若月を望む鬼
「どうだね、具合は」
「なんの。これしきの傷」
新九郎は身を起こし、笑った。その笑顔に、まだわずかに無理があるが、大事はなさそうである。
「膿まなかったようだ。お前さんの言う通り、すぐに良くなるだろう」
着物の
「この山笠屋どのが世話をしてくれた医者も、なかなかの腕利きで」
新九郎を山笠屋に運び込んだときは、主人も、
「三蔵。久しぶりに顔をよく見せるようになったと思えば、今度は何だ。本当、勘弁してくれ」
と言い、苦い顔をした。暗い世界に生きる者に暗い仕事を斡旋はしても、それで怪我をした者の面倒までは見きれないというわけである。
「おう、おう。見捨てるのかい。山笠屋の名に、傷が付かなければいいけどねえ」
「嫌な物言いだ、まったく。脅しやがる」
そんな具合に、無理やり預けてきた。山笠屋は悪態をついていた割には腕利きの医者をちゃんと連れてきて、新九郎の手当てを篤くしていた。
「さて。このあとのことだが、お前さん、どうするね」
三蔵が、伊勢参りの段取りのことでも言うような調子で言った。
「このあと、とは」
新九郎には、話が見えない。
「俺が思うに」
三蔵は、なぜか眼を暗くした。
「お前さんは、ここまでにしておいた方がいい」
「と、申されますと」
「死ぬ」
その言葉を三蔵が口にすると、嫌でも凄味が出る。新九郎はじわりと背が冷たくなるのを感じながら、また無理に笑った。傷をこらえてのことではなく、別の部分に力を入れるように。
「私は、いちど決めたことを、曲げるつもりはありません」
「それで死んでは、何にもなるまい」
「もとより、あの勧進橋で、滅多斬りにされていた身。今さら、何を惜しむことがありましょう」
若い新九郎が笑って見せる歯の白さが何故か悲しくて、三蔵は思わず眼を伏せた。
「今さら何を、ねえ」
「ええ。今さら、何を惜しむことが──」
「命だ。お前さんの」
再び上げた眼のどんよりとした曇りの奥に、何かが光った。それを見た新九郎は黙り込み、それでもなお折れぬ強い声で言う。
「命を惜しんで、失ってはならないものを失うのは、御免
失ってはならないものというのが何であるのか、三蔵は問わない。ただ、
「やめとけ。お前さんの出る幕じゃない。俺なんざに付いて来たって、得るものなんて何もない」
新九郎は、少し笑った。
「あるのです。私は、主家を持たずとも、侍なのです。三蔵どのが唯どのを守ろうとしている。それを助けずして、私は侍でいることはできぬのです」
「しかし」
「私は、知ったのです。三蔵どのと、唯どのを」
「知ったが、どうした」
三蔵は、苦笑するしかない。
「己を知る者のために死す。それ以前に、恩があれば返し、生きる知り人で困る者があればそれを助け、阻むものがあるなら打ち倒す。侍とは、そういう優しい生き物であるべきなのです」
「お前さんは、そう思い定めているんだな」
「いかにも」
「こんな世で、殊勝なこった」
新九郎はなぜか驚いたような顔を見せたが、穏やかに目を細め、
「こんな世だからです、三蔵どの」
と言った。取り付く島もないとはこのことであると三蔵はそれ以上押し問答をするのを諦め、別の取り止めもない話をし、また来ると言って立ち去った。
また、月。いよいよ細くなり、もうすぐ
昔のようには、戦えぬ。息は切れ、脚は痛み、眠っても疲れが取れぬ。動いた後はことあるごとに咳き込むようになったし、なにより身体が重い。
十年以上の時間が空いたからではない。十年以上の時間が経ったから、自分がどんどん戦えぬようになっているのだ。
自分に朔が来れば、もう再び満ちることはない。そういうものなのだ。
鬼と呼ばれた。夜半三蔵などという馬鹿馬鹿しい通り名もある。ほんとうの名が何であるのかなど、大したことではない。いつ、どこで、なんのために自分が産まれたか、などという高尚なことを考えるような生でなかったことだけは、確かである。
それでも、夜には決まって光はあった。その光を、愛した女がいた。その女を、愛しもした。しかし朔が来てその女は消え、再び光が満ちても戻ることはなかった。
「――
自らの名に意味などないが、その名には意味があった。
もう、死んで亡いという。だから、存在することだけを知った意味の、その奥にあるものに手を触れ、知ることはできなくなった。ただ静かに欠け、失われようとしている光だけが、頭上にあった。
否、と思う。やはり、光は、また満ちるのだ。必ず。もしかすると、月とは同じ月が満ち、消え、また満ちを繰り返すのではなく、いちど満ちた月が欠け、消え、また空に現れるとき、生まれ変わっているのかもしれぬ。
今日の
三蔵の行動動機といえば、それだけである。ほかに、どのような理由も持ち合わせていない。だから、あっさりと鬼になることができた。鬼であることをやめたわけではなく、ただ徳の居所を掴もうと潜んでいただけであるし、それ以前に自分が鬼であると思ったこともない。
徳に、似ていた。一目見て、そう思った。まさか、と思ったが、次の瞬間には、唯を受け取ろうとする賭場の者の腕から引ったくっていた。何故自分がそれをしたのかは、分からない。だが、そうしなければならないと思った。そして、利八の話により、自らを衝き動かした直感が、確信に変わった。それを確かめる術は、ない。いや、一つあるが、それをすることに意味はない。意味があるとするならば、徳という月が朔を迎え、あらたに現れた唯という若月を、光り輝かせることにこそある。
どのみち、人は死ぬ。その自然の流れを止めることはできない。それならば、自然の通りに満ち、欠ければよい。それを阻むものこそが、悪として註されるべきなのである。
利のため、金のため、人を殺し続けてきた。それ以外に、自らの生を繋ぐことができなかったからだ。それは、紛れもなく悪であろう。別に、今まで殺した者に詫びるつもりもない。だが、それ以外に、自らの生に意味があると確信できるものが、目の前にある。それは言葉を失い、悲しそうな眼をいつもし、怯え、震えている。
暗がりに生き、鬼としか人に呼ばれなかった者が、光を求めて鬼になる。そうすることで、はじめて人になれるような気がしている。鬼とは、そういう生き物なのだろう。
だから、ゆくのだ。
新九郎を残し置いたのは、優しさなのか。あるいは、ただでさえ戦い慣れぬ上に怪我をしている新九郎を連れてでは、自分まで死んでしまうと思ったからか。
命を、惜しめ。他人には、そう言ってやることができる。しかし、不思議と、自分の命には惜しむほどの価値があるとは思えない。
――どちらにしろ、鬼ならば、鬼らしくやるだけさ。
風が、強い。春なのだ。次に産まれる若月が満月となる頃には、すっかり暖かくなっているだろう。
それを、見ることができるかどうか。
どちらにしろ、月は満ち、光でもって夜を見下ろすだろう。
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