月に笑う鬼

増黒 豊

第一夜 鬼、放たれる

夜半三蔵

 三蔵は、夜になると、鬼になった。それも、決まって月のある夜に。

「三味線堀の、喜六屋忠兵衛」

 男が、三蔵に、名を告げた。

「三味線堀の、喜六屋忠兵衛」

 三蔵は告げられた名を繰り返し、小さな包みを受け取る。受け取って、猪口を伏せて席を立つ。


 麻の着流しが土臭い夜風に遊ばれて、ちらちらしている。

 三味線堀といえば、街でも有名な豪商の屋敷が並ぶ界隈である。懐手ふところでをしたままの三蔵の、脛の毛のだらしない足が、そこへ向く。


「よう」

 開け広げた声に、主人は目覚めた。

「だ、誰だ」

 寝臭い闇の中に沈む影に、怯えている。

「喜六屋忠兵衛だな」

「お前は」

夜半やはん三蔵」

 無論、実名ではない。裏の世界で、そう呼ばれているだけの名だ。その名は、三蔵の何も表さず、ただ三蔵がどういう人間であるのかのみを相手に伝えた。それが証に、忠兵衛はひっと声を上げたきり、喉ごと息を飲み込んだようにして黙ってしまった。

「どうして、俺がここにいるか、分かるな」

 忠兵衛は、答えることが出来ない。

「分からんなら、それでもいいさ」

 三蔵の手から短い光が伸びて、忠兵衛の腹を抉った。

 抜く。

 血が、闇の臭いを塗り替える。

 そのまま背に回り、口を塞ぎ、胸に再び。

 さらに抜き、喉を回すようにして、掻き切った。

 三蔵の、いつもの仕様しざまである。

 そのまま、また、三蔵は夜を踏んだ。

 向かう先は、遊び処。受け取った前金は、馴染みの女につぎ込む。そういう習慣であった。



 眼を閉じた覚えはないのに、眼を開いた。

 このところ、浅い夢を見る。決まって、昔の夢。夢の中の三蔵は若く、どこにでも駆けてゆけたし、色んな女を抱けた。しかし、今は五十を越え、そういうことは出来なくなっていた。今、三蔵は、博打場を仕切る連中の用心棒のような仕事をして、糊口を凌いでいる。裏の世界では未だに三蔵は有名だが、この汚らしい賭場の隅で居眠りばかりしている使えない初老の用心棒がそうだとは誰も知らない。


「三蔵。今月も、ご苦労さん」

 今は、そうやって、自分より十も二十も若い男に、僅かな手当てをもらうしかない。

「へえ。ありがとうございます」

 喧嘩になって、若い男に勝てる自信がないのか、三蔵は、へこへこと頭を下げて礼を言うばかりである。だから、賭場の連中は、内心、三蔵のことを馬鹿にしている。

「お前がいると、客がびくびくして、大人しいからいいや」

「若い頃は、腕を鳴らしたらしいな」

じじいになってからも、苦労が無くて良かったな」

 そうやって三蔵に声をかけては、げらげらと笑うのだ。そういうとき、三蔵は決まって、

「実際、じじいですからな」

 とよく分からぬことを言い、曖昧に笑うのだ。


 そんな三蔵の日常に変化があらわれたのは、十一月のうすら寒い夜だった。博打で負けた侍が、形代かたしろを払えぬとして、を差し出してきた。

 それを見て、三蔵は、半分眠りかけていた眼を見開いた。

「——

 徳、というのが誰の名なのか、知る者はない。三蔵の視線の先には、一人の娘があった。

「これは、ゆいといってな。俺の親父がある筋から買った娘だが、なにかと。これを払うから、なんとか、今回の払いは勘弁してもらえぬか」

「おう、悪くねぇ。頂いとくぜ。言っとくが、釣りは出ねぇ。あとで騒いでも、知らねぇからな」

「分かってる。俺には、親父みたいな趣味はない。先月から親父は病で伏せっちまっているから、こいつをどうするか、困っていたのだ」

「よし、もらい受ける」

 賭場の男は、預かっていた証文を若い侍に返し、代わりに唯の手を引いた。


「あ、お前」

 若い侍が、声を上げた。

 三蔵。

 手には、証文。いつの間にか、引ったくっていた。

「返せ。何をする」

「博打のカタに、娘かい。関心しないねぇ。猫の仔でも、あるまいし」

「この爺」

 若い侍の手が、挙がる。

 その肘を、三蔵の掌がそっと支えた。そのまま、ぐいと押すと、侍の肩から異様な音がして腕がおかしな方向に曲がり、そのまま侍は絶叫して転がった。

「てめえ、三蔵。客に何しやがる」

 賭場の若い連中が、三蔵を取り押さえようとする。

 三蔵、唯の手を引く。

 美しい線の瞼の下に墨を垂らしたような黒目が、無感動に見つめてくる。

 両側から、賭場の男。

 一人が飛びかかってくる勢いをそのまま利用し、喉笛を肘で突く。思い切り体重をかけているから、男は死んだかもしれない。その体勢から、反対側の男に向けて脚を挙げる。人間の本能によって顔を庇おうと、両手が挙がる。しかし三蔵の脚はそのまま挙がりきることはなく、むしろ落ちた。

 男の踏み足、膝の上。そこに、踵。男は自らの勢いをその一点に受けることになり、膝を逆さに曲げて転がった。


「爺、狂ったか」

 賭場を仕切る男が、得物を抜いた。それを脇にめながら、突進してくる。

 くるりと唯の身体を回し、自らの背後に庇った。そのまま、後ろ脚で、男の腕を巻いた。

 わっと声を上げて、男は腕から床に倒れ、刃物を手からこぼした。

「狂っちゃねぇや」

 三蔵、その刃物を、ゆっくり拾う。

「この娘は、俺がもらい受けるぜ、旦那」

 息が、上がってしまっている。やはり、昔のようにはゆかぬらしい。手を引いて、唯に歩くよう促した。唯は、この汚らしい初老の男に少し訝しい顔を向けたが、何も言わず従った。

「待て」

 苦しい声が、追ってきた。

「こんなことをして、ただで済むと——」

 賭場を仕切る男は、それきり声を止めた。眼の前に、三蔵の投げ放った刃物が突き立ったのである。

「娘は、もらう。そいつは、返す。世話になったな、旦那」

 そのまま、痛みの叫びを背にして、三蔵は慣れた賭場を後にした。


 ふと、空。ぽっかりと、月が上がっていた。

「いい月だな」

 三蔵は、唯に声をかけた。唯は、何も言わない。ただ、どうしてこんなことをするのか、と問いたそうな眼を向けた。

「徳という女を、知っているか」

 唯は、かぶりを振った。

「そうか、ならいい」

 三蔵は、曖昧に笑った。

「行こうか」

 どこへ、とは言わない。三蔵にも、当てはないのだろう。こくりと頷く唯の眼にも、月が浮かんでいた。それに向かってもう一度笑って、夜を踏む音を立てた。


 それは、四つ。重く、ゆっくりなのは、三蔵。軽く、ぱたぱたとしているのは、唯。一つ立つ度、夜に濡れるようであった。

 散ってゆく白い息が整った頃、それはやや速くなった。



 夜半三蔵。かつて鬼と呼ばれた男が、また闇に放たれた。そういう夜の話である。

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