最終夜 月に笑う鬼
帰ってきた鬼
一見、なにか目当てがあって歩いているようには見えぬ。そういう足取りで、三蔵はいちど消えてまた現れた月を見上げながら歩いている。
すっかり、老いた。そろそろ頃合いか、と思っていた頃から、更に十年以上が経っているのだ。たとえば侍だったら嫡子に家督を譲って楽隠居としゃれこむこともできようが、子もなければ侍でもない三蔵にそのようなことができるはずもない。
ただ、己で生き、己で歩む。それ以外の道はない。
梅が咲いたと思ったら、もうこぼれ始めている。次は桃、そして桜、全て散れば緑になって雨が降り、それが止んだら蝉の声。そうして、また歳を取るのだ。
産まれて声を上げたそのときから、死に向かって歩いてゆく。いのちとは、そういうものなのだろう。しかし、それだけのものなのか。
そのいのちを、多く自分の手で終わらせてきた。人の求めに応じ、暗い世界で生きるために。その中で出会った光である徳という女がいたが、それもやはりいのちの定めに従って死んだことを知った。
自分も、また。
おそらく、これが最後の戦いになることだろう。つくづく、思うのだ。これ以上は戦えぬと。毎度、思うのだ。身体は重く足は粘り、胸は裂けそうになる。目も悪くなった。そのたび、思うのだ。自分もまた一つのいのちであり、そうである以上、その定めから逃れることはできぬのだと。
しかし、新九郎は若い。まだ、時間にはゆとりがある。もしかしたら彼もあっという間に老いるのかもしれぬが、その必要がないのならば暗い世界からは早々に手を引き、日向の世界で所帯を持って妻に叱られながら子の相手でもしている方が似合っているように思う。
それを、自ら選び取らせてやりたい。親心でも親切心でもなんでもなく、人を一個のいのちとして見るからこそ、そう思うのだ。
あの水仙という伊賀者など、もっと若い。世が世ならば、生まれが生まれならば誰かいい人を見つけて一緒になり、苦労を重ねながらでも笑って過ごしていたはずだ。なんの因果か暗い世界で産まれ、暗い世界しか知らずに育った彼女こそ、選ぶべきものを選ぶことができる場に立つことを許されなかった者として哀れであろう。
竜はそれらよりも老けてはいるが、やはり若い。自分と同じように暗い世界に生きてはいるが、時間さえあれば人は何にもなれるし、どこへでも行けると三蔵は思うのだ。当人が、暗い世界で生きることに意味を見出して、それが己であると思い定めるならば、それも一つである。どのみち、先があるというのは人にとって良いことである。
そして、唯。自ら何かを望むことすら許されず、人の思うままにしか生きることができなかった生。それはあまりに
それを阻むことは、誰にもできない。誰かが、守ってやらねばならない。自分に確実に迫っているそのときが来るまで、自分に残された力をそのために使いたいと思ったのだ。
ほかに、理由などない。そう思うことにした。
まずは、当座の禍根を断たねばならない。
板倉
三蔵は唯が水仙のもとにいると思っているから、そもそも水仙が仕事をする理由を無くしてやれば、唯が解放されると思っている。
いや、それ以前に、板倉は裁かれるべきなのだ。人を、物としか思わぬ。徳もそうであった。遊女であったそれのもとに通っていたときはどうであったか知らぬが、いざ自分の所有物にしたあと、考えられぬほどひどい仕打ちを与えたという。唯のことも、そうである。それは、裁かれなければならぬことである。
自分が鬼と呼ばれていることは、もちろん知っている。鬼ならば、悪を行う人を踏み殺しても、誰も文句は言うまい。
──生きづらいもんだ。
心のうちだけで、そう呟いた。なぜ、ただ生きるということに、これほど苦い思いを伴ってゆかねばならぬのだろうか。
徳。死んだという。信じたくはないが、はじめから諦めてもいた。それでも十年以上あの賭場から動かなかったのは、自分が生きるための
もしほんとうに三蔵が望むなら、たとえば利八が徳の身請け後の消息について知る手がかりであるということは分かっていたのだから、それを締め上げてでも居所を掴み、救い出しに行くことができなかったわけではない。
だが、それをしなかったのは、やはりどこかに諦めがあったからであろう。
遊女という過酷な生業をしながら、飾るだけ飾られた暗い夜の中で辛うじて生きているよりは、いくらかましかもしれぬと思ったのだ。自分が身請けをしてやっても、暗い世界での居所が変わるだけのことなのだから、と。
