鬼と居並ぶ

 江戸の人口は多い。関ヶ原の戦いは終わっていてもまだ豊臣家がこの世に存在していたような十七世紀初頭にはあるオランダ人による統計で十五万人であったとされているが、それがどんどん膨らみ、幕末期には百万とも百五十万とも二百万とも言われ、時代が降るほどに世界最大の都市へと成長していったというから、この享保の頃にも既に相当な数の人が暮らしていたのだろう。

 ゆえに、街路は武家町、下町を問わず人通りが多い。江戸の区域を離れて下総や多摩、相模などに入ればいくらかは少なくなるが、それでも他の地域とは比べものにならぬほどの人がいる。

 その中で、人の目を避けて生きてゆくというのもまた大変である。江戸の南外れの小さな漁村丸ごと襲い、そこで暮らす人に成り代わったからこそ、そこに伊賀者がいるということに気付かれずにいられたのだ。

 すなわち、江戸の中で水仙のことを知る者は、誰もいない。もとよりそうであるし、ほかの伊賀者たちも皆同じであるから、水仙はその意味において一人ではなかった。しかし、今、仲間の血を洗う川の流れをわずかに見つめ、それにすぐに背を向けて歩く水仙は、一人であった。


 もし、他の仲間も今斬った者どもと同じ考えであったなら。

 自分が父の後を襲うにはあまりに若く、あまりに非力であることなど承知しきっている。それでもやらねばならぬと思い、取り組んできたのだ。

 だが、一党に光をもたらすどころか、板倉の飼い犬のようにして餌付けをされ、その日の暮らしを過ごすしかなかったではないか。

 どこまでいっても、物。そのようにしか、扱われぬではないか。

 六文竜は、自らの意に従い、生きたいように生きているように見えた。夜半三蔵も、なにかの目的があり、そのためにまた暗い世界に舞い戻ったものと見えた。

 自分は。

 目的はあれど、それを叶える術は知らず、ただ人の欲のために流さでもの血を流すのみではなかったか。挙句、仲間の血がこの河原に流れ、それに目もくれず立ち去ろうとしている。

 これが物でなくて、何なのか。


 そういう、薄暗い自責と自戒と自嘲が自らの内側から泉のように湧いてくるそのこんこんとした音をただ聴き、立てぬようにと訓練されてきた我が足音でどうにかそれが塗り潰せぬものかと思いながら歩くしかないのだ。

 こうなったとき、人が縋ろうとするものといえば、まず意地である。なにが何でも、たとえ自分一人ででも唯を取り戻して板倉のもとに届け、仕事を遂げる。

 未だ、父の見ようとしたものが何であったのかは分からぬ。分かったところで、それを叶えるための術がいかなるものかということを見出すには、長い時間を要することであろう。

 やるのだ。たとえ、この世に己一人が残されたとしても。それをしなければ、水仙は己のことすらも見失ってしまうのだから。見失ってしまえば、この世に己は存在せぬということになるのだから。



 竜のことである。

 彼は、江戸を離れようとしていた。口では唯を渡し、三蔵との戦いの機会を得るための取引のようなことを言いはしたが、実際どうするのかは自分でも分からないでいるらしい。

 ただ、彼は、江戸をひとたび離れようとしていた。その足は隅田川を渡り荒川を越え中川も江戸川も越え、ひたすら東へ。数日をそうしてただ己の足を回転させながら、ぶらぶらとあたりの景色やすれ違う旅装束の女を眺めて過ごし、あるところから足を北に向けた。愛宕信仰のためか、右手にぽつんと見える山を目指す人がちらほら見える。それを見て、もう春なのだ、と思った。

 鎌倉の昔だったかいつの頃だったかに勧進された愛宕神社を戴くその山を回り込むように緩やかに、大きく湾曲してゆく街道をなお進み、やや傾きだした陽に目を細め、ある橋の手前で足を止めた。

