西から東へ

 結局、唯はおろか水仙の行方すらも分からぬまま、新九郎は江戸の西外れ、甲州街道へと続く脇道にぽつりと佇む茶屋にいた。

 竜がせっかく、唯を一緒に探すことを申し出てくれたのにそれを蹴り飛ばすようにして断ってしまった。唯を早く見つけ出すということを主眼に据えるならば是も否もなく応じる方がよいに決まっているが、どうしても容れることができなかった。

 唯をはじめに連れ去った大悪人の力を借りるなど。それに、竜の目的が唯を直接どうこうするわけではなく、唯を使って三蔵を誘き出すことであるなら、竜が先に見つけたとしても、どのみち唯は帰ってくるのだ。それでよいではないか、と自分に言い聞かせることにした。


 少なくなりつつある三蔵からはじめに渡された銭を惜しむことなく茶と団子を頼み、明けたばかりの空の下を貫く道をじっと見ている。

 その視界に、ふらふらと頼りなく歩く小汚い男。

 数日ぶりに見ると、いよいよ三蔵というのは汚らしい。刈り込まれた髪はどこの旅坊主かと思うほど半端に伸び、点々と白いものが混じる無精髭も、剃刀というものを知らぬ世の人のそれのようである。やけに分厚い、それでいて擦り切れた綿入れを着込んでも分かるほどに腹は出ているし、それに引っ張られるように猫背ぎみになっている立ち姿もよろしくない。

 だらしない毛脛けずねが近づくと、そこには夏の間に虫に食われたのか、黒い痕がぽつぽつとあるのが見える。

 そして、臭い。風呂にもろくに入らぬため、体臭がある。それを振り撒きながら、新九郎の前で足を止めた。

「おう。どうだった」

 その体臭でも塗り潰すことのできぬ、血の臭い。唯を探す路銀のため、またどこかで暗いことをしてきたのかもしれぬし、あるいは長年のことでこの男に染み付いたものであるかもしれぬ。

 今までの新九郎であれば、あまり関わり合いになりたいとは思わなかった手合いである。しかし、あのとき、自分から声をかけた。それがなぜかは分からぬが、竜のように言うならば、それもまた縁であるのかもしれない。

 ともかく、この薄汚い初老の男が新九郎の恩人であることは間違いがなく、三蔵の目が自分には見えぬものを見ているように思え、その点は尊敬もしている。

 だから、眉をひそめることなく、ちょっと眉を下げて笑い、答えた。

「海辺にある、漁師町。その一つが、あやしげな者どもの根城になっているようです」

「あやしげな、ね」

「ええ。なにやら、若い娘が頭領のように振る舞っていて、いつも徒党を組んで行動します。まるで、忍びのように」

 ふん、と三蔵は鼻を鳴らした。なにがおかしいのか、あるいは未だ止まぬ寒風に洟を垂らしそうになったのかは、新九郎には分からない。

「どうせ、伊賀者か何かであろうよ」

 やはり、暗い世界で生きてきた三蔵は、同じ世界の者について詳しいらしい。

「まあ、がそうかどうかは、分からぬがね。昔々はたいそうあちこちで重宝がられた伊賀者も、こんなご時勢だ。飯の種がなくって困っているのさ」

 と、隣の家の猫が子を産んだとかその程度の話でもするように言う。


 伊賀者とは、旧くは鎌倉の頃に端を発し、まだあの山間の小さな盆地に実行力を及ぼす力のある領主がおらず、大小の者が互いにその地を巡って争っていた頃に、民が自衛のために組織を創ったことがはじまりとされる。無論、彼らはもともと農耕をしていた。しかし、伊賀という土地は日照や立地、そして土の質などからたいした農業はできぬため、時間の経過と共にその技を売り歩くようになった。

 よく似た存在として甲賀者が挙げられるが、両者の間で決定的に違うのは忠誠心である。甲賀者は主君を持ち、その一人のためにだけ働くが、伊賀者は利害のために働き、その力を求める者にされることで世を渡ってきた集団である。

 戦国時代などにおいては両者とも各地においてさまざまな働きをし、各大名がこぞってそれを雇ったり召し抱えたりしたものであるが、彼らのような存在を多く必要としなくなったこの頃においては、だいぶ帰農が進んでいる。

