六文

 時は享保。八代将軍吉宗の、享保の改革で有名な時代である。八代将軍吉宗とは変わった男で、それまで続いていた幕府の財政難を立て直そうと躍起になり、倹約令を敷いて自らも粗末なものを着て質素な食事しか摂らぬというような男であった。

 名将軍として後世に名を残す彼であるが、農民からすればたまったものではなかった。財政を立て直すためとして年貢は五公五民に上がり、採れ高に関わらず決まった年貢を納めることを義務づけた。


 この享保の改革というのを、それまでの幕府政治には無かった手法でもって行われた積極的財政改革であるという者と、その場しのぎの強硬策で、結局経済的な見返りはなかったと評価する者との間での論争は尽きない——当時でもそうであった。たとえば尾張徳川家は将軍の施策に従わず、金を使わせることで流通させなければ経済は立ち行かぬとして、遊郭を開いたり、芝居興行を奨励したという話もある——が、ともかく、それまであったものが無くなったり、無かったものが生じたりすれば、必ずと言っていいほど世情は乱れる。いや、百姓は一揆を起こすくらいしかないが、商人はその習性により上手く立ち回り、値を吊り上げたりして、儲けている。米、油、塩などの物資を扱う者は、わりあい儲けることが出来た。この頃商人で打撃を受けた者は、極端な倹約令により買い手のなくなった呉服屋であろう。


 享保の頃というのは、色々あった。大坂、京では立て続けに大火があり、甚大な被害を被った。その経済的打撃は計り知れぬが、消失した家屋の再建のために必要な材木を商う者は、たいへん儲かった。


 富とは、無より知らぬ間に生じた空白を埋めることであると思う。もともと、人は何も持たぬ状態で生まれてくる。しかし長じるにつれ、自らの門地や働きにより、ものを得る。それは一度手にすると、手放すことを不安とし、持たぬことに苛立つようになる禁断の果実。人の側で甘い香りを放つそれがどこかに行ってしまえば、そこはもともとの無には戻りえず、歪んだ真空となる。真空は周囲の大気を巻き込み、激しく元に戻ろうとする。人はその作用を空白と捉え、埋めようとする。そのことだけは、享保だろうが天保だろうが平成だろうが変わらない。

 そして、三蔵は昔、そういう真空に棲む鬼であった。

 今は、何を思ってか、ゆいの手を引き、道をゆく。


「待て待て、待て」

 その後ろから、声と足音。複数ある。三蔵の指がぴくりと動くのを、唯は感じたことだろう。

「待ちやがれ、三蔵。目ッかしの利八親分の賭場で、暴れやがって」

 目ッかし、というのはこの当時の言葉で、片目が機能していない状態のことを指す。その二つ名の通り、三蔵がいた賭場を経営している利八というやくざ者は、この倹約令でがんじがらめの世の中で倒れる賭場が多い中、それでもなお続けているだけあり、なかなかに肝の座った男であった。


「ただで済むと思うな」

 その利八が騒ぎを聞きつけ、早速に若い者を放ったのだろう。唯を連れた初老の三蔵の足に、彼らが追い付くのは当然である。彼らは、口々に三蔵を罵ったり脅すようなことを言いながら、一斉に懐から光るものを抜いた。

 それは、月のように青かった。三蔵は、ふと見上げた。夜道でも難なく歩けるわけであるから、月が出ているのは当然のことである。


 それを、あえて見た。

 見て、言った。

「月だな」

 刃物を握る男は、三人。月がどうした、と口々に叫んでいる。その白い息が、緩やかに流れてゆく。

「睨むことはねぇ」

 三蔵が、唯の手を握る指を解いた。

 消えた。


 いや、地を擦るほどに、身を低く。そのまま、男の一人の腰にぶつかった。

 何がどうなったのかは分からぬが、足の甲を踏みつけられた男が後ろに倒れた。足首が異様に伸びている。関節が砕けたのだろう。そして、握っていたはずの刃物は、三蔵の手に移っている。

「やめておけ」

 三蔵は、男の足から自らのそれをどけてやり、刃物を放り出した。

「死人が出る」

 行くぞ、と唯の手を引く。


 足を抱えてのたうち回る男と、黙って二人を見送る男達。それらの上に、ものも言わずに月が居座っている。やがて冷たい風が吹き、三蔵は汚い脛を着流しからこぼしながら、綿入れの中に身を縮めて、唯と共にその中に消えた。



「何だと」

 知らせを聞いた利八は、大声を出した。この界隈で腕っ節だけでのし上がったこの五十を越えた歳の男は、昔の喧嘩か何かで右眼を失っている。いくつもの賭場や口利き屋を仕切るだけあり、知恵は回るらしい。

