侍と竜

 それから、あちこちを捜しながら歩き、三日目の夕。江戸の町を横切るようにして、北回りで唯を探している三蔵に早く行き合うべきか、このまま南回りであらかじめ定めたところで行き合うべきか、わずかに新九郎は考えたが、今三蔵がどのあたりにいるのか分からぬから下手に予定と違う行動をしてはかえって行き合うのが遅くなりかねぬと思い、予定の場所を目指すことにしたのだ。そこで落ち合い、二人でまたあの漁師町を起点に捜した方がよいに決まっている。

 板倉さま、という者のことも、三蔵にはもしかしたら心当たりがあるかもしれぬ。

 唯と、それを連れ去った竜。それだけを捜せばよいはずであったものが、あの忍びのような娘もまた唯を求めているということが分かり、話がややこしくなっている。


 江戸を、離れた方がよいのか。たとえば相模の方まで下ったり、上野こうずけに入るなどした方が追跡を避けられるのか。そのようなことをぼんやりと考えながら歩く新九郎の視界に、海風を浴びる梅の木が映った。蕾は、なおほころび始めている。それに風車を握った唯の姿が重なって、思わず足を止めて少しの間眺めた。

 さらにその視界の向こうに、人影。陽は傾きかけているが、べつに急ぐふうでもなくふらふらと歩くそれに、新九郎は見覚えがあった。

 粗末な綿入れからのぞく、だらしのない草染の着流し。ぶらぶらと揺れる大刀。

 竜である。

 そう認知した瞬間、新九郎は風のように駆けていた。

「貴様」

 眉を怒らせて刀の柄に手をかける新九郎に、竜も気付いた。

「お前は、この間の」

「よくも、のうのうと。唯どのは、どこだ」

 そう問われて、竜はひどくが悪そうにした。

「どうした。言わぬか」

 新九郎が握る柄が、わずかに滑ろうとした。それを押しとどめるように、竜は両手を突き出し、その手のひらを開いた。

「唯は、いねえ」

「いない、とはどういうことだ」

さらわれちまったんだ」

 新九郎は、我が耳を疑った。そもそも、唯を拐ったのは、竜ではないか。それが、さらに拐われるというのは、一体いかなることか。

 即座に、あの漁師町の娘のことが思い浮かんだ。敵対関係にあることが疑いようのない竜に対してこのように思うのは新九郎としては不本意であろうが、者が、と思った。

「貴様。拐っておきながら――」

 新九郎が、怒りを露わにする。

「済まん」

 竜がぱっと手を合わせて拝むような仕草をしたから、怒りの調子が崩れた。

「唯には、可哀想なことをした。べつに、悪くするつもりはなかったんだ。だが、こんなことになっちまった」

か」

 と新九郎がため息を交えて言うと、竜は、おや、という顔をした。

「お前、あいつを知っているのか」

「お主の言うあいつというのが、漁師町の娘の格好をした忍びのような者であるなら、な」

「いよいよ、間違いない。そいつだ。そいつが、唯を拐ってっちまった」

 新九郎は、このやり取りが馬鹿馬鹿しくなっている。ぞっとするほどの殺気を持ちながら、今こうして両手を合わせながら取り繕うように言葉を繋ぐ様は、子供のようでもある。

「あれは、一体何者なのだ」

「多くは語れねえ。語ってやる義理もねえ」

「お前の仲間か」

「まさか。ああいうの悪い手合いと一緒にされちゃ、困るね」

「板倉さまとは、何者だ」

 竜は、訝しい顔をした。どうやら、心当たりがないらしい。

「もう、いい」

 これ以上関わっても時間の無駄だと思い、新九郎は歩き去ろうとした。その横顔を、

「待て」

 と竜が呼び止めた。

「あの女、確かに、言ったのか。板倉さまと」

「間違いない。なにやら、私のこともその板倉さまなる者に雇われた者であると勘違いをしたらしい」

「そうか、そういうことか――」

「どういうことだ」

 そこに新九郎がいることに今更気付いたような妙な顔をし、竜は片眉を上げた。

「お前、松戸って言ったな」

「いかにも」

「妙な縁だが、これも縁には違いねえ。ひとつ、忠告しておいてやる」

 竜の眼からは、殺気とはまた違う凄味が滲んでいる。

「深入りはするな。下手をすりゃ、命にかかわる」

 その板倉さまってのが、俺の思う板倉さまならな、と付け加えた。

「命に――」

「そうだ。これは、あぶない」

「そうであったとしても」

 新九郎は、柄から手を離した。

「私は、唯どのを追う。そして必ず、無事で連れ戻す」

「命と引き換えにしてでも、かい」

 新九郎は答えず、ただ少し笑った。

「それが、侍というものだ」

 自らを知る人のために死ぬ。それこそ、侍の本望。そういう倫理観もあるが、それ以前に、侍とは、優しくなくてはならぬ。天を敬い人を愛し、弱きを助ける人でなくてはならぬ。そのことを、言った。

