血の制裁、月を踏む鬼
足は闇に粘りつくようになり、息はいつまでも整わぬ。土を鳴らすことすら身体が拒んでいて、今すぐに座り込むか、横になりたいと叫んでいる。
そういえば、自分の歳を数えるということをあまりせぬ生であった。夜においては、そういうものはあまり意味をなさないのだ。昼日中であれば光もあるから、人は自分を見て幾つくらいであるとかいう話題を向ける。夜ならばどのみち闇が濃いわけであるから、歳のことなど関わりない。夜、鬼として月の明かりを踏む姿を見た相手は、歳の話題を向けるよりも先に血を撒いて死ぬのだから。
だから、それは己の内のことなのだ、と今さらながら三蔵は思った。月のある夜に現れる鬼と呼ばれた自分はたしかに老いていて、じっさい今この有様である。人に関わりはなくとも、己の身体は、己の
――実際、爺だからな。
そう自嘲してみたところで、身体の辛さが和らぐわけではない。
板倉。追わねば。追って、殺さねば。唯をこれから苛むであろうその根を、今断たねば。自分になら、それができる。どれだけ老いようとも、たとえ死ぬことになろうとも、自分がやらねばならない。守らねばならない。なぜそう思うのかは、分からない。
浮かぶ三日月が、足跡を示している。それはぐるりと母屋を回り込み、表の方へ。そこには何人もの人間が血を流しており、血刀を握り締めたままの新九郎も母屋の脇の岩にもたれかかるようにして倒れていた。
――斬ったのか。すべて。
ついに、新九郎は己の刃でもって敵を屠るということをした。そして、力尽きたのだろう。その先には何もない。しかし、それでも彼はそれをした。何のためであったのか、今三蔵が想像をしても意味はない。新九郎のみが知っていることで、意味があったかどうかは新九郎の中だけでの話なのだ。
ふと見ると、はだけた上衣から血の滲んだ
――誰かが、手当てを?
誰が。
背後で声と物音がして、野兎のように振り返った。そこには、二つの影。
「逃がしゃしねえよ」
ひとつは、竜。
「どけ、どけ!」
もうひとつが、板倉であろう。どうにか己の命を繋ごうと、焦っているらしい。
竜の視線が三蔵の存在を捉えたことで、板倉がつられて振り返った。
三蔵は新九郎のそばを離れ、板倉の方へと足を向けた。
「お前ら、一体」
答えない。
「この屋敷にいる者全てを斬るなど」
やはり答えず、ゆっくりと歩み寄る。歩み寄って、歩を止めた。
「旦那。また会ったな」
竜が声をかけてきた。
「よく、ここが分かったな」
「唯は、ここにゃいねえ」
「居所を、知っているのかね」
「俺が、預かっている」
三蔵の眼が、わずかに光った。預かりながら、それを隠す。その理由が分からぬのだ。竜の言葉には、取引を持ちかけるような響きがある。
「さ、旦那。自分の仕事を、終えな」
竜が、さっと身を引いた。月明かりでも分かるほどに顔を歪めた板倉が、三蔵の方に向き直った。
「なぜ、唯を求めるのかね」
三蔵の声の色は、いつもと変わらぬような調子で間延びしている。
「貴様、この私を誰だと」
「知ったこっちゃないね」
「かの板倉勝重公に連なる者なるぞ。板倉兵庫の名を、聞き知らぬとは言わせぬ」
「だから、知ったこっちゃないね」
来るな、と板倉が悲鳴に似た声を上げた。構わず、三蔵は間合いに入った。
「ものを訊いているのは、俺の方なんだがねえ」
「貴様には、分かるまいて」
たしかに、三蔵には分からぬ。だから、訊いている。
「このような世で己が身を高みに立てようとするのは、並大抵のことではない。糞にも等しい者に取り入り、
それは、唯を求め、水仙などを使って
「唯を、どうするつもりだね」
「もともと、買った
「そのために、唯を」
既に、間合いの中である。たとえば板倉が居合などを使えるのであれば、三蔵を斬ることもできる。しかし板倉は自分の腰に二本の刀があることを忘れてしまったようにして怯え、声を裏返すばかりである。
「人を、物のようにしか思わぬのだな。どのような者でもそれぞれの生があり、いのちがあるというのに」
「それが、どうした」
「この世で己ばかりが尊しと思い込み、それが叶わぬことに腹を立て、己では何もせず人にばかり責めを負わせて。感心しないねえ」
殺気。竜が眼を細めるほど、強い。あっと思った板倉が手をかけて抜こうとした柄尻を掌で抑えて鞘に戻し、横面をはたき飛ばした。
「馬鹿馬鹿しくなってきたぜ、竜」
「――そんなもんだろうよ、旦那。所詮は」