「その、三蔵とかいう爺、何者なんだ」

 と、自らが仕切る賭場で客の形代を奪ったばかりか、そこに居た者の一人を殺し、数人を身体が効かぬようにし、さらに放った若い者の脚を駄目にしたという男に興味を持った。

 用心棒として雇っていた薄汚い流れ者である三蔵のに眼を向けたのも、彼がただのならず者の親玉ではないことを表しているかもしれない。


 利八は周囲の者に聴いたが、誰も知らないと言う。なんでも、昔は腕を鳴らしたものだそうだが、昔の武勇伝なら誰にでも作れる。

「三蔵は、生かしちゃおけねぇ。だが、まずは、あいつを洗ってからだ」

 たとえば、どこか別の組と繋がりを持っていたりすれば、後がこじれる。そういうことが無いかどうかを、よく確かめる必要があった。

「その三蔵という男」

 利八の傍らの男が、口を開いた。

「竜。心当たりが、あるのか」

 りゅう、と呼ばれたのは、三十がらみの、無精髭の男である。黒塗りの刀を右脇に置いているが、風体からして浪人者であろう。こういうは、食い詰めた浪人者のうちで剣の腕の立つ者を飼っていることがある。竜も、おそらくそういう手合いの者であろう。

「俺も、暗い世界は長いもんでね、親分。もしかすると、と思ったまでさ」

「話してみろ」

「その三蔵って爺がそうかは分かりませんがね」

 と竜は、自らの知る三蔵についての話を始めた。



 夜半三蔵。月の出る夜、現れる鬼。どんな殺しでも必ず遂げる。仕損じたことはない。あるときは使用人や家人も多くいる商家に忍び込み、主人だけを葬り去って消え、あるときは標的と合わせて護衛の浪人七人を刺し殺したり殴り殺したりしたという話のある凄腕である。しかし、十年くらい前にぱったりと暗い世界からも明るい世界からも消え、それ以来どこで何をしているのかも分からない。死んだという話もあるが、いつ、どうして死んだかということを知る者もない。

「その三蔵が、だったとしたら」

「ふむ、竜。俺はよく知らなかったが、そんなとんでもない奴を飼っているとなりゃ、この利八に逆らう奴も、めっきり減るだろうよ」

 その場にいた子分らは、驚いた。

「お、親分。松の奴を殺されて、他にも何人も、腕が上がらなくなったり歩けなくなるような身体にされて、あいつを許すっていうんですかい」

「黙れ」

 利八は、騒ぐ子分らを一喝した。

「こういう稼業じゃあな、数勘定が大事だ」

 つまり、凄腕の三蔵を飼っているという評判と、殺されたり身体に不具を生じさせられた子分とを、秤にかけたのである。つい先ほどまで生かしちゃおけねぇなどと声を荒げていたものが、たいした変わり身の速さである。

「そうだろう、竜」

 竜は、答えない。

「生け捕れるか」

 もし三蔵が達人ならば、それは殺すよりも難しいことである。殺すならば忍び寄って一息に刺してしまえばよいが、生け捕るとなれば、まず身体の自由を奪わなければならない。

「やるさ」

 竜は、大刀を取って立ち上がり、腰に差した。

「物分かりがいいな」

「別に、俺は」

 竜は、厚ぼったい一重の瞼の下に鋭く光る眼を、歪めた。

「もし、その三蔵があの三蔵なら、興が深いと思ったまでです。あんたの子分がどうなろうが、あんたの評判がどうなろうが、俺には関わりないんでね」

 言い捨てるようにして、立ち去ってしまった。



「なんだ、あいつ」

「たまに口を開いたかと思えば。親分の評判が、どうでもいいだと」

「まあ、いいさ」

 利八は、騒ぐ子分どもを静めた。

「親分。あいつ、何者なんです。最近急に出入りするようになった割に、偉そうな。親分には懐いているようだが、俺たちには、口も利きやしねぇ。いけ好かねぇ奴です」

六文竜ろくもんりゅう。それが、あいつの通り名さ。出自は侍だが、あんなに侍らしくねぇ侍を、俺は知らねぇ。金さえ払えば、何でもする。特に、殺しにかけちゃ、右に出る者はねぇ」

「金に汚い割に六文とは、随分安上がりだ」

 子分の一人が、笑った。

「馬鹿」

 利八は、不敵に笑った。

「あいつの取り分じゃねぇ。あいつが殺した奴の、取り分さ」

「親分、それって」

「三途の川の、渡し賃さ」


 竜は、殺しをした後、自らが作った死体の上に、銭を六文置いていくのだと言う。

 そういう、癖のある男が、三蔵のことを興深いと言った。この手の男は、しつこいと相場が決まっている。

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