ふたつの鬼が払う夜

 板倉のことなど、もうとっくに忘れてしまっている。

 なにごとかを呻き続ける新九郎は山笠屋に預け、迷惑そうにする主人を無視して三蔵と竜は夜の続きを踏みしめた。


 風が吹くときは、なにかが変わろうとしているとき。誰かがそのようなことを言ったような記憶が、遠く遠くにある。

 雨の前。日が落ちるとき。春と夏と秋と冬との境。そういうとき、風とは決まって吹く。

 今も、また。

 二人はその風に追い越されながら、竜の顔利きの別の口入れ屋へ。

「唯」

 駆け寄ってくる唯を、抱き止めた。なぜ自分に駆け寄ってくるのかは、分からなかった。しかし、たしかに、唯であった。

「よかったな、唯」

 竜は、暗い世の者が怖れる技を持つ者とは思えぬような穏やかな顔でひとつ頷いた。三蔵の血と汗と老いに塗り固められた臭いから身体を離した唯が、ぺこりとお辞儀をする。

「これで、落着じゃねえか、旦那」

「ああ」

「先に、渡しておくぜ」

 竜が懐から取り出したのは、六文銭の束。

 二人を交互に見上げる唯の顔色が、変わった。

「店の迷惑になる。どこか、開けた場所がいい」

 唯が先に出ようとする竜の袖を捉え、力一杯引いた。振り返った竜に向かって、激しくかぶりを振る。

「そうだな。お前のだ。だがな、おじさんは、やらなきゃならない。進むにせよ、進まぬにせよ」

 激しく揺さぶられる袖。そこにかかる細く白い手を、そっと包んだ。

「おじさんは、そういう人なんだ」

 そのままするりとその手を解き、店の外へ。そっと背に手を当てて唯を促しながら、三蔵もそれに続く。

 そのまま、長く歩いた。唯にしてみれば、永遠とも呼べる時間であったろう。しかし、全てが同じ夜の中であった。

 月は、なかった。沈んだのだ。そうであるならば、朝が近いということになる。

 江戸らしい黒っぽい土を踏み、三人はゆく。そして、開けた神社の境内へ。

「血で穢せば、神様は怒る。そうとも思うが、もともと血に濡れ続けてきた俺たちが足を踏み入れても怒らぬのが神様だ。差し障りあるまい」

 竜が少し笑った。

「どうしても、やるのかね」

「ああ、そうしてもらおう。嫌かい」

「それをする、意味がない」

「俺の生に、もとより意味なんてない」

 唯を促し、軒の方へ離れさせた。

 どのような心持ちで、この光景を見ているのだろう。そのことを、思った。


 唯は、見ている。自分を救った男と、自分を助けた男の対峙を。竜の言う通り、唯もまた自分の生に何ほどの意味があるのか、分からぬのだ。

 しかしこの男どもは、揃って唯のために戦い、血を撒き散らした。そのことに意味があるのかも分からず、それはおそらく、やはり唯自身が己の生の意味を知らぬからであろう。

 二人の男の一人が、声を。

「どうせ、こんな世だ。自分の思うようにそれを変えることなんて、できやしない」

 もう一人は、黙っている。

「それならば、どう生きるか。そのことのみを追い、求めればいい。違うかい、旦那」

 もし、自分に言葉があれば。彼らにかけるための、言葉があれば。

「そもそも、なぜ生きる。なんのために、生がある。関ヶ原、大坂なんていう昔話の頃のような乱れはなくなったとはいえ、ほんとうにそうか」

 分からない。乱れているのかどうか。乱れていないのならば、なぜ自分は言葉を持たぬのか。乱れていないのならば、なぜこの男どもは今ここでこうして対峙しているのか。

「一見、静かな水面というのは、よいものさ。だけど、水面が静かであり続ければ続けるほど、その奥の深くで水は淀み、腐り、生き物はそこで棲むことができぬようになる」

 それに、絶望しているのか。その割に、その声は明るく、

「だからよ、旦那」

 と、どうしてか長年の朋輩ともがらのような色であった。

「俺たちのような手合いは、そういう腐った水の中に産まれた、まだ誰も何のためにあるのか知らぬようなものなのさ」

「違いない」

 滲んだ影が、同意を示した。月すら隠れているのに、どうしてこの二人の姿が見えるのだろう、と唯は不思議に思ったが、それはきっと自分が闇に眼を凝らしているからなのだろうと考えた。

