道連れ
雨上がりの、風。夏のそれほどに匂いは強くない。ただ、冷たい。唯が手を擦る音が、夜に濡れている。その吐いた白い息が流れ、消えた先に浮かぶ勧進橋西詰の道の上に、人影が二つ。
「
声は、新九郎のもの。
「図らずも貴殿に足を取られ、死んだ父の仇を、ここで取らせて頂く」
もう一つの影は、闇に沈んでいる。それが、声を立てた。
「ここでは、人目がある」
二つの影は、そのまま街道を逸れた林へと向かった。
「なあ、唯」
三蔵は、唯に声をかけた。
「少し寒いが、我慢出来るな」
唯は、黙って頷いた。
「なあに、もう少しの辛抱さ」
そう言って、林に入ってすぐのところで、唯の手を離した。
三蔵の背が、林の奥へ。
「——卑怯な」
「ただの助っ人だ。卑怯もくそも、あるか」
新九郎は、林の中に漏れてくる月明かりの下、
「果たし状を寄越したのだ。正々堂々と——」
げらげらと、笑い声が上がった。
「最早、これまで」
新九郎は決死の覚悟で抜刀し、仇と定めた荒又なる男に向かうべく、浪人者らに斬りかかろうとした。
「何を——」
闇から手が伸びて、それを制止した。
「あなたは」
三蔵である。強く引いた新九郎の腕を離してやり、肩をぽんぽんと叩いた。
「親の仇討ちに、大人数の助っ人。感心しないねぇ」
「なんだ、貴様は」
浪人者らが、秋に落ちたままの枯れ葉を踏んで歩く三蔵に対して身構える。
「こいつの、助っ人さ」
仇討ちの助っ人は、認められている。むしろ、進んでそれを行うのは名誉ある行動なのだ。
「爺か」
荒又が、闇の中で眼を細め、三蔵を見定めた。
「爺が一人で、助っ人とはな。泣かせてくれるわ」
笑った。
「お前ら、やっちまえ!」
その声を皮切りに、浪人者の一人が斬りかかる。
三蔵が、緩慢な斬撃に向かって、体を滑らせる。振り下ろす左肘をとんと掌で支えて止め、右逆手で浪人者の脇差を抜いた。
肘を支えた掌を跳ね上げ、浪人者を通り過ぎるようにして体を離す。
血が、月の光に濡れた。
そのまま、別の男へ。
六人。助っ人にしては、多い。荒又という男は、ここで新九郎をなます切りにし、勧進橋のかかる川にでも捨てるつもりであったのだろう。
二人目が、倒れた。自らに倒れかかってくるその背を送るようにしてどかし、振り向きざま、三人目の腹に脇差を突き立てた。
一瞬、静寂。
息と、血の熱が白くなり、流れてゆく。
「何をしてる。やっちまえ」
三人が、同時にかかってきた。
突き刺した脇差はそのままにし、今まさに死骸となろうとしているその男の腰からまた脇差を抜く。
四人目。くるりと旋回した三蔵が逆手に握った新たな脇差で、
まるで蝶が花から花へと移るようにして、殺した男から脇差を抜き、次の男に刺してゆく。今は冬であるから蝶は飛ばぬし、花も咲かない。ただ、鬼と呼ばれた初老の男と、それが作る血の花はあった。
「お前、何者だ」
六人目の脇差を手にぶら提げ、白っぽい闇に佇む三蔵に向けて、荒又が上ずった声を上げた。
「ただの、助っ人さ」
斬撃。体を半歩下げて開き、それをかわす。袈裟懸けに落ちたその軌跡を追うように、三蔵の脚。踏み込み、自らの体重の乗った荒又の右膝を折った。
「さて、新九郎」
三蔵は脇差を放り出し、痛みで叫ぶ荒又から興味を失ったようにして、背を向けた。息が、上がっている。やはり、歳には敵わぬらしい。
「意趣でも何でも、返してやるがいいさ」
三蔵と入れ替わるようにして、新九郎が進み出る。喉を、ひとつ鳴らした。乾いた唾を飲み込んだらしい。
「待て、待て——」
尻餅をついたような格好の荒又が、悲痛な声を上げる。
「荒又治郎衛門。その首、もらい受ける」
御免、と気合を発して、新九郎が振りかぶった。
それで、闇は静かになった。
「ほんとうに、助かりました」
今度は、ちゃんとした宿である。そこで、新九郎は三蔵と唯に向かって両手をついていた。
「なに。こうして、夜を明かすことが出来れば、それでいい。こいつに、寒い思いをさせずに済んだ」
「三蔵どのには、何とお礼を申し上げればよいのか」
「だから、気にするな。俺はべつに、義によって助太刀したわけじゃあない」
路銀を恵んでもらえれば、それでいい。あの林の中で、三蔵は新九郎にそう言った。新九郎は、まず街道を戻ったところにある宿に二人を連れてゆき、この部屋で自らの荷にあった路銀の包みを全て三蔵に差し出した。
それきり新九郎は立ち去ると思ったのだが、仇討ちを遂げた興奮からかなかなか去らず、酒を呼び、三蔵に酌をしてやっている。
「あなたのお陰で、父も安らかに眠れることでしょう」
曖昧に返していた三蔵であるが、新九郎がそう言うのに対して、ぴたりと手を止めた。
「勘違いするな」
新九郎が、若い力のある眼を開いた。
「恨みは、消えん。お前が討った荒又という男を知る者は、どうなる。お前を、恨みはせんか」
