最終話

「いや、よかった。三蔵どのが、生きていて」

「死にかけて寝込んでいた奴が、よく言う」

 三蔵と新九郎は、互いに笑い合った。新九郎が目覚めたのは、竜が死んでから三日目の夜だった。当たり前であるが、日に日に月は太くなっていっている。それが満月を迎えればまた痩せてゆき、そして消える。消えればまた現れ、太ってゆく。その繰り返しなのであろう。

 目覚めてからさらに七日が経ち、新九郎は布団の上で起き上がることができるようになっていた。こういう口入れ屋が抱えている医師というのはやはり暗い世界に生きていて、その分腕が抜群に立つものであるから、そのせいであろう。

 三蔵は、新九郎の生きようとする意思が強かったから生きたのだ、などとは間違っても言わぬ。生きるものは生き、死ぬものは死ぬ。ただそれだけのことなのだ。それを決めるのは何者でもなく、ただ結果だけがぽつんと、それこそ夜に浮かぶ月のように存在するものである。

「しかし、まさか、竜とそのようなことになったとは」

 新九郎は、複雑なようである。

「ふしぎと、悪人ではありませんでした。変わった男であり、とても暗く、おぞましいものを持っている男でした。しかし、どこか子供のようなところのある男でもありましたな」

「死した者の名を数える、か」

「生きる者には、それしかできません」

 ぱたぱたと足音がして、襖が開いた。

「お、唯。もう戻ったのかね」

 すぐ近くで、縁日が立っている。それを見に行っていたのだ。出たと思ったらすぐに戻ってきたから、三蔵は少し驚いたようである。

「ん、ん」

 唯が、三蔵の袖を引く。一緒に見にゆこうということであるらしい。新九郎の方をちらりと見たが、まだ立ち上がることは難しいと見て、それならば三蔵だけでも、というわけである。

「神輿かね」

 遠くで、神輿を担ぐ声。それを見にゆこうということであるらしい。

「どれ、行くか」

「では、私も」

 新九郎が痛みをこらえ、立ち上がろうとする。

「動くな。傷に障る」

「なんの。少しくらい動かねば、治るものも治りませぬ」

「頑なだねえ。それも、侍かい」

「いいえ、性分です」

 三蔵は声を上げて笑って新九郎の好きにさせ、きざはしを降りるときはさすがに手を貸してやった。


 じっとりとした目と溜め息でもって三人を見送る山笠屋の主人を横目に、戸外へ。わっと天地が彼らを迎え入れ、すぐ目の前を神輿が通りすぎたところであった。

「誰が生き、誰が死のうと、決まった日になれば神輿は出る。夜になれば月は昇り、やがて沈んで朝になる。陽が傾けばまた夜になり、そして眠ればまた朝。人はその中で営み、生きるのですね」

 新九郎なりに、この一連の戦いの中でなにか感ずるところがあったものらしい。

「そして、今、己がどうするか。それを繰り返すことが、生。瞬きひとつする間にも生はそこにあり、その一瞬の闇が開けたときに己がどうあるのかを、いつも見定める。そんな風に過ごすことができればいいのにな」

 いつもいつも、そのようなわけにはゆかぬ。それは、三蔵ですらもそうである。いや、三蔵はもしかすると、人一倍それが下手であるのかもしれぬ。

 唯が、新九郎を気遣って見上げた。

「大事ない。少し立って歩いたくらいではな」

 新九郎は笑って答えてやり、唯の頭をひとつ撫でた。

 店の中に戻った三人は、また主人の前を通る。そのとき、三蔵が足を止めた。

「親父」

「なんだ、旦那」

「こいつが食いつないでゆけるような心当たりは、ないか」

「お侍だね。おおかた、主家を脱けた次男坊ってところかい」

 さすがは眼が聡い。説明は要らぬようである。

「ないことはない」

「と言うと?」

「多摩の方なんだがね。小さな道場に跡取りがなく、潰れかけている。門人は百姓ばかりのつまらん道場さ。そこに入るなんてのは、どうだい」

「私が、剣術を――」

 先にも触れたが新九郎のような生まれの者ならば、剣術をするくらいしかすることがない。ゆえにそれを志すしかないわけであるが、父の仇を討つためにその全てをなげうった。それが、戻ろうとしているのである。たとえ田舎の傾きかけた道場であろうと、門人が百姓であろうと、剣に生きることが再び許されるなら、そんなに嬉しいことはない。

