ふたつの戦い
刀の柄に手をかけ、わずかに鯉口を切ったまま、新九郎は懐紙に滲ませた
まだ、抜かぬ。しかし伊賀者どもが打ちかからぬのは、新九郎が堂を背に立っており、前方からしか剣を付けられぬからだろう。
人数があっても、新九郎を斬ろうと思えば三段ある堂の段を登らねばならず、不利である。なおかつ、新九郎の握る柄頭は駆け上がってくる相手に向けて抜かれるであろう位置にまでしっかりと引き下げられており、下からの剣に応じられるよう、しっかりと膝を作っている。
今、新九郎は、全身を盾にしている。その後ろには、唯がいるのだ。
無論、今まで人を斬ったことなどない。ましてや、伊賀者など。伊賀者を一人でも斬れば、どこにいても、生涯つけ狙われることになると人は言う。
己の剣で、はたしてその修羅のような道を、生き抜けるか。そのことについてはなはだ疑問を感じる新九郎は、だから、自分を剣にするのではなく、盾にした。
この先、剣として敵を斬り、屍を積み上げることはできずとも、少なくとも今、自らの身を盾にして、唯の前に晒すことならできる。
その新九郎の落ち着きは、ごう、と唸りを上げて吹く春前の風すらも通さぬ構えとなり、伊賀者を圧している。
「妙な男だよ」
水仙が、情の薄そうな笑みを浮かべた。
「あんたからは、血の気がまるで感じられない。だのに、何だい。落ち着き払っちまって。つまらない男だね」
新九郎が板倉さまなる人物に飼われていると勝手に思い込んでいる水仙は、もともと新九郎の手の内がどのようなものか計れず、それがために容易に仕掛けられないらしい。もし、新九郎が人など斬ったこともないようなただの青侍であると知ったなら、声を上げる間もなく詰め寄り、一刺しにして殺すだろう。
「はじめてだよ。あんたみたいな奴」
という水仙の言葉にも、それがあらわれている。
「退け。私は、唯どのを守らねばならぬ」
渇ききった口から、警告を発した。
よりにもよって、自分の方に。三蔵は漁師町の中に入っていったきり、未だ戻らぬ。まさか、たまたま見つけてここで待機するよう言われたお堂の中に、唯がいるとは。そして、どこからか三蔵と新九郎が合流し、伊賀者のこと、水仙のこと、唯のことを共有し、漁師町を探るべく足を返してくるという情報を得た水仙の、網にかかってしまうとは。
そういう思いもある。
だが、それを思っても、仕様がない。実際、唯は自分のすぐ後ろにいて、敵は自分のすぐ目の前にいるのだ。
今さらのように、その数を数える。男が十、そして水仙。水仙は、ぱっと見、どこにでもいるような、それでいてちょっと男好きのする肢体を持つ、ただの娘である。そのような娘が男どもを従えて刀を握っているというのはなんとも哀しいことではあるが、その刀が自分に向けられているのだから、新九郎には感情的になるような暇はない。
立ち位置の不利を嫌った伊賀者どもの一人が、短い刃物を投げつけてきた。それを、身体の反射で躱そうとしたが避けきれず、突き刺さらぬまでも左腕に傷を負った。
刹那、わっと躍りかかるようにして、伊賀者が駆け、跳躍し、新九郎の立つ板敷に躍り上がってきた。
自らの命が、ひとつここにある。それは、誰が守るものでもない。だが、それが背にした、唯の命は。
天地のあらゆるものが、ゆっくりと動いた。
負った傷の痛みが
柄頭を蛇のように伸ばし、一人の鳩尾を突く。そのまま引き戻し、こんどは鞘ぐるみ伸ばして脇差を抜こうとした一人の小手を叩いて骨を砕き、ひらりと宙を返って背後に立った一人を、戻した鞘で突いて蹲らせた。
手強し、と見たのか、伊賀者は飛び下がり、距離を取って構え直した。
「不殺、かい。慈悲深いねえ」
水仙が薄く紅でも引いたように色付いた唇を歪めて言った。
「貴様らを手にかければ、後がややこしかろう」
