夢提灯

 戦いは、止んだ。新九郎は、自らの身体が思うようにならず、ただ棒切れのように地に転がっているのを感じるしかない。

 まだ、呼吸はできている。すなわち、死んではいないということだ。しかし、どれだけ気を奮わせようとも、それが身体を動かすことはなかった。

 日は、暮れているらしい。転がったまま見上げる視界の隅の木の枝の隙間から覗く東の空低くに、明星が光っている。

 唯。また、連れ去られてしまった。三蔵をおびき出すことよりも、唯の身柄を板倉さまなる者のところへ届けることを優先するよう、段取りを変えたのか。

 わずか、一刀であった。

 どのようにして斬られたのか覚えていないが、水仙が振るった刀で、胸を斬られた。

 これは、死ぬ。そう思った。

 無念である。剣で身を立てることもできず、恩人の守る人も救うことができず、それを苛む敵を屠ることもできず、ただ今こうして地に転がっているのは、無念でしかなかった。

 何を為しても、遂げられぬ。もし新九郎が今の自らの姿を全くの他人の目で俯瞰することができれば、そういう哀れな男として捉えるだろう。

 せめて、一太刀報いたかった。しかし、水仙や他の伊賀者にそれをしたところで、唯を救い出さなくては、意味がない。

 また、祈願をかけてお堂と鳥居の間を繰り返し行き来する人のように、思考は巡る。すこし暗くなり、また明るくなりして、それが完全に閉じたとき、自分は死ぬのだろう、と思った。


 足音。いや、気のせいか。陽の落ちた道脇の廃寺に立ち寄る者など、いるはずがない。せいぜい、猫か野良犬がいいところだろう。

 しかし、その足音は、新九郎の耳に馴染んだものであった。二足でのっそりと近寄ってくるその独特の音律に、それが気のせいではないことを知った。

「──起きられるか」

 身体をゆっくりと起こされ、力の入らぬ腕を肩に回される。そのとき、ふわりと覚えのある臭いが漂った。

 年老いた男特有のそれを塗りつぶして余りある、血の臭い。

「──三蔵、どの」

 三蔵などよりもずっと年のいった老人のような声で、呟いた。

「戦ったのか。一人で」

 答えることはできず、口の端をかろうじて吊り上げた。自らの無力を、嗤ったのだ。

 詫びようとした。しかし、言葉にすることはできなかった。

「誰も、お前を責めはせぬ」

 新九郎が何を言おうとするのあらかじめ知っていたようなことを、三蔵は言った。言って、ゆっくりと歩を進めた。痛みは薄い。それよりも、痺れるような感覚が濃い。その曖昧な感覚の中で黒く塗りつぶされる天地には、明星と、半分だけの月がひとつ。それに見下ろされる影を踏み潰し、促されるままに足を進めているうちに、だんだん自分も三蔵と同じ夜を歩いているような気がしてきた。

「しかし、無理はするな。分にあわぬことをすれば、命を縮めるだけだ」

 新九郎は、ぼんやりとした意識と、それを押し流してしまいそうな激しい痺れの中で、三蔵の声や話し方が、いつもとほんの少し異なることを感じていた。

「抜かずに、戦ったのか」

 新九郎の腰の鞘にあたらしく刻まれた幾つもの傷を月がときおり浮かび上がらせるのを見て、三蔵は言った。

「どこまでも、甘い奴だ。しかし、己を知ってはいると見えるな」

 どういう感情で三蔵が笑うのか、新九郎には分からない。

「大丈夫さ。心配するな。助かるさ」

 そのあと、三蔵が何かを続けたように思えた。そうか、自分が死なぬように、しきりと話しかけてくれているのか、と思った。


 明らかに、これが夢であるということが分かった。斬られ、あちこちを痛めて傷を受け、血を失って、今自分は眠っているのだと思った。いや、もしかしたら、死んでしまったかもしれないとも思った。

 たとえば祭りのときにあがる提灯のように、あちこちに明滅するものを、手にとってみる。

 それは、般若のような形相をしている我が母であった。

「そのような体たらくで、松戸の名を負ってゆくことなどできるものですか」

 新九郎は次男であるから、普通ならばべつに松戸の名を負ってゆくことはない。ただ、兄がやや病気がちであったから、母にしてみれば、万一のことを考え、新九郎を跡取りの候補にしておくつもりでもあったのかもしれない。

 家格は高くない。いわゆる御家人である。父は普請方の役目を仰せつかっており、その同僚である荒又治郎衛門ともめごとを起こし、死んだ。それでも、母にとっては武家の妻であることが誇りであったらしく、兄には松戸家の総領として、新九郎にはそれに次ぐ者として、聡く、強くあれと教育を施した。

