土間につけて腕の自由を奪われ、喉笛に指をかけられていた。

「――わかるな。お前の喉の仏さんが、泣くようなことはするな」

 男は、静かに頷いた。

「そうだ。頷くか、首を横に振るかで答えろ」

 また、頷いた。

「お前達は、水仙の手の者か」

 首を、横に振る。

「伊賀者ではないのか」

 また、横に振る。伊賀者ではあるということか。

「板倉は、ねやだな」

 横に。言うつもりはないらしい。

「板倉は、なぜお前達を雇う」

 縦にも横にも振らない。その二つでは答えられぬ質問なのだから、仕方がない。

「教えてくれるなら、頷け。死にたいなら、首を横に」

 頷いた。三蔵は、男の喉笛にかけた指の力をわずかに緩めた。

「こ、ここに」

「なんだと?」

「ここにいる!早く来い!」

 刹那、男の首は捻じ曲がった。張り上げられた声を聞き付け、足音が。

「灯りを投げろ」

 落ち着いた声。闇の中で輪を作る松明が、三蔵の足元に向かって投げ入れられた。それが三蔵を守る闇を払い、その姿を浮かび上がらせた。

「お前が、鬼か」

 そう言う男は、武家装束。板倉の家人けにんなのだろう。歳の頃は、四十過ぎ。その周囲には、武家装束の者やそうでない者合わせ、七人。

 厨でやや広いとはいえ、室内である。一息にはかかれまい。

 勝てる。即座に、三蔵は踏み出した。


 一人。突き出してきた刃を腋すれすれに通し、身を翻して肘でこめかみを砕く。

 二人。みじかい刃物を投げつけてきたのを宙で掴み取り、そのまま投げ返し、額を割る。

 三人。踏み込もうとした姿勢に向かって大きく身体を寄せ、踏み足を抑えて引き倒す。土間に額から叩きつけられたそれは痙攣を起こし、黒っぽい血溜まりを作る。

 四人。武家装束。いのちのやり取りの経験は、ないらしい。教わったであろう通りに大刀を抜き、教わったであろう通りに構えた。まだ若い。袈裟懸けに斬ろうと引き寄せた柄頭を掌で強く押してその背後の者の首筋を斬り、五人。何が起きたのか分からぬ顔をしている四人目の脇差の抜き、腹をえぐる。

 六人。これも武家装束。大刀に手をかける暇も与えずその脇差で首、腋、腰と斬り付け、致命傷を負わせた。

 七人目。灯りを投げろと指示をした、最も年嵩らしい男。

「ずいぶんと、歓迎してくれるねえ」

 言葉を発した。息が怪しくなってきているのか。

「来ると分かっておれば、もてなしをせぬわけにはいくまい。ましてや、鬼だ」

「俺が来ると、知っていたのかね」

「そういうことになるか。どのみち、お前には関わりのないこと」

「おっと、きなさんな」

 殺気を強めようとした男を、そう言って制した。

「教えちゃくれねえかね。この伊賀者みたいな連中は、何のために」

「言ったはずだ。お前には、関わりのないことだと」

「では、板倉は、なぜ唯を欲するのかね」

「言ったはずだ――」

 金属かねの鳴る音。三蔵が、手から脇差を取り落としたのだ。年嵩の男は、わずかな間、はっとした。気を取られるとは、こういうことを言うのだろう。

 その気を取り戻したとき、すでに三蔵の手は懐に。

 忍ばせていた、みじかい刃物。それを腹に刺し込み、空いている手で顎を押し上げて首を折り、刃物を抜いてまたそこに突き立てた。そのままぐるりと廻し切り、即死させた。

 しばらく、そこにそのまま立っていた。

 戸外では、争闘の音。新九郎は、まだ生きて戦っているらしい。

 何のために、戦うのか。いったい、人は何のために、戦うのか。理由を付けることは誰にでもできようが、その理由はどれも人がなぜ戦うのかという解にはなり得ない。

 息が、まだ整わぬ。

 老いた。

 それでも、戦うのだ。

 なぜなのだろう。

 解にはなり得ぬと分かってはいても、三蔵は、自問にこう答えざるを得ない。

 ――ほかに、知らんのだ。表すすべを。

 足元の松明を踏み消すとき、火の粉がぱっと散り、そしてまた闇になった。それでもなお整わぬ息に、三蔵は苦笑を禁じ得ない。

 それを見る者はない。どのみち、闇なのだ。

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