鼻血を撒き散らしながら転がって泣き叫ぶ板倉を、見下ろした。なんの値打ちもない、醜いものだった。それでも、板倉にはいのちがあり、その生がある。
「た、たすけてくれ」
そのいのちに固執し、許しを乞うている。しかし、人を物としか思わず己のために使ったということが罪であり悪であるとは理解していないのだろう。そして、どれだけありがたい高僧の説諭を聞いたところで、理解はできないのだろう。
「たすける?何を」
一匹の鬼が、その前に立った。この鬼は、悪を踏み砕き、血をもって制裁を与える鬼。鞠でも蹴るようにして横腹を蹴り飛ばし、さらに板倉の身体を転がした。
「今、お前の折れた肋が、胸の中に刺さっている。どうだ、思うように息ができまい」
屈み込んで、語りかけた。痛みと恐怖で喚くばかりの板倉の耳に届いたかどうかは分からない。
「立ってみろ。ゆっくりだ」
促されて、板倉は言う通りにした。足をふらつかせながら、それでも立つことができた。
「どうだ。立つという当たり前のことすら、こうなると苦しいものだろう」
ぜえぜえと音を立て、口から血泡を吹きこぼしている。三蔵の言う通り、折れた肋が肺の腑を破ったのだろう。
「それでも、生きたいか。死ぬのは、嫌か」
板倉が、繰り返し頷いた。
「駄目だね」
ふわりと上がった三蔵の足が板倉の膝の上を蹴り降ろして皿を砕き、自然のなりゆきで崩れた身体を支え上げるようにして首を腕で捉え、耳元に口を寄せた。
「己の生き死にが、己の手のうちにない。それは、とても苦しいことなのだろう。お前も、そうしてきた」
どういうわけか、板倉は三蔵にしっかりと捉えて締め上げられている首を横に振ろうとしている。
「だが、お前の理屈で言うならば、人は物ということになる。お前もまた、物。だから、俺の好きにさせてもらう」
それだけ言って脚を砕き、動けぬようにし、
「下らんことをした」
と
「殺さねえのかい」
「助けてくれ、と乞うた。だから、殺さん。息を詰まらせ、勝手に死んでもらう」
「それまでの時、この男が省み、悔いれば少しは、か」
「いや」
三蔵は、にべもない。
「それすら、意味はない。胸を肋で破られ、勝手に死ぬ。それだけのことだ」
「鬼とは、怖いもんだね。旦那」
息をひとつ置いて、三蔵は別のことに話を向けた。
「新九郎の手当てをしたのは、お前さんかい」
「ああ。あいつに必要なのは、六文銭よりも、これからの生だろう」
「たしかにな」
風。わずかに、花の香りを含んでいる。これほど強くあたりに立ち込めた血の臭いの中でも、不思議とそれは分かった。
「――三蔵、どの」
背後で声がして、三蔵は振り返った。駆け寄り、新九郎のそばに屈みこむ。
「大事ないか」
「大事も、大事でありましょう――」
声を発するのも辛そうである。生きているのが不思議というくらいの傷を受けている。
「せっかくだ。死ぬな」
新九郎はわずかに笑い、三蔵の手を取った。
「板倉は」
「勝手に死ぬ」
「唯、どのは」
「これから、救いにゆく」
三蔵の手を握る力が、わずかに強くなった。唯を、救ってやってくれという意味であろう。
「よく生きた。よく、死ななかった」
その肩を軽く叩いてやり、笑いかけた。
「侍とは、強く、やさしくあらねばならぬもの。そのため、決して死なず、生きるもの――」
からからと声を出して笑い、その身体を担ぎ上げた。
「見上げた侍だよ、お前さんは」
そのまま竜のところに戻り、二人で表門から出た。夜が更けて久しい時刻のことであるから、誰もこの騒乱に気付いているものはない。朝になれば、大騒ぎになるのだろう。
「さて、旦那」
竜が、闇の中で呼びかけた。
「こいつは、俺の顔がきく口利き屋にでも預ければいい。あんたの馴染みのところでもいい。そのあと、唯をあんたに渡す。だが、そのまえに、取引だ」
三蔵が、足を止めた。
「――殺し合うのかね。俺とお前さんで」
「乗ってくれるかい」
「乗れば、唯の在処を教える。そうでなくては、分からぬまま。そう言いたいんだろう」
「ま、そういうことだ」
「なら、選ぶまでもないな」
「話が早い。ひとつ、付き合ってくれや」
竜というのも、やはり変わった男である。妙な縁で知り合った三蔵と、未だに戦いたいと思っているらしい。
「なあ、旦那。唯は、あんたの――」
「言うな」
そのまま竜は言葉を切り、二人で夜を踏んで歩いた。
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