「だから、それを知るためには、自分のいのちを使うしかねえじゃねえか。いのちをして、消し炭になるその前の赤さと熱さでしか、知ることはできねえじゃねえか」

「お前さんがそう思うのなら、そうなのだろうな」

「あんたは、違うのかい」

 闇が、静かになった。同じだけ、黒が色彩を帯びてきた。

「──夜明けが、近いな」

 まだ、青くはならない。しかし、天地を包む黒は、間違いなく黒ではなくなりつつあった。

「月のある夜に現れる鬼、か。月のない朝は、その鬼はどこにいるんだろうな」

「さあな」

「また夜が来れば、月が昇れば、会えるかな」

「お前さんの中にも、鬼は棲んでいるさ」

「たしかに、な」

 どういう理屈で二人が薄く笑うのか、唯には分からない。

「水仙も、俺は斬った。わたしは物じゃないと、訴え続けていた。あの女の一党の物も、多く斬った。あの女は意固地になり、ひとりぼっちになり、死んだ」

 斬ったのか。はじめて知るような顔を、三蔵が向けた。

「可哀想な女だよ。しかし、俺には斬る意味があった。唯のためさ」

 唯は自分の名が出るとは思っておらず、はっとした。自分のために人が死ぬなら、やはり自分という人間はこの世にあってはならぬものなのか、と暗い気持ちになった。

「いや、唯のためじゃねえ。唯をにして、あんたと戦うためだ。俺は、そのために、あの女を食らったんだ。なるほど、あんたの言う通り、俺も鬼だな」

 何を、待っているのだろう。二人はこうして言葉を交わし、何を待っているのだろう。どうしても、少しずつ薄っぺらくなってゆく闇の中の二人が、何かを待っているようにしか思えぬのだ。

「そして、あんたにも鬼になってもらわなきゃいけねえ。あんたが鬼になるのは、今となっちゃ、唯のためだけだろう」

 三蔵は、答えない。ひとつ息を吸い込み、吐き出した。

「なあ、旦那。あんたは、老いて衰えた身体を使い、なお唯のため鬼として蘇った。人とは、そんなことができるもんなのか。男が女を思う気持ちというのは、親子の情というのは、人が人でなくなってしまうほどに強く、深く、重いものなのか」

 それを、知りたがっている。人が人として人を思う先に、人が人でなくなるということの意味を。

 ああ、竜は、知らぬのだ。そう唯は思った。人を、思ったことがないのだと。そして、思いたがっているのだと。それこそが人であると思っているのだと。

「唯」

 その竜が、声をかけてきた。

「おじさんは、悪い奴さ。手前てめえの身勝手で刀を振るい、お前の好きな三蔵の旦那に向けるんだからな。だから、おじさんを恨め。人が人でなくなったときにどうなるのかを、知っておけ。そして、それを憎め。お前は、そうなるな」

 待っていたものが、すぐそこまでやって来ているのを感じた。僅かに砂利が鳴り、黒がなお色づいてきている。

「どうせなら、闇のうちに。月はなくとも、まだ、あんたは鬼だ」

 三蔵も僅かに砂利を鳴らし、それに応じた。

「見せてくれ。鬼になるという、人として最も美しい姿を。人を思う人の姿を。教えてくれ。人のためにいのちを燃やす、その術を」

 刀の柄に、手をかけた。はじまるのだ。いや、終わるのだ。

 この夜が。

 唯が産まれてからずっとその目で見続けてきた、血の鎖が。

 ふたつの鬼によって、終わるのだ。

 だから、月がないのだ。

 だから、天地は黒ではなく、今、青なのだ。

「教えてくれ──」

 抜いた。抜いて、笑った。しかし青の中の竜のその顔にあるのは喜びではなく、むしろ、もっと別の。

「──かなしみというものを」

 青が、飛び散った。いや、赤だった。竜の言う、いのちの燃える色。

「──旦那」

 いつの間にか、二人の位置はすれ違っていた。そして、三蔵の手には、竜が振り下ろしたはずの刀。

 その刃が青を映しながら、赤を垂らしていた。

「鬼であってはならんのだ、人は。決して、鬼であってはならんのだ」

「悪く、ないね」

「それでも、人は鬼になることがある。鬼でも、笑うさ。泣きもする。怒りもすれば、眠りもする。それは、鬼が、人であるからだ。人は、人であることを、決してやめることはできぬからだ。人は、産まれながらにして、それを知っているからだ」

「はじめから──」

「お前さんもまた、知っていた。殺した相手の生を食らってでしか生きられぬ悲しさを。そして、人が人を思うことの美しさを。はじめから知っていたからこそ抗い、求めた。それは、お前さんが、頭の先からすべて人であるからだ」

 竜が、何かを言おうとした。それは言葉にならず、地に崩れ落ちた。

 何を言おうとしたのかは分からぬが、その血に濡れた顔には、たしかに愛しみがあった。

 光。それが、天地を洗った。

 夜が、明けたのだ。

 それを、唯は見た。

 三蔵が竜の身体の上に六文銭をそっと置いてやるのを見て、唯も駆け寄り、竜に買ってもらった風車を置いてやった。

 朝に吹く風が来て、それをわずかに回した。

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