仕事

 刻限になっても、寝蝮ねまむしは来ぬ。それで、水仙は彼の身に何があったのかを知った。

 逃げたように見せかけ、寝蝮はその場に潜伏し、竜の隙を突いて殺す。そして唯を連れ、ここで合流する。そういう手筈であった。

 仲間は、だいぶ減った。この冬の終わりの間だけで、二十人、いや、三十人は死んだか。水仙は、このまま仲間がどんどん消えてゆき、最後は自分一人になるのではないかというような思いに駆られたが、若いとはいえ彼女もまた伊賀者の一党を率いる身、孤独などに心を惑わされることはない。

 寝蝮。父と、同じくらいの歳の男である。幼い頃から父と共に過ごしていたらしく、二人の心の繋がりは深いらしかった。父が死んでからは、彼が水仙の親代わりであった。伊賀者のことゆえ、と筆者も淡々とそれを描くが、彼らはそういう間柄であった。それが死んだことを知り、なお眉一つ動かすことは許されぬ。伊賀者がこの享保の世で生きてゆくとは、そういうことであった。


 水仙は、青に塗りつぶされてゆく夜を置き去るようにして、歩を進めた。

 そのうちにぱっと昇った陽を背負って黒々とそびえる江戸城を見上げるほどの位置は、どこも旗本屋敷ばかりである。その一角にある大屋敷の塀内に、ひらりと身を滑らせた。

「なんだ。こんな早くに」

 その最奥の一室、うっすらと開いた障子の隙間から、枯れかけた声が漏れた。

「しくじりました」

 それに向かって、端的に報告をした。

「しくじった?」

 声の主は、あえて水仙の言うことを繰り返すことで、自らの感情を表現したものらしい。意地の悪い奴だ、と水仙は内心腹を立てた。

「入れ」

 一拍だけ間を置いて、声は水仙を招き入れた。するりと障子を開き、それを閉じて夜具から上体だけを起こした男の前に音もなく進み出、移動のため背に負っていた脇差をそれを隠す袋ごと外し、右側に置いて片膝をついた。

「なぜ、しくじったのだ」

「六文竜という男を、ご存知ですか」

「名は。なんでも、殺しに魂を取られた凄腕だとか」

「その男に、奪われました」

「なぜ、六文竜が」

 それには答えず、水仙は眼を鋭くし、男の鈍く白んだ髷を見つめた。

「松戸新九郎という侍装束の男は」

「知らん」

 男は、即答した。

「あなたが、雇った男では」

「いや、雇わぬ」

 水仙は、露骨に舌を打った。

「なんだ。その松戸なる者が、どうした」

「いいえ。ご存知ないなら、結構です」

 嘘つきめ、と唾を吐きかけたい思いであった。しかし、何がどうなって仕事を損じたのかという釈明をするような可愛気は伊賀者にはない。伊賀者は、このようなとき、損じたものをどう取り戻すのかということについての話をするものだ。

「その松戸新九郎を、殺してもよいでしょうか」

「勝手にせよ。もとより、儂には関わりない者だ」

 この男が新九郎を知っているにせよほんとうに知らぬにせよ、これで水仙は動きやすくなった。次は、迷うことなく殺せる。

「水仙」

 男が、朝の影になろうとする水仙を、呼び止めた。

「金のぶんだけ働く。お前たちは、そうだったな」

「その通りです」

「お前の父は、能があった」

 やめろ、と水仙は思った。

「それでも、儂の気を損なえば、江戸ここでは生きてゆけぬようになる」

 水仙の中で、なにかがはち切れそうになっている。それを、必死で堪えた。

「お前の父のようには、なりたくあるまい」

 男が、凄味と嫌らしさのある笑みを浮かべた。

「そうなったとき、お前を殺すのは、誰になるのだろうな」

 これ以上この場に止まれば、この男を斬ってしまうかもしれぬ。さすがにそれをすれば、ほんとうに水仙たちが生きてゆく道はなくなる。だから、それはできない。

「必ず、仕遂げます──」

 それをのみ、言った。

「──板倉さま」


 そのまま、水仙は何食わぬ顔で江戸の街を歩いた。夜の間はよく分からなかったが、その装束は武家のものになっていた。背に負った荷袋の中には、愛用の脇差。道行く人はその中に大根でも入っていると思うのだろう。

 小石がひとつ、草履に当たって転がった。

 ――あたしも、これとおんなじさ。

 少し悲しげな心持ちになって、水仙は声に出さず呟いた。寝蝮のことを、思い出している。

 自分のことをよく知る、数少ない者。あの漁師町で暮らしている伊賀者は百人ほどもいたが、その多くは流れ歩くうちにそこに伊賀者が集まっているという噂を聞いてやって来たものである。

 父の頃までは、二十七人であったという。ずいぶん増えたものである。父が、人を集めたのだ。寄り集まる人が誰でも暮らしてゆけるよう、汚い仕事でも率先して引き受けてきた。それを、自分の代で、それもごく僅かな期間の間で、多く失った。

