今日、この日
結局、唯の居所も三蔵の居所も分からぬまま、一から捜しださねばならぬということになってしまった。それをしようにも、手の者は竜や三蔵と戦って減ってしまったから、能率が悪い。
竜も、三蔵も、水仙が今まで見たことのある凄腕、使い手などと言われる連中とは一線を画すものを持っていた。そうでなければ、幼い頃からそう生きるべく鍛えに鍛えてきた伊賀者があっさりと殺されたりするはずがない。
やや余談にはなるが、彼らの修練は独特である。たとえば指二本でどこかにぶら下がって身体を支えることができるよう、約六十キログラムほどもある米俵を指二本だけで持ち上げたり、家の前に成長の早い麻を植え、毎日家を出入りする度にそれを飛び越え、その麻が背丈ほども伸びる頃には常人離れした跳躍力を得ていたりという具合のものである。さすがに江戸で隠れ棲んでいる彼らは人目をはばかって家の前に麻を植えたりはせぬが、その分重い漁具を扱ったり、海に浸かって跳躍したりして身体を鍛えていた。
そうやって、血の一滴まで伊賀者として育ってきた手の者をすれ違いざま一刀で斬り伏せたり、素手で殺したりするなど、竜や三蔵の持つそれこそ常軌を逸した殺しの技である。実際のところ、水仙は思い出すだけでも自らの白い肌に粟が立つのを覚える。
あの新九郎という男は、そうでもなかった、と水仙は思った。しかし、おぞましい殺気や殺しの技などは感じなかったが、水仙の知らぬ、確固たる戦いの意思があった。それに、鍛えに鍛えた手の者のうちの数人は打ち倒されたのだ。
とんでもないことになった。正直、そういう思いはある。彼女はこの生き辛い世でただ生きるべくして生きるということを求めるのみであるのに、他ならぬこの世自体がそれを思うようにさせぬ。
仕事は、漏れなくこなす。それが、水仙たちがこの世に存在するためのたった一つの手段。それすら遂げられぬなら、この世において生きるべき場所などないのだ。
女の、それも若い娘が持つものとは明らかに違う鋭さを持った眼差しが、すっかり高く昇った陽を睨み付けている。きっと、もうすぐ花は咲くのだろう。まずは、梅。いくら花が咲こうが、どれだけそれが散ろうが、水仙のすべきことは、いつも同じ。
流言を流し、人を拐い、火付けをし、あとは殺し、殺し、殺し。
この世の暗いところにあるあらゆる澱みに、自ら飛び込むような。いや、その澱みに生まれ、そこでしか生きることを許されぬような。そういう自らの定めを呪うことすら、許されぬ。
──水仙なんて、馬鹿な名さ。
花が咲いたから、どうだというのだ。彼女には、点々と咲く花よりも、それに似てはいてもまるで異なる血の滴のほうが馴染みが深い。それなのに、水仙などという名を使っているということが、たまらなく馬鹿馬鹿しく思えるものらしい。
父が与えた通り名である。ほんとうの名は、あるのかどうかすら分からぬ。あったところで、それを用いるつもりもない。
己が誰であるのか。それは、たとえば路地裏の暗がりが、あるいは月の夜の木の下闇が、そこに転がるいくつもの死体が知っている。
今さらのように、思う。
何があっても夜明けまでには戻るはずであった寝蝮も、これまで水仙が殺してきた数多くの者も、その間に隔たりはないのだ。そして、自分もいつそちら側に立つことか。
父は、そちら側に立った。だから、死んだ。
そのことを思い出しかけ、にわかに嘔吐した。道ゆく人が駆け寄り、背をさする。それは親切そうな婦人で、家がすぐ近くだから休んでいってはどうか、と声をかけてくれた。
「結構です」
と青ざめた顔で言い、縮み上がる胃の腑に喝を入れるようにして立ち上がった。婦人はなお心配そうな顔で水仙の腰のあたりに手を当てているが、それすらも煩わしく、背に負った包みを解いてその手を斬り落としたいような衝動に駆られた。しかし、さすがにそれはしない。