 今新九郎が見ている母が般若のような顔をしているのは、新九郎がまだ幼い頃、近所の子供と喧嘩になり、泣かされて帰ってきたのを見下ろすものだった。

「泣かされて帰ってくるなど。それでも、武士の子ですか」

 とも言われた。今になってみれば、もしかすると、母は武家の出ではないのかもしれぬと思う。新九郎が十五のときに病で死んだから、確かめようもないことであるが。

 兄も結局、父と前後して死んだ。身ひとつで世に放り出された新九郎は、父の仇を討ち、家中を脱けて、放浪するくらいしかなかったのだ。

 父のことは、尊敬していた。決して裕福な方ではなかったが勤めに誠実で倹約をし、一家が金のことに困らぬようにした。新九郎が幼い頃などでも腹が減ったと言えば日が暮れたらかならず夕餉が出たし、年に一度は草履や下帯も新しいものに取り替えてもらえた。

 あのとき、新九郎が泣かされて帰ってきたのは、喧嘩に負けたからではない。倹約倹約と世の中が言うのに従い、母がせっかく繕ってくれたばかりの着物に、泥を引っ掛けられたからだ。いつも不機嫌で、何かあればすぐに声を荒げる母であったが、繕い物はたいへんに上手く、ぱっと見では裂け目が分からぬくらいに綺麗に仕上がった。まるで新しい着物のようで、その度に新九郎は嬉しかったのだ。それを喜ぶと母もまた珍しく嬉しそうにするから、なおさらであった。

 その着物に泥を引っ掛けられ、取り囲まれて嗤われた。たぶん、旗本の子かなにかであったから、新九郎は手出しをすることができなかった。それをすると、家柄にこだわる母が、怒ると思ったのだ。

 その中には、同じ御家人格の子もいた。しかし、それにも新九郎は手出しをしなかった。どの子も同じようにつぎ当ての施された着物を身に着けていて、それぞれの母が背を丸めてそれを繕ったのかもしれぬと思うと、どうにもやり返すような気になれなかったのだ。

 誰にでも父があり母があり、たとえそれらが死んだり逃げたりしていなくなっていたとしても、どこかに自らを知る人はいる。そのことを思うと、自分が苛められて嗤われたからといって、力でもってやり返すようなことはしたくない。そのように考える子であった。

 ただ、母が喜んで繕ってくれた着物が汚されるのが悲しくて、それに対して怒ることもできず、ただ相手を思いやるだけの己が悔しくて、それがために新九郎は泣いた。

 母が新九郎の心中をどこまで理解していたのか知りようもないが、彼のそういう部分を軟弱であるとした。だから、剣術を勧められたとき、強くあらねばと思って応じ、打ち込んだ。もとより、御家人の次男坊など、それくらいしかすることはないのだ。

 芽は出ず、たいして強くもならず。組太刀をしても、いつも頭で何かを考えてしまい、その間に打たれてしまう。しかし、一人で行う形稽古などはわりあい飲み込むことができた。むしろ、静かな心地で剣を振るうのが好きにもなった。

 元服のときに与えられた刀は、兄のほうが良いもので、新九郎は粗末なものであった。仕方がないと言えば仕方がないが、兄は病気がちだから、いい刀を持っても仕様がないではないかと思い、そのようなことを思う自分を恥じもした。

 斬れ味など、どうでもよい。どのみち、それを抜いて人に斬りつけることなど、ないのだから。

 新九郎にとって意味があるのは、父が自分を一人前の侍に見えるようにその粗末な刀を購ってきてくれたことであり、大人が着る着物を母が仕立て直してくれたことであった。


 その刀で、父の仇である荒又治郎衛門を斬った。はじめて人を斬った。三蔵や竜などはいとも容易く人の命を奪うが、この世にそんな技と心境を持つ人間がいるということすら知らなかった。そういう者が、その技と心境を持たねば、目の前の敵に斬られて殺されてしまうのだというようなことも。

 それがゆえ、今、このような夢を見ているのだ。

 そう思うと、夢の中ながら、だんだん笑えてきた。

 弱さゆえに死ぬ。では、強さとは。

 刀で相手の肉を斬ることか。

 夜の闇に滲み、背後から音もなく刺すことか。

 人をかどわかし、自らのために利用することか。

 いや、違う。

 また、別の提灯に眼をやった。それは、くるくると回る風車になった。

 唯が風を待って、目線の高さの空を見ている。しかしいつまで経っても風が来ぬから、しびれを切らせて、自らの息でもって風車を回しはじめた。この質素倹約のご時勢に子供の嗜好品など、贅沢である。だが、この赤い小さな風車は唯によく似合うから、ばちは当たるまい、と思えた。

 これをこそ、守らねばならぬのだ。この無垢なるものを守るものが、強さなのだ。身体の強さ。技の強さ。きっと、強さの中にも、さまざまなものがあるのだろう。

 だが、新九郎は、自らに最も足りぬものを知った。

 今さら分かったところで、とまた自嘲した。

 自分が生きているのか死んでいるのかすら、分からぬのだ。

「そのような体たらくで」

 また、どこからか、母の声。

 それがふと遠くなり、聞こえぬようになると同時に、提灯も消え、あたりが闇になった。それで、自らが眠りに墜ちたことを知った。

「やれやれ。呑気なもんだ。寝息を立てていやがる」

 三蔵が苦笑するのだけが、闇の中のどこかから聞こえた。

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