 ――おとう

 また、声のない呟き。朝の早い時間に通りを行く人は用事でもあるのか、皆水仙がそこにいて歩いているということに気付かぬようにして行き違い、あるいは追い越してゆく。

 ――どうして、死んじゃったのさ。

 その理由を、水仙はよく知っている。あの老いかけた板倉に言われるまでもない。

 板倉とは、とことん嫌な男であった。傍流ながら名門板倉家の枝に生まれ、その家督を継いでからは、その役職に不釣り合いなほどに豪華な暮らしを始めた。倹約令など糞くらえ、とでも言わんばかりのその生活ぶりを人は蔑み、そして羨んだ。

 食い物は好きなものにだけ箸を付け、残りは捨てさせていた。

 また、女。水仙の父の代の頃にはどこぞの遊びを見初めて金でもって連れ帰り、囲った。しかしそれを可愛がることはなく、いや、むしろ彼なりに大層可愛がっていたのかもしれぬが、ひどい仕打ちを与え続けた挙句、病で死なせている。

 ――どの口が、あの小娘を連れて来い、なんて言えるのさ。

 伊賀者とて、人間である。情もある。それを断ち切る修練を積んできているだけのことである。水仙は歳が若い分、たとえばその父や寝蝮ほどには自己を統御できていないらしい。

 その思考を、破るものがあった。それは咄嗟に背の荷袋に手をやろうとした水仙の動作を、声でもって制した。

「おっと。こんな朝っぱらから、武家装束でやり合うか。お前の好きな板倉さまの名に、傷が付くぜ」

 竜であった。水仙一人しかここにおらぬことを見抜いているのか、無遠慮に近付いてくる。

「竜の旦那」

 水仙は、今日ほど竜に会いたくない日はないと感じた。見ているだけで、苛々する。そういうときは、仕事にならぬものだ。

「よりにもよって、今日この日に」

 隠そうともしない。そのままを口に出した。

「あんたたちは、揃いも揃って――」

 竜が、思わず刀の柄に手をかけた。それくらい、なにかとてつもなく暗く、禍々しいものが水仙からは溢れ出している。

 多くの仲間が死んだ。ずっと自分を育て、見守ってくれていた寝蝮も。

 いったい、なんのために。あの権力を持つだけの、嫌らしい顔をした老いかけた男の欲のためか。

 いや、違う。

 誇りのためなのだ。はっきりと、水仙はそう思った。人を犠牲にし、それを喰らってでも、守らねばならぬものがある。

 それも、違う。

 生きてゆくためなのだ。こうすることでしか、今の世では生きてゆけぬのだ。かつて戦国の頃ならばいざ知らず、今この世において水仙のような者の力を欲するような連中は、どれも暗い世で力を蓄え、明るい世においてそれを笠に着て自らの欲を満たそうとする者ばかりなのだ。そういう連中を助けることでしか、生きてゆけぬのだ。

 戻ろうにも、戻るべき先祖の故地である伊賀は、どこの誰とも知らぬ者が斜面を切り開いて畑を作っている。そこに、水仙らが帰る場所などないのだ。

 伊賀においても、江戸においても、彼女らはだった。そうでないのは、人が知らず、あるいは知っていても眼を背け続けるような暗く、湿った場所のみ。

 そんなことのために、寝蝮は死んだ。父も死んだ。他にどうすればよかったのか、生まれるずっと前から世がそうであったことしか知らぬ水仙に、分かるはずもない。

 それを、目の前にいる竜に、言葉にしてぶつける術も知らぬ。だから、苛立ちと怒りと悲しみで弾け飛びそうになっている眼でもって睨み付けるしかないのだ。


「返してほしいか、唯を」

 水仙の心のうちなど知る由もない竜は、低く言った。

「そりゃあ、ね。こっちは、あの子を連れてゆくのが仕事なんだ。あんたには、何の関わりもない子だろう」

「ない」

 竜は、苦笑した。

「だったら、さっさと返しな」

「だけどな。行き合っちまった」

「だから、何だっていうのさ」

 これだけの会話ですら、忌々しい。水仙は、はっきりとこの男が嫌いだと思った。

「だから、返すのは、お断りだ」

「それだけの理由わけで?」

 ただ、知り合った。それだけの理由で、竜はこの江戸に巣食う百からなる伊賀者全てを相手取り、戦おうというのだろうか。水仙には、信じがたいことである。

「俺にだって、分かる。あの子の、あの眼。助けを求めることを諦めちまったような、あの眼だよ。あんな眼をされちゃ、大人がどうにかしてやらねえと、と思うんだ」

 自らの思うところに従う。それが、竜の人生の主題である。その意味でも、彼が唯を助けたがるということは彼にとって自然なことである。

「だがな、返してやらなくもない」

「ほう」

 水仙は、目を細めた。条件を聞こう、というわけである。

「俺は、夜半三蔵とやり合いたい。もし、お前たちが三蔵の居所を掴み、俺に知らせてくれたなら、唯を返してやってもいい」

「断る。三蔵の旦那を連れ戻すのも、仕事のうちなんでね」

「目ッかちの利八か」

 この江戸から西にある小藩のうちでは勢力を誇るやくざ者である。もともと、それに命じられて三蔵を追い始めたことを、竜は今さら思い出した。

「そうかい。じゃあ、その仕事を、問題はねえな」

「どういう意味だい」

「どうもこうもねえ。言葉の通りさ」

 それきり、竜はひとつ笑い、朝の街へと消えた。

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