砂が鳴く
水仙は、若く、女の身でありながら、よく働いた。幼い頃から昼は漁に出る男の手伝いをし、夜になれば忍の技を磨いた。
「我らは、どこまでいっても根無し草」
父は、いつもそう言って笑った。
「伊賀にも帰る場所はなく、この江戸でも堂々と陽を浴びることもない。生きづらい世だが、水仙、お前は、見定めねばならぬ」
とも言った。
「共に生きる者が、生きてゆく道を。それを互いに探し、歩むこと。それが、我らの代において為さねばならぬこと」
これよりもっとずっと昔、戦国の終わりに伴い、彼らのような者は生きるべき場所を失った。彼らの多くは伊賀の里に戻って帰農したが、それをよしとせず、新たな世においてもまだ自分たちの力が必要とされる場があると考える者がいた。
それが、水仙らの何代か前の世代である。
彼らのその選択を、水仙らが覆すことはできない。定められた道があるからだ。水仙の父は、もしかしたら、その道から自分たちの足でもって大きく逸脱する術を探していたのかもしれぬ。
その頃の水仙には、よく分からなかった。なんとなく分かるようになってきたのは、少し長じてからのことである。
そして、父の見ていたものをほんとうに見定めてゆこうと決めたのは、一年前のこと。
「難しい仕事だ」
父は手の者の中で主だった者を集め、そう言った。寝蝮もいれば、水仙を殺そうとして返り討ちに合った者もいた。彼らは、水仙の父のことを、
「
と呼んだ。
その後を水仙が襲っても、彼女がそう呼ばれることはなかったが、水仙の父は、頭であった。
「頭。難しいが、やるしかない。板倉さまほどの大身の目にかかれば、俺たちは安泰だ」
そのときが、はじめての板倉からの依頼であった。
「しかし、その板倉という者、旗本とは言うが、いったいどういう者なのであろう」
「寝蝮。それについては、俺も少し調べた」
父の声の色が、いつもと僅かに異なることを水仙は感じた。その声が、続く。
「
「ちがう、家筋のことなどではない。そんなこと、下町の路地裏の子供に聞いても分かる」
寝蝮が言うのは、そういう表向きのことではなく、もっと奥の部分のことである。
「勝重公の嫡流の家筋ならば、大名が務まるほどの格式になる」
板倉家は徳川家康の三河時代の譜代であるから当たり前であり、その流れの多くの者が幕閣に取り立てられている。しかし、傍流のうちでそれほど位の高くない板倉兵庫の家筋は、よほどのことがない限り、せいぜい小旗本止まりである。それを板倉は面白がらず、あの手この手を使い、幕閣の深くに食い入り、相応の座を得ようとしているものらしい。
「欲か」
寝蝮が、吐き捨てるように言った。伊賀者というのは不思議な生き物で、口に糊するためにどのような仕事でも受ける割には、こういう潔癖なところがある。昔からあまりに汚れた仕事をし続けてきたために、その中で己を保つため、彼らなりの価値観などを育ててきたのたろう。
「なんでも、どこぞの遊女を囲い、ひどい仕打ちを与え続けて挙句には病で死なせ、その間に産まれた子も物のように扱い、売り飛ばすような男であるらしい。俺は、正直、そのような男の関わり合いになるのはどうかとも思うのだが、致し方ない」
やはり、父の顔色が、どこかおかしい。
「俺はな」
父は、嘆息とともに言葉を継いだ。
「思うのだ。俺たちは、物ではないと。しかし、世は俺たちを知らず、知る者は板倉さまのように人を物としてしか見ることのできぬ者ばかり。正直、嫌になる」
「頭のお前が、そのようなこと」
「言うべきではない。それは分かっているのだ、寝蝮」
「ならば、俺から言うことはない。たとえどれだけ汚い仕事であれど、伊賀者はそれを選ばぬ。ずっと、そうしてきたのだ」
「しかし、な」
父の眼が、水仙の方に来た。
「ほかに、方法はないものか。俺たちが求めるべき光は、ほんとうにどこにもないのか」
その夜のことである。
水仙は、寝ぐらの中でごそごそと音を立てる父の気配で目を覚ました。
「お
父はそれに答えることなく、すくと立ち上がり、戸口から出て行った。用便だろうかとも思ったが、なにやら胸騒ぎがしたので、少ししてから後を追った。
波の音。それに混ざる、人の声。冬の終わりを告げる風が、それを運んでいる。
「そもそも、お前がもたらした話ではないか」
