窮地に立つ者

 また、新九郎のことである。彼はむかしから剣術ひとすじに生きてはきたが、今ひとつその才に薄いというか、伸び切らぬところがあった。だから、二十を幾つも超える歳になっても、いまだに彼の修める流派の皆伝は授けられず、切紙のままであった。

 それでも、決死の覚悟で仇討ちに臨んだ。臨んで、それをし遂げた。無論、独力ではなく、三蔵の力を借りて、である。それがなければ彼はあの勧進橋近くの林の中でなます切りにされ、川に捨てられていたことであろう。

 その彼は、思う。たとえば三蔵の殺しの技は、剣術の道場などで教わることのできるものではないし、あの竜がときおり放つ凄まじい殺気は、与えられて得るものではないと。まったく、この世には、彼の理解を超えたのような人間がいるものである。

 あの忍びのような娘も、そうである。いったい、どのような生を過ごしていれば漁師の娘に化けて暮らしながら誰かに頼まれて人をさらい、追ってきた新九郎に薬を盛って警告を与えたりするようなことができるのであろうか。

 あのとき新九郎を殺さなかったのは、同じ板倉さまなる人物に雇われた──とあの娘は思い込んだらしい──新九郎を殺し、板倉さまの怒りを買うのを恐れてのことか。

 この冬になって、新九郎はこの世には自分の知る世界とはまた別の層に、とても暗い世界があることを知った。そこに生きる人はどれも歪んだ気を宿し、闇を踏んで歩いている。悪鬼か羅刹のような彼らの息吹は、この世のどこにでもあり、気付けば新九郎の耳元で生臭い音を立てている。そのことに、今さら気付いた。


 だが、どうやら、その禍々しい生き物もまた、人であるらしい。

 三蔵はどうだ。いつも飄々としてものに動じず、新九郎が仇と討った荒又に対し、人の道を説くようなことを言った。そのあと、全身を虫のように這い回る興奮に浮かれる新九郎を、窘めもした。

 死した者の業を負い、死した者を知る人の恨みを受け、なお生きる。それが殺しということ。いったい、三蔵はその理屈に辿り着くまでに、何人の人間を殺したのであろうか。そして、それでも殺しを続けなければならぬ理由とは、何か。

 唯であろう。三蔵が自分のことをあまり語りたがらないため新九郎はよく知らぬが、彼は、三蔵はどうやら長くそのような暗い世界から足を洗っていて、ごく最近、それも唯と出会ってからまた殺しを始めたように思えていた。

 あの寒い夜に、唯を温めるための炭を求めるために。三人連れでの旅で宿を取り、腹を満たすために。きっと、三蔵は、一人でならば、腹が減ればその辺の獣でも捕らえ、廃寺の本堂の破れ戸の中で夜を過ごすことかできるであろう。それをせぬのは、自分と唯のため。新九郎はそう思っていた。

 誰かを守るために鬼になったと言えば、美談であろう。果たして、三蔵がそのようなものか、どうか。

 新九郎には分からぬ。分かるのは、三蔵が唯を守ろうとしているということであり、自分の恩人だということである。悪人ではない。かつて人を多く殺めて暗い世界で名を馳せたという三蔵が悪人ではないとは不思議な理屈であるが、とにかく、三蔵は間違っても喜悦や欲得のために人を殺めることはなく、かつて鬼と呼ばれていた頃においてもそうであったのであろう。

 では、なんのために。新九郎の癖なのだろうか。思考は何度も巡り、その度に少しずつ形を変えてゆく。


 では、自分は。何の後ろ盾もなく、殺しの技はおろか世の中で生きてゆくいかなる技も持たず、ただ教えられるままに教わり、生きてきた。たとえば旅をするのに金のことはついて回ると知らぬはずはないのに、どこかで、金というものはいずこからか勝手に湧いてくるものとでも思っていたような具合に、そのことに頭が回らなかった。日雇いなどをして路銀を稼ごうにも、どこの誰に何を尋ねるところから始めればよいのかすらも分からぬ。

 だから、三蔵が血の臭いを纏いながら木賃に帰ってきても、それを責めるどころか、そのことについて問うことすらできずにいる。

 自分が、三蔵を鬼にしている。そういう思いもある。三蔵の殺しの技に拠りかかり、食い、眠る。唯ならばまだしも、いっぱしの大人である自分にできることは、何だ。そういう焦りもある。

 焦ることはない。ただ、急ぐのみ。

 どこの誰とも知れぬ者に連れ去られた唯のために。あの漁師町にいた者全てがであるならば、一人で乗り込むのは荷が重い。本懐を遂げる前に殺されてしまえば、誰が三蔵に唯の居所を伝えるのだ。