「勧進橋」

 と、土地の人が呼ぶ小さな橋である。木板を踏めば、ぶかぶかと嫌な足触りのある、粗末なものである。

 ここで、三蔵は侍六人を相手に乱闘をし、その全てを骸に変えたのだ。人から聞き集めた話でしか竜はそのことを知らぬが、おそらく新九郎の仇討ちの相手が連れてきた助っ人を、三蔵一人で倒したのであろう。

 その話を思い出すだけで、背中に粟が立つ。それを、竜は快いと思った。

 人のものではない技。鍛え上げられた武などというような生易しいものではない。いかに鍛えた武を持った者であろうとも、それを凌げぬような技。たとえば竜もたまに街の講談師などが饒舌に話すのを面白がって聴く宮本武蔵であっても、己の影が意思を持って自らを刺そうとしてきた場合、どうであろう。宮本武蔵などとうの昔に死んで亡いわけであるからそのようなことを考えるだけ無駄というものであるが、考えるだけで心が躍るようである。

 ──やり合いたい。おれのが、そこにあるかもしれん。

 そう思う眼の光には、不思議と濁りはない。こういう姿だけを見ると、なにか子供のようでもあり、敵役として描きながらどうにも憎みきってやる気になれず、筆者としては複雑である。

 彼が結局のところ何を求めて生きているのかはよく分からぬところが多いから、結局のところは今すこしの間その足の向く方を追うしか仕方があるまい。


 続ける。

 勧進橋を越え、さらにうらぶれた街道をゆき、三蔵と唯の情報を得た茶店を通り過ぎ、さらにゆく。足慣れたものである。日が暮れてもなおその歩幅は緩まず、 半分よりも更に欠けた月が昇る頃になり、商家らしい軒並みが続くあたりに差し掛かった。この地域一帯を治める殿様の直轄領でありその代官が置かれており、城下と江戸とを繋ぐ街道にあたるため、昔から商いをする者が多い地域である。

 そういう代官支配の地域では、お上の目がかえって行き届かず、やくざ者が横行したり商人どもが結託して小さな悪さをしたりすることがあり、ここもそうであった。

 夜なのに、風が緩い。少し前までは、もっと冷たく吹き付けたものだ。

「もう、綿入れは要らねえな」

 いきなり、その風の吹いてくる闇に向かって、声を放った。その声が開けっ広げに大きく、明るかったものだから、闇も思わず動いた。

「誰かと思えば。お前さんか」

 ぬるりと闇が形と年を取った男の体臭を持ち、僅かな後に三蔵の姿になった。

「連れ合いは、どうした」

 新九郎のことである。三蔵は、一人である。

「傷を受けてな。馴染みの店に預けてきた」

「やり合ったのか、あいつらと」

「まあ、そうだ」

 こんどは、三蔵が問う番である。

「唯のこと、何か分からぬか」

 唯が竜の手に戻っているとは思っていないらしい。その居所についてわざわざ明かしてやる義理はないと思い、知らぬと答えた。

「そうかい。で、こんなところで、何を?」

「おそらく、あんたと同じことを考えている。旦那」

 三蔵は、からりと一つ笑い、

「手を組むというわけかい」

 と言った。なぜかそれに凄味があり、竜はまた背に粟を立てた。

「べつに、組まなくてもいい。俺には俺の思うところがあるもんでね。だが、どうやら、そういうことになりそうだ」

「悪くない」

 二人、足を同じ方に向けた。


 その先にあるくたびれた商家風の家屋の前で足を止め、三蔵がふと見上げた。

「月が、出ているな」

「月なんざ、ずっとさっきから出ているさ」

「それもそうだ」

 看板が上がっている。頼りなくとも、月はそこに墨書された字を浮かび上がらせていた。

山利やまり

 とそこにはあった。潰れたたなを、金でもって買い上げたものらしい。

 屋号こそふつうの商家と大差ないものであるが、生業なりわいはそうではない。この地域の者なら誰でも知っている。この山利に睨まれれば商いもできぬようになるし家も失うし、そもそもこの地域にいることもできぬようになる。

 その親玉の名は、利八。目ッかちの利八という名を聴くだけで、武家も子供も犬猫も震え上がると言われている。

 そこに馴染みのある二人が、夜を踏んで戻り、並んでいる。

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