「そうだ。しかし、俺は、やはり胸のうちにあるものを拭い切ることができぬ」
「どうやって、生きてゆくのだ」
「分からぬ」
父と、寝蝮である。
「頭。お前は、自分が何を言っているのか、分かっているのか」
「分かっている」
「
「伊賀に帰る」
「帰るところなど、我らにはない」
先祖の土地。それは、彼らの全く知らぬ人々のものになっている。今さら、どこにどうやって帰ればよいのか。そのことを言った。
「寝蝮よ。俺には、一党を率いる者として、お前たちを導いてゆかねばならぬ責があるのだ」
「それならば、何を迷う」
父の言うことと寝蝮の言うことに食い違いが生じているのが、水仙にも分かった。
「我ら一党も、知らぬ間にずいぶん増えた」
「皆、お前を慕っているのだ、頭」
父は、それには答えない。
「一人ひとりの顔を見ていると、物のように扱われなければならぬ者など、どこにもいない。物であってはじめて、人になることができる。それを、おかしいと思わぬか」
「分からぬでもない。しかし、どうしようもない」
「闇ならば、せめて、光を。俺は、それを求めることをやめてはならぬと思うのだ」
また、風。それから、波の音。
「だから、脱けると言うのか」
「共に、来ぬか。皆で、伊賀へ」
「――断る」
寝蝮の声が、ごうと啼く風にかき消された。
「人が多くなったからこそ、彼らの腹を満たすことをまずせねばならぬ。たとえそれが板倉のような手合いを助けるようなことであっても、だ」
「そうか」
父の声に、落胆の色が混じった。
「お父」
なぜ、このとき自らの声を海と風の音に混ぜたのか、一年経っても水仙には分からない。
「水仙」
父が、顔を向けた。星と頼りない三日月しか上がらぬ闇の中でも、驚いた顔をしているのが分かった。
「掟は?」
伊賀者の掟。古くから、特定の誰かに仕えることなく、雇用関係として活動をしてきた彼らにとって、脱走は許すことができぬことである。それによりこれまで行った暗い仕事の情報がどこに漏れるかも分からず、組織全体の信用のため、脱走者は土を掘り返してでも捜し出し、殺すのが掟である。父が脱けると言うならば、掟に従い、父は死なねばならぬということになる。
「もとより、覚悟の上だ」
父の喉まで、ともに来い、という言葉が上がっているのが分かった。
「お父」
水仙の消え入りそうな声が、それを喉の中に留めた。
「掟よ」
水仙は、知らなかった。これほどまでに、自分が伊賀者であったとは。親子の情よりも、自らに流れる血そのものに従う類の生き物であったとは。犬畜生にすら、親子の情はある。それよりも掟、と言うならば、伊賀者とは一体何なのか。しかし、自分は物ではない。父の言う通りであると思った。
だから、だからこそ、水仙は手握りしていた刃を抜いた。
「ここで生きてゆくということか、水仙」
父は、まだ若い我が娘にこれほど強い意志が備わっていると思ってはいなかったらしく、思わず自らの刃に手をかけた。それほど、水仙の放つ殺気は強いものであった。
「脱ければ、わたしたちが物であったと、認めることになる」
呟くように、囁くように、闇の中で唇が動いた。水仙自身も自覚せぬままに。
「わたしたちは、物じゃない」
待て、と父が遮りさえしなければ、斬らずに済んだのだろう。
待て、と父が遮ってしまったから、父や寝蝮から幼い頃より仕込まれた殺しの技が、水仙の意識を飛び越えて蛇のように渦を巻き、父に喰らい付いた。
気付いたときには、もう遅い。
「――悔いるな。我らは、伊賀者。お前の父が何を求めようとしていたのか、分からぬでもない。しかし、それを望むには、我らはあまりにも何も持たぬ」
そう言って肩に手を添える寝蝮の声だけが、波と風の音に応じるようにして耳に届いた。
「まず、生きてこそ。まず、生きてこそなのだ、水仙」
はらりと砂が鳴った。水仙が寝蝮を見上げた顔からそれが落ちる度に、はらはらと砂は鳴った。
「あたしたちは、物じゃない」
ぐいと頬を拭い、砂が鳴かぬようにした。それでも、砂の声は止まない。闇に目をこらすと、自らの右手にぶら下げた刃から、父のものであった血が滴り落ちていた。
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