 しかしながら、やはり、彼らの卓越した身体能力や幕府の正規機関など足元にも及ばぬほどの諜報能力を欲しがる者が、ごく一部には依然として存在する。それが帰農をよしとせず、忍びとしての伊賀者の生活を保ち続けたいと考える者どもの求めに応じて雇い、使うのだ。


「名を、水仙と言うそうです」

「ほう――」

 あの、か。と三蔵は思った。あの若さで一党の頭領を務めるというのは、並のことではない。よほどの手練れか、あるいはよほどの事情があるか。

 正直、三蔵は、忍びなど怖くもなんともない。だが、面倒な相手であるとは思う。彼らはどこにでも現れるし、どこへでも消えられる。そして、ひとたび狙いを定められたり恨みを買ったりすれば、地の果てまでも追いかけてくるものである。

「妙な手合いと、関わり合いになっちまったもんだ」

 どの口が言うのか、とは新九郎は思わぬ。ただ三蔵の言うことに、口の線を重くして頷くのみである。


「六文竜に、漁師町の伊賀者ねえ」

 薄っぺらい晩冬の朝に伸びをひとつして、腰が張っているのか、しきりと腰を叩く。

「三蔵どの。板倉さま、という者に、お心当たりはありませんか」

 新九郎は、水仙が口走ったその名について訊いた。

「水仙が、その名を言ったのか」

「ご存知ですか」

「分からんでもない。だが、俺の思う板倉という男と同じ板倉かどうかは、分からん」

 三蔵は、なにかをしきりと考えているようであった。やはり、板倉なる者は、只者ではないらしい。

「三蔵どの」

 新九郎は、その顔色を計るようにして、さらに重ねて訊いた。

「厄介な、相手ですか」

 三蔵はどういう気持ちからか、へへっとだらしのない笑みを漏らし、首を傾げた。

「もし板倉のことが俺の思う通りなら、色んなことが、廻り廻っていやがる」

 それにしても、と三蔵が続けたので、新九郎は三蔵の思う板倉なる人物のことについて訊きそびれた。

「それにしても、その水仙って女、伊賀者にしては、ずいぶんじゃねえか。雇い主の名を、手前の思い込みでお前さんに明かしてしまうとはな」

「見たところ、まだ十五、六ほどの歳であるように思えました。腕は立っても、所詮は娘ということでしょう」

「新九郎――」

 三蔵は、懐手をして立ち上がった。新九郎も、それにつられて続く。

「――お前さん、女で苦労したことがねえな」

 ちょっと馬鹿にされたような気がして、新九郎は面白くない。さすがに子供のように頬を膨らませるわけにもゆかず、

「これといった縁もなく、この歳になってしまいましたゆえ、おなごのことで苦労は、とんと」

 と大真面目に答えた。三蔵は苦笑をひとつこぼし、擦り切れた草履を鳴らした。

「許婚なんかは」

「その話もあるにはありましたが、相手方に会う前に、家が潰れてしまいました」

「そいつは、難儀だ」

 まだ昇って間もない陽が目を刺す。新九郎は、三蔵の足が東へ向かっていることに気付いた。あの漁師町の方を当たるのだろう。

「そう仰る三蔵どのは、いったいどのような苦労を?」

 ふと気になって、問うてみた。それについて三蔵は答えず、

「昔の話さ」

 とだけ言い、からからと笑った。

「実際、爺だからな」

 言葉だけでは意味は分からぬが、新九郎には、なんとなく三蔵の言いたいことが分かるような気がした。

 ――もう、こんな歳だ。俺のような歳になった者が、昔のことをどうこう語っても、仕様のないものさ。

 三蔵が鬼であった頃のことを未だに人に自ら語るような男であれば、新九郎も恩人として慕うこともなかったであろう。女のことも同じか、と思い、多くは訊かぬことにした。

「唯の奴、寒がってやしねえかな」

 のんきなものである。雇われ浪人の殺し屋である竜に拐われ、なおかつ伊賀者に拐われてしまった唯の身を案じることなく、寒がっているかどうかを気にするなど、この状況でするようなことではない。新九郎は一瞬、そう思ったが、三蔵ならばあの伊賀者の集団を相手に大立ち回りをやってのけ、唯を無事に救い出すことができると確信することができて、三蔵もまたそのつもりであるから、唯が寒がっているかどうかを気にすることができるのだと思った。

 実際のところどうであるのか、新九郎の位置からは三蔵の表情は読み取れぬから、分からぬ。

 ただ、二人は、自らの影を長く残し置くようにして、ゆく。

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