「ははっ、見上げたもんだ」

 竜は呆れたように笑い、肩をすぼめた。

「お前のような者には、分かるまいがな」

 新九郎は今度こそ立ち去ろうとした。

「俺も――」

 竜がなにごとかを言いかけたので、足を止めた。しかし、待っても続きはなかった。だから、

「次に会えば、斬る」

 と言い残してやった。

「ほう」

 背で感じる竜の気配が、禍々しいものとなる。

「お前に、できるかね」

「できずとも、やる。それだけだ」

「こいつは、いよいよ侍だ」

 その皮肉には答えず、互いに逆の方向へ向けて歩き去った。


 たとえ、自らの命を危険に曝したとしても、見も知らぬ者に連れ去られた唯を捨て置くことなど、できぬ。ましてや、恩人である三蔵が守ろうとしている唯である。そもそも唯が連れ去られたのは自分の責任であると新九郎は思っているし、板倉さまなる人物を追うことが危険だと知らされても、それで手を引くわけにはゆかぬ。

 そして、唯をはじめに連れ去った竜を、許し置くこともできぬ。おそらく剣を抜いて向き合えば、わずか一合で新九郎は骸となるであろうが、それと、竜を許すのとは、まったくの別問題なのである。

 侍、と新九郎は言ったが、侍とはいずれかの家中に属していなければそれはもはや侍とは言わず、したがって仇討ちのくだりで足脱けをした新九郎は、正確には侍ではない。この場合彼が用いた侍という語は、そういう身分上の定義のことではなく、もっと根源的なもののことを指すのであろう。

 新九郎は、急ぐ。三蔵と落ち合うべき西へ。


 その三蔵はといえば、相変わらずのっそりと歩きながら、

「女の子を見なかったかね。目鼻のはっきりとした、可愛い子でね」

 などと言って食い物屋などを訪ね歩いている。ことさら食い物屋をあたっているのは、唯は金などを持ち合わせていないからである。腹を空かして野垂れ死んでいるのでなく、竜という男に連れられているのであれば、必ず、ものを食いに店に寄ると思ったのである。ときに三蔵のような小汚い初老の男が女の子を捜し歩いていることに訝しい顔をする主人などもあったが、そういうときには、

「いや、なに。妹の子だ。江戸に慣れていないくせに、迷子になっちまった」

 と大したことはないような口ぶりで言った。基本的に江戸の人というのは親切心が旺盛だから、たいていは、

「おう、そいつァ、大変だ。ちかごろ、人さらいも出るって話じゃあねェか。早く見つけてやんな」

 というような声をかけてくれるか、中には、

「ここに立ち寄るようなことがあれば、知らせる。どこに知らせればいい」

 というような者もある。そういう場合は、

「隅田川近く、浅草千田神社のそば。山笠屋という炭屋まで」

 と、顔のきく口利き屋に連絡が入るようにした。

 三蔵は、気付いていない。にぎやかな通りですれ違う人の中で、ちらりちらりと三蔵の行動を監視する者がいることを。いや、もしかすると、気付いていながら気に留めず、のっそりと歩いているだけかもしれぬが。

 ――新九郎の方は、どうだろうか。

 もしかしたら、すでに見つけたか、何か手がかりを掴んでいるかもしれない。そう思い、落ち合うと決めた江戸の西外れまで足を向けることにした。

 三蔵は、夜でも目が利く。だが、若い頃に比べると、鈍くなっている。近くのものは昼間でも見えづらいし、遠くのものもまた見えにくい。陽が暮れて自らの吐く息が白く流れるのを目で追った先に、月がひとつ。

 いくら老いようが、たとえ自分が死のうが、月は変わらずそこにあり、昇り、沈み、決まったとおりに形を変える。なんとなく、そのようなことを思いながら月を眺めて歩き、秋の終わりの虫ほどの声で、小さく呟いた。

「――とく

 その声がまた白くなって流れ、夜に溶けて消えたそこには、だれかの屋敷の塀のうちから枝をこぼす梅があった。

 その蕾は、やはり、ほころびかけていた。

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