何となく口にしただけのことが、なにやら手練れの言うことのようなものになった。
新九郎は、内心、驚いている。今しがた、あっという間に三人を倒したわけであるが、正直、自分にそのような真似ができるとは思ってもいなかった。
鋭く息を吐き、次の寄せに備える。飛び道具を使われれば、どうしようもない。今のような僥倖が、また起きるとは思えぬ。
闇雲に剣を振り回し、突っ込むか。あるいは、今のような偶然によって、水仙を倒せるかもしれぬ。
いや、それはない。
また、悪い癖である。いつも、頭で考えてしまう。それで、遅れを取る。剣術の道場でも、そうであった。めきめきと上達し、切紙から目録に、目録から皆伝にと進んでゆく朋輩を横目に、どうすればよいのか頭で考えてあれこれしているうちに、さらにその差は開くばかりであった。
この、死の瀬戸際においても。新九郎は、自嘲の思いに駆られている。
考えても、どうにもならぬ。
自ら背にした唯の、盾となるのだ。
そのために、今目の前の全ての敵を討つ。
それしかない。
「松戸新九郎
また、春を連れる風。鳴った。それを、吸い込んで。
「――参る!」
三蔵は、漁師町のはずれに差し掛かり、足を止めた。そのまま、
その後を、幾つもの気配と影が追う。
草が、枝が、そして風が鳴る。陽はやや傾きはじめており、林の中はもう薄暗い。
ぱっと立ち止まり、また少し背中を丸めたようないつもの姿勢を取った。
「何ぞ、用かね」
間の抜けた言葉に応じるように、周囲の影が息吹を持った。
「貴様、なぜあの漁師町を探る」
「そりゃあ、探るさ。人捜しをしてるんだからな」
答えない。
「板倉さまって奴に、伝えな」
影どもに、わずかに緊張が走った。その数、十はいるか。
「こそこそ人さらいとは、つまらねえ。臭い痩せ犬みたいな真似はよしな、とな」
影は、無言で距離を縮めてくる。
三蔵の口許が、緩む。
「――生きて、ここから戻れれば、だ」
飛んできた刃物を宙で掴み取り、前方から突進してくる一人の目玉に突き立て、
土を鳴らして踏み込み、刀を振り上げた一人の手を絡め、鮮やかに足を払い、脳天から墜落させる。手には、その者が握っていた脇差。
「見てみろ」
自らの身を磨り潰すような殺気を浴びながら、三蔵は林の木立の頭上にある白い月を見た。
「月が、出ているな。まだ、昼間なのに」
そう言いながら、今しがた自らが投げ倒した者の喉笛に刃の光を立てた。
脇から突きかかってくる者の勢いを逆に利用し、膝の上を蹴って腿を折り、次の瞬間にまた脇差を光らせて喉笛を裂く。
どういうわけか、血は出ぬ。ぱっくりと裂けた傷口からは、血飛沫の代わりにひゅうひゅうという頼りない息の漏れる音だけがしている。返り血を浴びれば、あとに障る。長年の暗い世界での戦いの経験が、その知恵とそれを実現するだけの技を三蔵に与えたのかもしれぬ。
伊賀者とは、なるほど、やり辛い。戦いながら、三蔵は思った。一人が打ちかかる間に、巧みに別の者が死角に回り込み、仕掛けてくる。それにも応じようとしても、また別の角度から刃がくる。そういう戦いの呼吸を取っている。
この中に、あのくちなわのような水仙はいない。それならば、三蔵の方にはこの影のような男どもに用はない。
二人。こんどは、同時。
三蔵は獲物を捕らえる梟のように身を低くして駆け抜け、刀身を目線に擬して振り返った。その視界に、今仕掛けてきた二人が倒れるのが映っている。その死角から仕掛けてくる一人に刃を向けるのが間に合わず、身を退ける。三蔵の身体のあったところを斬ったその者の斬り下ろして下がった頭を高足に揚げた踵で砕いた。
脚を下げながら脇差を引き、振り子のように身体を使って、また一人。胴深く突き刺したそれが抜けなくなるとあっさりとそこから手を離し、手ぶらに戻る。
「夜は、雲や雨がなきゃ、大抵、月は見えるもんだ。だが、どうして、昼間の月は、珍しいんだろうな」