「そのようなことは、武士においてはありません」
確かに、そうだ。それは逆恨みと言い、武士の倫理観からは逸脱したことである。だが、と三蔵は続ける。
「その理屈が分かるなら、お前の親父を
新九郎は、黙った。
「お前さん、もしかして、自分が正しいことをしたと、どこかで思っちゃいないかい」
三蔵は、手酌をして満たされた酒を、じっと見つめている。
「殺しとは、誰かが考え、することだ。落ちてきた瓦で頭を打ったり、馬に蹴られて死ぬのとは違う。殺す者は、殺された者を知る者の恨みを全て背負い、生きて行かなければならなくなる」
唯が、眠そうな眼をしながら、三蔵を見上げている。
「お前の親父が正しきを行おうとし、挙句に死んだのは、人であったからだ。お前がそれを恨みに思い、仇を討とうとしたのも、人であるからだ。そして、あの荒又という男が、自らの利のためにお前の親父を嵌めたのも、人であったからだ」
その意味では、三者の間に隔たりなどないのだと三蔵は言う。
「だから、思い違うな。恨みは、消えて無くなりはしない。別の形になり、別の誰かの背に、覆い被さるだけだ」
新九郎は、三蔵の言うことに、納得がいかぬらしい。日焼けのせぬ綺麗な額に、皺を寄せている。
「では、あなたが私を助け、殺した者たちの恨みは?」
それを、三蔵は背負うのかという意味である。
「俺なんざ、もう」
三蔵は、それをのみ言い、あとは口を閉ざした。
しばらく続いた沈黙を破るように、新九郎が声を発した。唯が、それで座りながら閉じかけていた目をまた開いた。
「あなたは、どこへ?」
新九郎は、三蔵が唯を連れ、どこへ向かおうとしていたのか、知らない。筆者もそれは知らないから、三蔵がそのことについて語るのを待つわけであるが、どうやら三蔵自身にもよく分からぬらしく、口を閉ざしたままである。
唯がどうしても眠そうにしているので、三蔵は杯を伏せた。新九郎も要領を得ぬまま、別の部屋へ戻った。
翌朝。出立しようとする三蔵を、新九郎が呼び止めた。
「三蔵どの。私も、お供致します」
三蔵は、困ったような顔をした。
「やめておけ。せっかく、仇討ちを果たしたんだ。家に戻った方がいい」
「いいえ」
新九郎は、意思の強そうな眉をきりりと上げている。
「もとより、家は父が死んだときに禄を召し上げられています。私も、このまま家中を脱けるつもりです」
まことにどうでもいい余談であるが、今で言う自治体に似た行政区分を指すときに我々は藩と呼ぶことが多いが、実はその呼称はこの時点では一般的ではない。文書などには藩という文字はしばしば現れるが、江戸時代に敷かれていた制度によって一万石以上の禄を持つ者が治める地域のことを正式にそう呼ぶと決まったのは明治になってからであり、したがってこれは歴史の言葉であって当時の政治の言葉ではない。昔の時代劇などでは——いや、最近の時代劇映画でもそう言っているのを見たが——よく、
「この藩は、腐っている」
などという台詞があるが、当時の人にそう言わせるのは違和感がある。だから、新九郎は、
「家中を脱ける」
と言ったのである。いわゆる脱藩のことである。
話を戻す。
新九郎は、家禄を召し上げられ、自らも脱藩をする覚悟で、この度の仇討ちに臨んだらしい。つまり、行くあてがないのだ。
「それでも、どこか身内の家くらいは」
「いいえ」
夜の闇の中の戦いにおいては頼りなげであった新九郎であるが、朝の陽の中では、しっかりとした若者であった。
「それを頼れば、頼った者に、私が負った恨みがかかる。私は、見つけたいのです」
「何を」
「人を恨まず、人に恨まれず、生きて行く道を。荒又に負わせ、私が肩代わりをした恨みの、埋め所を」
「そんなもの」
無い、と言い切ってやるのがなんだか可哀想に思えて、三蔵は
「あなたには、感じるところがある」
こうなれば、駄目である。やめろと言っても、新九郎はついて来るだろう。
「あなたの背を追うことで、私にも何かが見えるかもしれない」
三蔵の、あの戦いぶり。そして、奇妙ではあるが説得力のある殺しについての口ぶり。新九郎でなくとも、三蔵がただの初老の男でないことは分かる。もしかしたら、名のある武芸者か何かではなかろうかと思ったかもしれない。
恨みを背負い、生きる。
三蔵は、その背に、どれほどの恨みを背負っているのだろう。
大きな伸びを一つすると、唯の手を引き、のっそりと歩き出した。
それに、新九郎の若い足音が続く。
人を殺めた先にある修羅の道以外に、新九郎の言うような道があるのかどうか。今はまだ、彼らの行く先を、誰も知らない。
旅は道連れ、とよく言うが、とんでもない道連れもあったものである。
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