斬るつもり

「竜の旦那。どっから湧いて出たんだい」

「そりゃまた、ずいぶんな言い草じゃあねェか、水仙」

 水仙。それが、この女の名。転んだまま顔だけ起こした格好の新九郎は、そう判じた。そして、二人は顔見知り。だが、竜は、水仙の斬撃を受け止めている。

 ――私を、守った?

 そのようにも思えるが、それが何のためであるのかは分からない。

 とにかく、情景のみが存在し、状況が読めぬ。そういう具合であった。

「いったい、どういう了見だい。さんざんあたしの仲間を斬って、それでも見逃してやっていたっていうのに。まだ、邪魔をするつもりかい」

 水仙の殺気が、徐々に強まってゆく。竜の肩が盛り上がるのが、新九郎には見えた。

 音もなく、なおかつ、わっと竜と新九郎を取り巻く殺気が、輪を縮めた。鞘ぐるみ受けていた水仙の脇差はそのまま鉄の鞘に釘付けたまま、柄を握り締めている右手をするりと滑らせ、鮮やかに抜刀し、左手の鞘で水仙の刀をそのまま流しつつ、ぱっと振り返り、抜き放った刃を弧にして新九郎の頭上を通り過ぎさせた。

 血が臭い、降りかかる。はじめ温く、すぐに冷たく。

 風。ひとつ吹く。その中でわずかに残心を示す竜は、舌を打つ。うつ向き、厚ぼったい瞼の奥の光を強め、打ちかかってきた一人を鉄鞘でつ。

 言わば、ここは虎の巣窟。その激しき爪を潜り、牙をかわし、その口の中に飛び込んで。竜の戦い方とは、そういうものであった。舞い立つ土埃と血煙が、この世のものでないような気がして、新九郎は戦慄した。


 何が起きているのか、分からぬ。だが、はっきりと見えるものがある。刃と鉄鞘をそれぞれ握り、全身を全て戦いのために使い、手の付けられぬ嵐のようになっている竜から身を遠ざけ、傍観しようとする水仙の姿。

 まだ、若いのだろう。ひょっとすると、十五、六くらいなのではないか。このような娘が、このような暗いことをして生きているというのは、なんとも悲しく、忌々しいことである。男どもは水仙に従って戦っているから、もしかすると水仙はこの一党の先代の棟梁の娘とかそういう存在であるのかもしれぬ。それを、皆で守り立て、なにごとかを掴もうと。

 そのようなことを汲み出したら、きりがない。

 新九郎にとっては、唯を連れ去った敵なのだ。あの口も利かぬ小さな花のような娘を連れ去り、恐ろしい思いをさせた大悪人なのだ。

 この世には、善でも悪でも計れぬものが沢山あることは、無論知っている。しかし、唯を知る新九郎は、知っていた。

 目の前で脇差をぶらりと握る水仙は、悪だ。

 ゆっくりと、立ち上がる。

 竜が巻き起こす激しい闘争を、歩み避けて。気付いた水仙が、脇差を構え直す。

「やろうってのかい」

 娘らしからぬ笑みを浮かべて、圧してくる。

「やめておけ!」

 一人を斬り払い、別の一人に応じながら、竜が声を上げた。

「いいや」

 新九郎の声は、落ち着いている。ゆったりと、柔らかに刀の柄に手をかけた。

「やめぬ。このようにうら若い娘に対して刀を向けるのは気が引けるが、私は、唯どのを救い出さねばならぬ。今、それができるのは、私だけなのだ」

 死んでやる。つい先ほどまでそう思っていたのが嘘のように、新九郎は落ち着き払っていた。今は、路傍に転がるかもしれぬ自らの死のその向こう側にあるものへと向かい、歩もうとするようであった。

「へえ。あんた――」

 これまで何度もいのちのやり取りをしてきた水仙には、分かるらしい。今、新九郎が至っている境地がどういうものか。

「来い」

 抜かず、ぐっと柄頭を落とし、わずかに左足をにじり出させた。斬撃を誘い、抜き打ちで応じるつもりらしい。この柄頭の位置なら、水仙がよほど無理な姿勢でも取らぬ限り、その視界を横切るようにして新九郎は抜けるから、斬り下ろしでも突きでも何でも弾くことができるだろう。

 細い息が静かに漏れているが、白くはならず、気配を鳴らすに留めている。竜の争闘の気配とは全く違うものが、満ちている。

 喝、と鉄が鳴った。いや、鳴るはずであった。放胆に繰り出された水仙の打ち下ろしを抜き放った刃で擦り上げて弾き、二の太刀で仕留める。しかしそれをするはずの刃はただ春を待つ風を巻いただけで、なにものにも打ち当たることはなかった。