「しかし、よろしいのでしょうか」

 思えば、足を引っ張ってばかりである。その上、このあとの生の世話までされては、申し訳が立たぬ。そういう顔を見せた。

「なに。どのみち、お前さんはこのままじゃ、竜のようになってゆくしかあるまいよ」

 たしかに、そうである。あるいは、三蔵のようになってゆくのか。はじめこそ三蔵の技とその生死観に感ずるところがあり同行を始めた新九郎であるが、今となってはその血塗られた道の業深きことを知ってしまっている。

 己の手を血で染めたがゆえ、それを知ることができたと言えば聞こえがよい。早い話が、こりごりだということである。

「貧しくとも身を立て、日々を営み、やがて妻でも娶り、子を設け、そうするうちに、見えることも多かろう」

「三蔵どのは、どうなさるのです」

「俺は俺さ。唯を、放っておくことはできんからな。ま、その辺で畑でも買って、上手くやるさ」

「やはり、唯どのは――」

 まん丸い眼を向けてくる唯にかなしげな笑顔を向けてから、新九郎は主人に向き直って深々と頭を下げた。

「傷の世話をしていただいた上に、向後の身の振り方のお世話まで。何とお礼を言ったらよいのか」

「迷惑なんだ。いちおう、うちは普通の炭問屋で通してるもんでね。あんたらがとっとと出て行ってくれるなら、何だってやるさ」

「憎まれ口を利きやがる」

 三蔵はからからと笑い、部屋に上がっていった。


 それからまた少し日が過ぎて、新九郎はいよいよ立って歩くことに不自由せぬほどに回復した。

「行くのかね」

「ええ、三蔵どの」

「それなら、俺たちも行くかね」

 唯が頷き、立ち上がった。

 戸外へ。

 行き交う人の中、新九郎は背筋を伸ばして立った。

「三蔵どの。あなたと過ごした中で、多くのものを与えていただいた。それをこの新九郎、生涯のご恩と思い、生きて参ります」

「大袈裟だねえ」

 三蔵は苦笑した。そして、言葉を継いだ。

「人が、人になにかを与えることができるとすれば、それは金や物に限ったことだ。お前さんが俺に与えられたと今言ったものは、そのようなものではあるまい」

「しかし、私は確かに――」

「俺が与えたのではない。お前さんの内なるところから生じた、あるいははじめからそこにあったものに眼を向けた。それだけのことだ」

 たしかに、そうなのかもしれぬ。現代においても勇気をもらった、とか元気をもらった、などと言うことがあるが、三蔵の言う通り、人が勇気や元気を与えたりすることは断じてない。実際のところは、人の行いを見たり言葉を聞いたりして、己の内から生じるものなのだろう。

「それを、人に負わせちゃならねえ。全て、己なのだ。それを、忘れるな。もし、俺の言うことと違う、お前さんの生の姿を見出すことができれば、それはそれで良いことだ。そのときは、それをまたお前さんを知る者に伝えるために、その生を使えばいい」

「胸の内に、刻んでおきます」

 深く、深く辞儀をし、新九郎は颯爽と歩き出し、西の方へ。多摩へと向かうのだろう。

「さて。俺たちは、どこに行くかね」

 唯は小首を傾げ、三蔵の袖を掴んだ。どこへでもよいという意味であろう。

「嫌になったら、いつでも言ってくれ。お前が一人前ひとりまえに長じれば、どこかに嫁にでもゆけばいい。それまでは、どうにか食っていくしかない」

 その言葉から、もう三蔵が口に糊をするために殺しをすることはないのだと思えて、唯はそれが嬉しかった。自分のために人が鬼になるなど、まっぴら御免である。

 それも、三蔵が人であるがゆえ。それほどに、三蔵は自分を大切に思い、その残りの生を使おうとしてくれているのだ。そう思うことができた。

 それは、なぜか。

 うすうす、いや、明らかに、唯は知っていた。

「さあ、行こうか」

 声に応じて袖を捉えた手を滑らせ、がさがさとした手に重ねた。

「ん」

 ――行こう。

 唯は、三蔵に胸のうちで、そう語りかけた。

 そうだ。自分は、これを、知っている。

 鍵のかかった箱のようにして、閉じ込めていただけで、これをはじめから知っているのだ。

 喉を上下させ、舌を前後させ、息を吐き出した。

 そこから先、少し迷った。

 三蔵が訝しい顔をして、見下ろしている。

 その頭上には、空と雲。

 もう一度、息を。

 知っていた。

 だから、自分にとって三蔵がどのような者であるのか、三蔵がそうしてくれるように自分もまた三蔵を大切に思っていることを表すことができた。

「――おとうちゃん」


 完

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月に笑う鬼 増黒 豊 @tag510

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