仇討ち新九郎

「食うか」

 当時の市街地の路地裏などによくあった、木賃宿きちんやどという食事の出ない安宿に、三蔵と唯はいた。汚らしい床に、汚れた布団を敷くだけの狭い部屋である。雨戸の隙間から漏れてくる冬の陽射しに、埃が舞っている。


 三蔵が差し出すのは、蒸した甘蔗かんしょである。こんにちではサツマイモとして知られるこの一般的な食材は、飢饉への対策としてこの頃輸入され、栽培が広まった。


 唯は、それを黙って受け取り、口に運んだ。熱かったらしく、眼に涙を溜めながら、息を激しく吸ったり吐いたりしている。

「はは、ゆっくり食え」

 唯は、無口である。もう十日ほどこの木賃宿で何をするでもなく過ごしているが、その間、唯は「ん」とか、「う」などと声を発することはあっても、ほとんど口を開かない。今のように三蔵が何かを言っても、首を振るか傾げるか、頷くかしかしない。


 三蔵は衝動的に唯を連れ、あの賭場を飛び出したわけであるが、正直、飛び出した後どうするかというようなことについては全く無計画であった。行く当てもないし、博打の形代にされた唯をどうするのかという算段もない。ただ、弾かれるようにして、そうした。


 だから、食い扶持に困った。今のところ、賭場の用心棒として——と言っても三蔵の腕が活かされることはなかったが——としてもらった給金がある。しかし、いかに木賃宿が僅かな銭で泊まることができるとは言え、そう長くは金がもたない。

「金を、どうするかなあ」

 つい漏らした独り言を、唯の真っ黒な瞳が追う。

「なあ、唯」

 三蔵はそれに笑いかけてやり、板敷きの床にごろりと横になった。



 数日経った。

 三蔵は、まだ金についてどうすることも出来ないまま、この木賃宿に滞在している。そこへ、

「お客さん」

 と部屋の外から声がかかった。板戸を開くと、宿の者の顔があった。

「預かった金、今日の分で最後ですぜ」

 木賃宿の者は、言葉遣いがぞんざいである。その続きは言わぬが、金を足すか、さもなくば明日には出て行けという眼をしていた。

「おう」

 三蔵は間の抜けた返事をし、

「明日、出て行くさ」

 と言い、手をひらひらさせて宿の者を追い払った。唯が、じっと三蔵を見ている。この奇妙な日々について、どう思っているのかは分からない。



 木賃宿には、様々な客がいる。旅の途中と思しき粗末な浪人、駆け落ちしてきたらしい商家風の若い男女などである。飯は出ず寝床を提供するだけだから、食い物を求めに外に出る際、そういう者たちとしばしば顔を合わせる。

 そのようなとき、互いに黙ってやり過ごし、干渉せぬのがこういう場の暗黙の了解なのであるが、三蔵が一言だけ言葉を交わした者がある。


 その男の方から、声をかけてきた。その男が木賃宿の狭い廊下ですれ違うとき、会釈をしてきたものだから、三蔵もつられて返した。武士である。身なりは悪くない。江戸のちょっとした御家人の次男坊という具合の、こざっぱりとしたもので、こういう場には相応しくない風体であった。

 会釈だけして三蔵が通り過ぎようとしたとき、後ろから、

「もし」

 と男が声をかけた。

「お孫さんを連れての、旅ですか」

 若い武士は、三蔵を宮参りか何かだと思ったらしい。時期により緩急はあるにせよ、江戸時代を通じて、国をまたいでの移動というのはわりあい厳しい。藩か幕府などの公的機関の発行する免状が無ければ、関を通れぬことが多い。しかし、伊勢神宮に参詣するという名目であれば、簡単に許可が降りるのだ。そういう事情で、まだあどけない顔をした唯をつれた三蔵を、伊勢参りの道中であると見たのであろう。


 宿を払い、路地に出たとき、その若い武士も、そこにいた。背に結わえている荷の大きさは、江戸あたりから出てきたか、江戸へ向かう程度ものと見えた。

「おや、あなたは」

 若い武士は、気さくに声をかけてきた。三蔵は、黙って会釈をした。

「これから、出立ですか」

「ええ、まあ」

 仕方なく、応対してやる。

「私は、松戸新九郎」

「三蔵と申します」

 新九郎が白い歯を見せて笑い、名乗るものだから、三蔵も名乗らざるを得ない。とくに危険な感じはしない。

 唯は、三蔵の後ろに隠れてしまっている。ぱっと見、十二、三かそれ以上くらいにも見えるが、そういう幼い仕草もする。

「伊勢までは、遠い。二人連れでの旅は、何かと大変でしょう」

 新九郎は歩き始めながら気さくに話す。

「あんたは?」

 三蔵は、話を新九郎に向けてやった。

「——私ですか」

 新九郎は少し言い澱み、やがて目に強い光を宿しながら、

「仇討ちを」

 と言った。この当時、仇討ちというのはたいへん意味のあることで、武士の間ではそれを賞賛する向きがあり、その助太刀をすることが名誉あることだという価値観があった。新九郎のような若者が決意を秘め、誰かの仇討ちをしにゆくというのは当時のそういう価値観からすればなかなかの美談である。