また見上げながら、今自らに降りかかっている刃の嵐と、それを退けるために作る死の渦とは全く関わりのないことを言った。
「なんだか、得したような気分にならねえか。昼間の月を見ると」
どういう感情なのか、うっすら、笑っているようにも見える。それがとても恐ろしいもののように見えるのか、残った四人は、打ちかかるのを躊躇うような素振りを見せた。
「お前、夜半三蔵か」
一人が、口を開いた。
「さてねえ。そんな昔臭い名の奴、知らないね」
「我々の身内が、お前を追っている。かつて、鬼と呼ばれた凄腕。今頃になって、なぜか姿を現した鬼を。お前は、十年よりももっと前に、我らのような暗い世から退いたのではなかったか」
「実際、爺だからな」
三蔵は、苦笑した。そのまま、ゆっくりと歩いた。
一人が怯えた声を上げて刀を振り上げたが、その腕がおかしな方向に曲がり、次の瞬間には肘で額を砕かれていた。
三蔵、気にも留めず、なお歩く。
一人が振り下ろした刀の軌道を読み、身体を外にかわしながら肘を掌で払いのけると、大きく逸れた斬撃が三蔵の死角に回ろうとした一人を斬った。我が刀が味方の肉を食らうのを目の当たりにして大きく開かれた目を指でもって潰し、そのままぐいと押し込んで首を追った。
最後の一人。怯えている。それを振り払うようにして、斬り付けてきた。
「おう」
短い気合を三蔵が発し、自分めがけて襲ってくる刀身を掌で叩いた。
刀身は腹のところで真っ二つに割れ、飛んだ。
何が起きたのか理解できぬ様子のその者に一歩近付き、顎を掌底で殴った。
「おっと。まだ、気をやるのは早い。教えてもらおうじゃねえか。お前さんがたが、拐ってきた娘を、どこに隠したのか」
ふ、とその男は唇を笑ませた。答えるつもりはないらしい。
「そうかい。そいつは、難儀だねえ」
また、掌底で男の顎を殴る。これくらいのことで、伊賀者として厳しい教育を受けて修練を重ねてきたこの男が、口を割るはずもない。
「金のために、
「ほざけ」
男の眼が、強くなった。
「我らが誇りを、このような時代に繋ぐというのは、並ならぬこと。貴様のような者に、分かるものか」
「だからこそ、関心しないねえ」
男が、口と鼻から血を垂らしながら眉をひそめた。
「言っても、分からねえだろうよ」
三蔵は、どういう工夫があるのか男の肩に両手をやって一息にそれを外して自由を奪うと、叫びを噛み殺す男の前に屈みこみ、小枝を拾い上げた。
そして男の手を取ると、爪の間から小枝をずぶりと突き入れた。男がひとつ痙攣し、叫びを漏らす。
「お前さんがたの誇りなぞ、知らん。俺にとっては、どうでもよいことなのさ」
別の指に、もう一本。
「だから、吐いてもらうぜ」
さらに、もう一本。
「お前さんがたが何のために暗いことをしているのか、知りたくもない。俺には、俺のわけがあるもんでな」
男は身体を激しく引き攣らせ、世にも恐ろしい声を上げている。
「さて。十の指に枝を全て通したら、今度は、一本ずつ、枝ごと指を折ってやる。取り出すのに、さぞ苦労することだろうな。それが終われば、こんどは足の指だ」
そのときの三蔵の表情がどのようなものであったか、なかなかに文字であらわすのは難しいものである。
十の指から枝を生やした男が、口から流れ続ける血を林の土に吸わせている。それを背に、三蔵はもとの道へと足を向けた。
白かった月がいつの間にか力を得て、頭上にある。
陽が暮れたのだ。
その上弦の月に見下ろされるようにして道をゆく三蔵の足は、どこか重い。ときおり激しく上下するのは、咳き込んでいるのかもしれない。
やはり、老いかけた身体に、激しい戦いは堪えるものと見える。
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