第四夜 水辺の花
知る人
「ちょいと、あんた。静かにおしよ」
静かに、と言っても、べつに口答えをしたり叫び声を上げたりするわけではない。ただ、水仙の手を振りほどこうと、唯は満身の抵抗を示している。
「まったく。仕事とはいえ、とんだ厄介者だよ」
水仙が平手を繰り出すような仕草を見せると、唯がびくりと身体を縮めた。それを見て、もしかすると、かつて、ひどく
「水仙」
「はやく、板倉さまのところに」
「ああ、分かってる」
そう言うと、水仙は縄で唯の身体を戒め、藁を積んだ荷車に無理やり押し込んで括り付け、さらにその上から藁を被せた。
二人の男が、それを押し、曳く。水仙は、少し離れたところで、全くの無関係という顔で歩いている。側に、父親ふうの装いで、年嵩の男が従っている。
「お前の父の頃にも増して、たいへんな世になったものだ」
その男は、小さく嘆息した。
「
と、水仙はその男を呼んだ。
「親父は親父、あたしはあたしさ」
寝蝮は、どうやら、水仙の父の頃から行動を共にしているらしい。ということは、水仙の父はこの一帯でひそかに活動をする伊賀者の頭領であったのだろう。なんらかの理由で父は死に、若い水仙がその後を襲ったものらしい。
忍びにも、世襲というものはあるのだろうか。あるとするならば、特定の主君に仕える甲賀者ならいざ知らず、力こそ全てというような伊賀者には、そぐわぬ制度であるように思う。もしかすると、水仙がこの一団の頭領であるならば、なにか特別の事情があるのかもしれぬ。
「要らぬことを言った」
年長けた伊賀者らしく、寝蝮は口を閉ざした。
「ねえ、あんた」
水仙は若いからか、多弁である。先ごろから彼女を追いかけているが、竜や新九郎などとのやり取りを見ていても、いささか不用意が過ぎるようにも思える。
「あんたは、伊賀を知ってる?」
「いや、俺も、江戸生まれさ」
「そう」
「行ってみたいか」
「そりゃあ、まあ」
江戸で産まれた伊賀者も、寝蝮のような歳になっている。彼らにとって、伊賀という地名やそれにまつわる概念は、特別なものなのだろう。
「ただね」
と、水仙は言う。
「あたしは、あたし。さっきも言ったろ。伊賀だろうがどこだろうが、仕事があればゆく。なければ、誰がわざわざ」
寝蝮は、言葉を返さなかった。笑ったのだろう。
「見てな。もう、親父の頃のように惨めな思いはしない。あたしに付いて来ていれば、あんたらだって」
「期待している」
「板倉さまがあたし達の暮らしが立ちゆくようにしてくださると、約束してくれたんだ」
「そうだな」
頭領とはいっても、主従ではない。この時代の価値観から外れた間柄である分、武士などにはない種類の結び付きがあるのかもしれない。
「水仙」
寝蝮が、しばらくの間を置いて言葉を発した。もとより、寡黙な方なのだろう。それが、強いてものを言おうとしている。
「こだわるな。お前の父のことに」
「こだわってなんか──」
それきり、何も言わなくなった。
唯は、藁で閉ざされ、車輪が地を叩く音に満たされた世界の中で、考えていた。
自分が、どこに連れてゆかれるのか。いや、そもそも、自分が、どこから来たのか。気付けば三蔵と共にいたが、それはつい最近のことで、その前のことは、なにか固い蓋のようなもので閉ざされてしまっていて、容易にそれに手をかける気になれない。
無論、忘れたわけではないし、思い出せぬわけでもない。だが、どういうわけか、心の真ん中にある部分が、それを頑なに拒もうとするのだ。
なぜ、三蔵が自分を連れ歩くのか、分からない。それを拒む理由もない。新九郎も善人であるし、優しい。そしてあの竜という男も、どうやら三蔵の命を狙っているくせに、不思議と嫌な感じがしない。
だが、今唯を取り囲んでいる連中のことは、はっきりと嫌いであった。なぜ嫌いなのかは、分からない。自分の身体を
いや、おそらく違う。
今唯が揺られている夜が来る直前に、それを守ろうとして戦った者の姿が目に焼き付いているからだ。何人もの敵に囲まれながら、それでも自分の身を案じ、決して退かず、盾のようにして守ろうとした者の姿が。