 だが、三蔵は武士ではない。だから、

「やめておかれるがよい」

 と忠告してやった。

「何故です」

「あんたは——」

 ややぞんざいな口調になり、

「——若い。そういう奴が悲愴な顔をし、たすきを巻いて敵の前に立っても、死ぬだけだ」

「死んでも構わない。我が父は、この家中の馬廻役でした。潔白で、不正を許さぬ人でした。それが、商人と結び、己が利を増やそうとする上役に煙たがられた」


 よくあることである。三蔵らのいるこの江戸からそう遠くない小藩でも当たり前のように不正や賄賂が横行していて、この質素倹約令の厳しい世の中で、どうにか美味い汁を啜ろうとする。そういう者の前で、正しきを行おうとする者は無力である。いや、正確には、正しきを行おうとする者は往々にして、そうでない者のように裏から物事に手を回し、己の為すことにおける障害を取り除くような日陰の力を持つことを好まぬ。それがゆえ、新九郎の父のように、足元を掬われ、立場を失う。この場合、新九郎は仇打ちと言ったから、その父は死んだのだろう。もしかしたら、上役という者の不正を見逃すことが出来ず、声を上げてしまったのかもしれない。


 三蔵が鬼として月の夜に現れていたときは、そういう殺しもよくした。三蔵は、自らの標的が何者であるのかを努めて知らぬようにしてきた。一寸でも相手に同情してしまえば、殺しなど出来たものではないのだ。

 三蔵はもう十年もそういう殺しをしていないからこれは比喩であるが、新九郎の父を殺したのは、三蔵であったかもしれない。


「そうですか。それは、殊勝な心がけです」

 三蔵は、新九郎にやや丁寧な物言いをし、その場を立ち去ろうとした。

「あなたも、お気をつけて。私は今夜、勧進橋の西で、相手を待ちます」


 唯が、土を噛むようにして歩く三蔵を、じっと見上げている。

「眠るところが、ないな」

 三蔵が、懐を確かめながら、ぼんやりと呟いた。賭場の騒ぎのことがあるから、出来るだけ早くこの藩を出たいところではあるが、路銀はほとんど無くなっている。ならば何故早く遠くに逃げなかったのかというのは疑問であるが、三蔵にも思うところはあるらしい。


「ちょっと、休もう」

 街道を、西へ。このまま行けば、藩から出ることが出来る。隣の藩との境にある川にかかるのが、勧進橋。通り過ぎて暫くゆくと、茶店があった。そこに、腰掛ける。

 僅かな銭の中からいくらかを払い、唯に団子を買ってやった。

 唯が、金は大丈夫なのかという顔をしながら、団子と三蔵を交互に見た。にっこり笑って頷く三蔵を確認してから、ようやくそれに口をつけた。


 雨が降りはじめた。三蔵は、動かない。

 残った銭全てを使い、唯にみのを買ってやった。

 冬の日が、厚い雲越しに傾いてゆく。葉のない木々は知らぬ間に黒くなり、やがてその影を闇に滲ませた。

「日が、暮れたな」

 茶店は、もう仕舞いらしい。迷惑そうな顔をしながら、店の娘が三蔵らに声をかけてきた。

「気にするな。もう、発つ」


 今から発てば、夜の山越えになる。次の宿場までそう遠くはないが、間にちょっとした山を挟む。そのことを茶店の娘が言うと、

「なに、大事ないさ」

 とだけ言い、三蔵は席を立った。

 唯が西を向こうとすると、三蔵はその足をもと来た方に向けた。

 それで、唯には三蔵がどこに向かうのかが分かった。


 雨が、止んだ。

 雲にぽっかりと穴が空き、そこから夜がこぼれている。

「——月が、出ているな」

 濡れた土が、白っぽい光を跳ね返している。寒い。明日は、霜が出るかもしれぬ。それを踏む、三蔵ののっそりとした足音。唯のぱたぱたとしたものも続く。

 やがて、それらが止まった。

 勧進橋。

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