 江戸の街の西はずれ。多摩に差し掛かろうとする甲州街道へと続く道脇にある茶店。そこで、落ち合う約束をしている。半日もかからず着ける距離である。既に三蔵がそこで待っているかどうかは分からぬが、急がねばならない。


 そう思い、歩幅を広くしたとき。

 自分で何が起きたのか分からぬうちに、横飛びに飛んでいた。

「へえ、やるね──」

 土埃に混じって、声が風に流れる。

「──やっぱり、殺しておけばよかったか」

 娘。あの漁師町の。咄嗟にそう思った。気を澄ますと、周囲の木立や草むらのことごとくが、殺気を宿していることに気付いた。

 転がった体勢から素早く起き上がり、刀の柄に手をかけ、鯉口を切りながら、丹田に力を入れた。

「後ろに目でもついてるのかい」

 自分が転がり避けた土の上には、短い刃物が突き立っていた。

 その視線の先に、やはりあの漁師町の娘が姿を現した。

「ちょいと、歩けなくしてやろうと思ったのにさ」

「それならば、正面きって打ちかかり、私の額を割ればよかろう」

 娘は、笑った。

「そんなことをしたら、あたしが叱られちまうじゃないか」

「板倉さまに、か」

 肚を据えている。このさい、あの板倉さまなる人物のことを、少しでも聞き出してやろうと思ったのだ。しかし娘はそれには答えず、目を細めるだけであった。

「あんた、どうせ、金で雇われただけだろう。手を引きな」

「そういうわけには、ゆかぬ」

 では、この娘とその一派は、金とはまた別の理由で板倉さまに雇われているのか、と推理した。

「あんたみたいな奴とあたしたちじゃ、何もかもが違うのさ」

「お前は、何のために板倉さまに雇われている」

「それを言って、どうする──」

 周囲に煙のように立ち上っていた殺気が凝り固まり、人の形になった。やはり、取り囲まれている。講談師の話す忍びのようだ、と思った。

「手を引きな。あたしたちの仕事の邪魔を、するんじゃない。さもなくば、殺す」

 ならば、さっさと殺せばよい。板倉さまに気を使っているのだろう。

「それは、できぬな」

 新九郎は、うっすら笑った。さも、暗い世界で生きてきた者であるように。

「必ず、取り戻す。私が思うことは、それだけだ。死を恐れることもない。ましてや、お前のような小娘など。再々に渡って脅しに来たのに申し訳のないことだが、無駄だ」

 新九郎を取り巻く殺気が、強くなった。

 やる。死んでやる。そう思い定めた。ただし、では死なぬ。本道にはまだ距離があるから人影は少ないが、街道筋にそう遠くないこの場所でさんざんに騒ぎを起こし、自らの血でもって足跡を残し、三蔵が嗅ぎ付けられるようにする。

 三蔵ならば、ここで闘争があって一人の侍が消えたという事実を辿り、この娘どものことや唯のことに行き着くだろう。

 わかった、手を引く、と言ってとりあえずこの場から逃れるという選択肢が最も懸命である。しかし、そのようなことは思い付きもせぬらしい。

 今新九郎が思うのは、さんざんに暴れて、人目につくよう、できるだけゆっくりと死ぬということであった。

 人の姿をした殺気が、一気に距離を縮めてくる。刀を抜く間もない。生命の危険を避けるという反射に従い、刃の林をくぐるようにして身を低くし、一人を突き飛ばし、そこに生じた活路に向かって踏み出した。

 しかし、何かに足を取られて派手に転び、土の匂いを間近に嗅いだ。

「もう、いい。板倉さまがあんたを探しても決して見つからぬくらい、にしてやる」

 娘の白いはぎが、目の前にあった。それはとても瑞々しい曲線を持っていて、とても今から死をもたらすような者のそれとは思えない。

 ぼんやりと傾く先を探すような陽を跳ね返し、刃が飜る。

 目を閉じかけた。しかし、閉じるわけにはいかない。

 激しく鉄の鳴る音。

 どこを、斬られた。

 いや、斬られたのなら、音などないはずだ。

 いちど鉄が鳴ったきり、天地は静かである。ただ、自らの耳の中で鳴る、血の脈の音があるのみ。

 ふと、見上げた。

「抜かなくて、よかったじゃねえか」

 娘の白い脛は、小汚い男の毛脛けずねになっていた。上へ上へと視線を這わせると、そこには見覚えのある背中。刀を鉄拵えの鞘ぐるみ腰から外し、娘の脇差を受け止めている。

 その袖の内で、わずかに銭の鳴るような音がした。

 竜である。

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