無論、たった一人の男が何人もの相手に立ち向かって無事で済むはずはなく、唯の目には何人かを打ち倒したはよいがそれきりどうすることもできずに、ざっくりと胸を割られて倒れてしまった。
新九郎は、自分のために死んだ。唯は、そう思っていることであろう。そのやり場のない悲しみは、今唯を連れている一団へ、嫌悪となって向けられている。
そして、己自身へも。
なぜ、生まれてきたのか。なんのために、生きているのか。守ろうとして死ぬような、どんな価値があるのか。
いっそ、もっと早くにこの世から消えて無くなってしまえば。自分が仮に今ここから消え去って、二度と戻らぬようになったとしても、いや、はじめから自分という人間自体が存在すらしなかったとしても、夜は勝手に朝になるし、春になれば梅は咲くし風が吹けば風車は回る。
風車。
藁の中で、腰にあるはずのそれに手をやろうとした。しかし、両の手はきつく縛められていて、どうすることもできず、ただ己の値打ちの薄さを感じるのみであった。
荷車が止まり、荷台が前方へ向けて傾いた。どこかに到着したのかと思ったが、違うらしい。
すらり、と刃を抜くような音。
「見つけたぜ」
そして、声。
「唯を運ぼうとするなら、大勢の護衛をつけて目立たせるわけにはいかねえもんなあ。こうやって、こっそり夜影に紛れて、隠しながらひそかに運ぶと思っていたぜ」
その声を、唯は知っていた。
「なぜ、分かった」
別の男の声。荷車を曳いていた者かもしれない。後ろで押していた方の誰かが、前に回り込む気配もあった。
「この季節、この道で、藁なんざを積んだ荷車が、夜に行き来するものか」
「旦那。あんたこそ、のこのこと現れたね。言わなかったかい。あたし達の仲間を殺したあんたを、一生付け狙い、細かく切り刻んで魚の餌にしてやるってね」
どこかから、水仙の声。藁の中からでは、分からない。荷車のそばに、急ぎ駆け寄ってきて、声の主と対峙しているものらしい。
どのみち、闇。それならば、身を任せるしかないではないか。
「こッちも、道端で斬り死にする趣味は、ないもんでね」
しばし、静寂。脆弱なそれを破る、金属音の明滅。藁の中にいても分かるほどに鮮やかに、そしてねっとりと臭う生き血。未知のそれを散りばめた闇こそ、死地。
それは、すぐに途切れた。
「だいじょうぶか」
わさわさと藁がどけられて拓かれた闇の中に、月のようにひょっこりとあらわれたのは竜の顔。
「う。う」
「済まんな。間違いなくお前を助け出すため、ここで待ち伏せをしていた。苦しかったろう」
あたりには、二つの死骸。縛めを解かれながらそれを見回し、足りぬと唯は思った。
「女ともう一人は、逃げた」
唯に心配を与えぬよう、竜はゆっくりとした口調で言った。
ほんとうだろうか。何やら重要な目的があって自分を連れ回していたであろう水仙が、そうやすやすと自分を捨てて逃げるものか。
そう思った瞬間、半分だけになって地を見下ろしている月が伸ばす竜の影が、いきなり蠢いた。
声を上げてそれを知らせようとしたが、それよりも速く竜が逆手に柄を握って腰を捻り、刃をそこに残し置くようにして抜刀して突き立て、闇と影の隙間ににわかに生じたいのちを終わらせた。
「くそっ。何だッてんだ」
目を見開き、生きているのか死んでいるのか分からぬまま地に転がって月を見上げているその男を、唯は知っていた。
寝蝮である。その名は、この夜を滑っていた荷車の中で知った。
どうやら、寝蝮というのは古くからあの一党のうちにあり、水仙の父のこともよく知っているようだった。もしかすると、
誰にも親はあり、自らを知る人がいる。
水仙はどこに行ったのだろうか。この寝蝮の亡骸を見て、なにを思うのだろうか。
「なあ、唯」
血振るいをして納刀した竜が屈み込んで目線を合わせてきた。
「どういうわけか、俺は、お前を助けなきゃいけねえようだ」
その声は、穏やかである。
「だから、手伝ってくれ」
なんとなく、頷いた。心中、べつのことを考えていたからだろう。
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