ひどい仕打ちを受け、その挙句に死ぬと分かっていれば、また違ったであろう。だが、それを今さらどうこう言っても、どうしようもない。三蔵は、自らの意思で諦めを持ち、目的も何もなくその日を暮らすという生活を過ごすことを選んだのだから。
人の欲を満たすために刃を振るい、見知らぬ人の血を流すよりは、いくらかましであると思えた。無論、三蔵自身の欲のためではない。若い頃などは明らかに悪人であるというような類で、なおかつお上には上手く取り入って責めから逃れるような類の男を、無償で裁きもした。それで救われた者もあったにはあったであろうが、三蔵に感謝をしたことのある者は少ない。そもそも、それが三蔵の仕業であると分からぬように遂げるのだから、仕方ない。
この生とは、何だったのだろう。顔には皺が刻まれ、刈り込んだ頭には白いものが多く混じり、なんとなく頭も身体も鈍くなった今になって、思う。
もし、この血塗られた暗い生に意味があるとするならば。意味を持たせることができるとするならば。それは、暗い世界で鬼として培った力と技と心でもって、唯を救ってやることではないだろうか。三蔵が鬼でなければ為しえぬことを、する。そのために、今一度鬼となった。
あのとき、それを意識して唯の手を引いたのではない。しかし、心の中のいずれかの部分が、瞬間的にそれを取った。渇いていたのだろう。そして、求めていたのだろう。唯がぱっと目の前に現れた瞬間、人の欲のために穢されたそれに、光を感じたのだろう。もし、唯が街ですれ違うだけの、どこにでもいる娘であったなら、そもそも目にも止まらなかったであろう。どこを見ているのか分からぬ眼をし、言葉も無くし、力と怒声に無条件に従うような哀れな生き物になっていたからこそ、それを救わねばと思ったのだ。
どのみち、自分は死ぬ。老いて死ぬのか、老いた身体で無理な戦いをしたがために死ぬのか。あるいは、若く、自分よりももっと強い人間に斬られて死ぬのか。どのみち、自分は唯よりは先に死ぬ。それならば、唯が自分の力でなにごとかを掴み、選ぶことができ、女の身だからといってそれが思うとおりにならぬとき、精一杯怒り、泣くことができるようにしてやりたい。
三蔵を衝き動かすものといえば、結局そういうものなのかもしれぬ。
鬼は、帰ってきた。
その足が、旗本屋敷の前で止まる。ふと門扉を見上げ、その向こうにある光に眼をやった。
「月が、出ていますな」
はっとして振り返った。
新九郎の姿。
「来るなと、言ったろう」
「ええ。しかし、私がどうするかは、私の決めること。言ったはずです。侍とは、己の志を曲げぬものだと」
怪我は、もういいのだろうか。いや、まだ治りきってはいないはずである。新九郎の腕では、間違いなく死ぬ。
「帰るところなど、ないのです」
不思議な笑い方をする、と三蔵は思った。
「失うものも。それならば、せめて、己が侍であり、己が侍であると思っていられる間に、死にたいのです」
馬鹿な理屈を捏ねやがる、と三蔵は思ったが、答えない。新九郎とは、そういう男なのだから。今ここで帰れと言って立ち去るならよし、立ち去らぬなら、思う通りにさせてやるしかない。
守りながらでは、もう戦えぬ。それほど、若くはないのだ。だからこそ、置いてきた。だが、それは誰が新九郎に強いることができることでもない。選ぶのは、彼なのだから。彼の生を生きているのは、他ならぬ彼自身なのだから。
「唯どののためです。これも、言いましたな。侍とは、優しくなければならぬ、と」
また、三蔵の知らぬ類の笑顔をこぼし、言った。
これで、決まりである。
連れてゆく。死んだら、死んだである。そうなったら、捨ててゆく。
進まねばならぬのだ。
その前に、また薄い光を見上げた。
「ご無理はなさいますな、三蔵どの」
どの口が言うのか、と思った。しかし、新九郎にしてみれば、自分は人のものとは思えぬ殺しの技を持つ鬼であると同時に、老いかけた男でもあるのだ。なるほど、侍とは優しいものらしい。
三蔵は、その優しい侍が浮かべているのに似た顔をしながら、答えてやった。
「実際、爺だからな」
それに対して新九郎がまたなにかを言う前に、門扉に手をかけた。
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