だから、そっとその手を払いのけ、また陽を睨みながら道をゆくしかないのだ。そこら中の木賃か口利き屋を当たれば、三蔵や竜の居所が掴めるだろう。今は、どちらかと言えば竜を見つける方が優先である。水仙も伊賀者である以上仕事の内容は選ばぬし優劣を付けたりはせぬが、やはり江戸から外れたところでのさばっているやくざ者の依頼より、旗本である板倉の依頼の方が仕損じた後の後難が怖い。
重ねて、思う。生き辛い世の中であると。だが、それを疑うことはできない。なぜなら、彼女はそれ以外の世を知らぬからだ。
歩く彼女に、いくつかの気配がそれとなく従っている。手の者が、合流してきているのだ。
「どうなった」
一見、言葉を発しているとは分からぬような声で、その一人が問うた。
「仕損じた。寝蝮も、死んだ」
気配は、どれも黙ったまま同じ距離を保って続く。
陽が傾いて、町外れ、もうすぐ下町に差し掛かるという川原で、ようやく足を止める。
「どうするのだ、水仙」
「どうもこうも、ないよ。手当たり次第に六文竜を探し、唯を見つけ出さないと、あたしたちがひどい目に合う」
「板倉さまのご不興を買っては、生きてゆけぬぞ」
「わかってる。今、そう言ったじゃないか」
「水仙」
はっとした。彼らが身に纏っているのは、紛れもなく殺気。背の荷を解き、脇差の柄を握った。
「俺は、反対であったのだ。お前の父の後を、まだ年若で、しかも女のお前が継ぐことに」
「なにが、言いたい」
「お前では、無理なのだよ」
改めて、水仙はこの場にいる人間の数を数えた。六人。
「どうする。あたしに、逆らうってのかい」
「思い違いをしているようだが――」
先ほどから言葉を発している一人が、ゆっくりと自らの刃を光らせた。この男もまた古くから江戸で生きており、水仙の父や寝蝮の弟子のような存在であった。
「俺は、いや、俺たちは、これまでお前に従ったことなど、一度もない」
「言ってくれるじゃない」
水仙は笑ったが、全身を打つ殺気に、声が乾いている。
「お前の父は、偉大であった」
言うな。そう思った。
「お前の父がいた頃は、我らには希望があった。たとえどれだけ暗いことをしても、その先に必ず光があると信じることができた。しかし、どうだ。お前の父が死んでからというもの、ただ食い、ただ生きるためだけに生きる日々ではないか」
それ以上、言うな。その思いは、この男には伝わらぬらしい。
「お前の父が
「言うな!」
鞘ぐるみ、脇差を前に構えた。男どもがいっせいに戦いの構えを取った。
「気に病んでいるのか、水仙」
言葉を発する男は、落ち着いているらしい。皮肉に口許を歪め、笑った。
「思えば、お前も哀れな娘だ。誰にでも慕われていた父が突如として我らもお前も全てを捨て、逃げたのだからな」
「言うなと、言っている」
激しく唇を噛んだ。それで滲んだ血が、紅を引いたように唇を染めている。
「そして、足脱けをした者は、死。娘のお前が、手にかけたのだからな」
「言うな!」
川原の砂利を蹴った。それが音を立てるのと同時に、身体の前に構えた脇差を抜いた。言葉を発していた男が応じようとしたが、目にも留まらぬ水仙の突進を避けることができず、即座に死骸となって石を鳴らした。
わっと殺気が息吹き、音もなく飛び掛ってきた。
「よりにもよって、今日、この日に――」
水仙は激しく眼を燃やし、それを見た。
少しの後、背の方に沈もうとする陽に黒く浮かび上がりながら、水仙は肩で息をしていた。足元には、六つの死骸。それぞれが激しく血と
よりにもよって、今日、この日に。
何から何まで、ろくでもない日であった。
たまたまなのか何なのか、ちょうど一年前の同じ日、水仙は自らの父を斬った。
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