 姿。自らが討つべきものの。それを視界の中で探す。

 横薙ぎに払った刃を腰を捻り、胸を開き、手の内を締めることで止め、送り足を踏み足にして振り返り、その勢いを利用して二の太刀。

 また、くうを斬った。空というものが斬れるものなのであれば、である。

「こんな剣を振るうんだね」

 耳元に、甘い花が放つような息がかかった。ほっそりとした指が、そっと左肩にかかっている。

 やられる。即座に、そう思った。右手に握っているであろう脇差を少し引き、ずぶりと腰裏から貫くつもりだ。

「くそ!」

 竜が投げつけてきた鞘が水仙の腕を打ったものらしく、衝撃が新九郎にも伝わってきた。水仙はそれきりぱっと飛び下がり、片腕を押さえながら姿勢を低くして竜を睨み付ける。

「竜の旦那。あんたを相手にするのは、具合が悪すぎる。だが、覚えておきな。あんたは、あたしの一族の者を、殺しすぎた。これからは、夜は眠らぬようにすることだね。できるだけ明るい道を歩いて、人の多いところは避けることだよ。あんたに、ほんの一分いちぶでも隙ができれば。たとえば、瞬きをひとつするくらいの。そうなれば、たちまちあたし達があんたを殺すだろうよ」

 それを捨て台詞にして、水仙とその一党は消えた。ほんとうに、消えたとしか言いようのないくらいに見事な消えっぷりだった。人間というものが、こうも容易く出たり消えたりすることができるものなのか、と呆れに似た気持ちと共に、新九郎は刀を鞘に納めた。


 じゃらじゃらと音がするので、振り返った。転がる五つの死体に、竜が銭を撒いていた。

「――それは?」

 竜は目だけを向け、ぶっきらぼうに答える。

「三途の、渡し賃さ」

「斬った相手の、か」

「俺と出会わなければ、死ななかった。誰もが、今日自分が死ぬとは思わず、今日を生きている」

 どういう理屈なのだろう。自ら望んで殺しの道をゆき、狂剣を振るう男の言葉とは思えぬようなものである。それは忌々しい血の技とは明らかに矛盾しているように思え、眉をひそめた。

「施しでもねえ。情けでもねえ。だが、生きることができる俺には、死んだ奴を冥土に送ることができる。死ぬ奴が自分の世話をするなんてことは、ありっこねえからな」

 こういう類の男の生死感は、新九郎が教育されたものとは違うらしい。

「遂に、抜いたな」

 刀を、である。抜いたがどうした、と新九郎は思ったが、この妙な人殺しの言うことを、不思議と聞いてみようという気分になっている。

「抜いたが、斬らなかったな」

「それは違う。斬ることが、できなかったのだ」

 ふふ、と竜が喉を鳴らした。

「斬ろうと思っていれば、斬っていたさ。そういうもんさ」

 ほんとうにあの水仙という娘を斬るつもりであれば、身体がそれに応じて勝手に動いて彼女のいたちのような身のこなしを追いかけ、そのいのちに剣を届けていたのかもしれぬ。そうならなかったのは、新九郎に、わずかでも水仙に同情したり、その背景を汲んだりする気持ちがあったからか。

「だから、言ったろう」

 作業を終えた竜が、転がった自らの鞘を拾い上げて刀を納め、腰に戻した。頼りなく西を目指す陽の橙に塗りつぶされたそれには、無数の傷や曇りがあった。

 ああ、もう陽が暮れるのか、と今さらながら思った。

「抜かない方がいい、と」

 抜くならば、徹底的に相手の命を奪う。そうしなければ、自らが死体となる。そんな状況を切り抜けるためでないのに刀を抜いても、ろくなことにならぬ。そう言いたいのかもしれぬが、竜はそれ以上を語らず、長い影を伸ばして歩み寄ってきた。

「俺は、唯を探すぜ。どうだ、お前も、一緒に」

「断る」

 新九郎は、ぷいとそっぽを向いてしまった。自分で拐っておきながら水仙に奪われた唯を一緒に探そうなどと、どの口が言えるのだという思いであった。

「一人より、二人の方が見つけやすい。そういうもんだろうがよ」

「だが、断る」

「へっ。侍の、意地ってやつかい。そんなものぶら提げても、何の足しにもならねえってのによ」

 それでも、それは、己という者がこの世に両の足で立って生きている確証なのだ。新九郎にとっては、そういうものであった。

「まあいいさ。俺は俺で、探すからな」

 探し、また唯を連れ去り、どうするのか。

 決まっているだろう。三蔵を誘い出し、戦うのだ。

 そうと分かっているならば、今ここで斬るか。


 結局、新九郎は抜くことはなく、立ち去る竜の後姿と、それが引きずる影を見送った。

 竜を斬るつもりになれなかったから抜かなかったのか、どうか。

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