第三夜 新九郎、奔る

板倉さま

 いっこうに、見つからない。竜に連れ去られた唯のことである。

「あてが、外れたかね」

 三蔵は呑気にそう言うが、やはり内心焦っているらしく、朝から夜更けまで出ずっぱりで唯を探している。

 三蔵の見立てでは、唯は三蔵を誘い出すために連れ去られたものであり、そのため、三蔵らがいた木賃からそう遠くない、分かりやすいところにいると思われた。しかし、いくら探しても手がかりはない。

「女の子を連れた浪人?知らないねえ」

 誰もがそう言って首を傾げるのには参った。竜に唯を連れ去る利点がない以上、必ず向こうから接触してくるので間違いはなかろうが、やはりおかしい。

「いっそ、武家町の方まで足を伸ばしてみてはいかがでしょう」

 当時の江戸は、まだ武家町と下町が分かれていた。三蔵らのいる江戸の東外れは下町であるが、中央にゆくと街並みはがらりと変わり、丘の多い地域にさしかかって、その丘を切り通すようにして整備された街路が江戸城を中心に、ちょうど蜘蛛が巣をかけたような格好で張り巡らされている。


 ひとくちに江戸といっても、広い。そこで、新九郎の申し出により、二手に分かれて捜そうということになった。はじめ、三蔵は、

「大丈夫かねえ」

 と眉をひそめた。万一、新九郎の方がを引き当てて戦いになったとき、新九郎の腕では竜にはとうてい及ばぬのではないかという心配をしているのである。それに、三蔵に一度襲いかかってきたあののような女もまだ江戸をうろついていることであろう。それらに、新九郎は対抗できるのか。

「ご案じめさるな」

 新九郎は、腰に力を入れて少し背筋を伸ばし、眉を吊り上げて言った。

「私が招いたことでもあるのです。だから、私が捜し出す」

「気負うな。気負って、死ぬな」

 吊り上がった新九郎の眉が、片方だけ緩んだ。

「三蔵どのこそ。歩き回ってくたびれ果て、いざ戦いとなったとき、遅れを取られませぬよう」

「こいつは、やられた。実際、爺だからな」

 三蔵が隣にいると、いかに新九郎が悲壮な覚悟を示そうともどうも滑稽になるから、彼も立つ瀬があるまい。


 その新九郎は、上町と人が呼ぶ武家町を、一人で歩いている。西から入って南北に分かれ、三蔵は北周り、新九郎は南周りで捜し歩き、東で落ち合う。

 新九郎が南を選んだのは、当時人さらいが子供などを売りに出すとき、船を使っていたためであり、もしそうであるなら海の方を当たった方がよいと考えたためである。

 今は埋め立てられて見る影もないが、当時の江戸の海岸線は、現在の地図よりももっと内陸を走っている。

 武家町とすぐに隣接するように、府内の腹を満たすだけの海のものをもたらす漁師町が並んでいて、その境を彼は歩いた。

 その漁師町に立ち寄り、彼はひとりの娘に声をかけた。

「もし、娘」

 娘は間の抜けた返事をしながら作業の手を止めて振り返り、武家姿の新九郎が佇んでいるのを見て驚き、居住まいを正した。

「このあたりで、女の子を連れた浪人を見なかったかね。女の子は柿色の着物、浪人は草染の着流しに紺の綿入れ」

「さあ──」

 娘は、ちょっと目を雲にやり、首を傾げた。

「そうか。邪魔をしたな」

 そう言って新九郎が立ち去ろうとするのを、呼び止めた。

「ご縁の方ですか?」

「まあ、そんなところだ。道中、はぐれてしまってな。聞くところによれば、今述べた風体の浪人が連れて歩いているらしいから、捜しているのだ」

「そうですか。ご苦労さまでございます」

「では、な」

 新九郎は、踵を返した。返して、振り返った。

「ところで、そなた──」

 娘は、きょとんとした顔をしている。

「その背に負う袋は、刀か」

「いえ、これは」

 娘がその袋を背から下ろして手握りし、身体の前に持ってきた。

「漁に使うものです」

「そうか」

 新九郎の右手が、ぴくりと動く。娘が袋を握る姿勢が、ちょうど脇差の鞘と柄を手握りしながら抜刀する格好だったのである。

 ──あぶない。

 勘のようなものが、働いた。

「おい、なんだよ、このお武家さんはよ」

 そのとき、周囲から声。それと、複数の気配。新九郎はとっさに右手を柄にかけて腰を落とし、あたりを聴いた。

「なんでもないわ。ものを尋ねておられただけよ」

 娘がそう言い、袋を背に戻した。

「なんだって、こんなとこに」

「人を、捜していらっしゃるそうよ」

「人だ?ここにゃ、何もねえよ。魚の一匹くらいなら、分けてやってもいいが」

「いや、失礼した──」

 気を外された新九郎は構えを解き、ぺこりと一礼をして立ち去った。


 そのまま、また武家町の方に足を向けてみたりもしたが、結局大した手がかりもないまま陽が傾いたため、仕方なく手近な宿に入って朝を待つことにし、眠った。

 妙な夢を見た。

 昼間の娘の夢である。その娘の纏う潮臭い香りが部屋に僅かに満ちたと思ったら、それが次の瞬間にはもう娘の姿になっていて、新九郎に覆い被さってきた。

 どきりとして身を縮めたが、娘の吐く生ぬるい息が耳のあたりをくすぐると得も言われぬ心地になり、脱力した。

「あんたも、板倉さまの意を受けて?」

 娘が囁く意味が分からず、首を起こそうとした。しかし、身体が思うようにならぬ。ここではじめて、新九郎はこれが夢ではないということに気付き、覚醒した。

「板倉さまも、人が悪い。わたし達にあの娘を捕らえるようお命じになっておきながら、あんたのような者も使うとは」

「なんのことだ──」

 辛うじて、それだけ言えた。

「しらばっくれたね。やっぱり、あんたもそうなんだ」

 全くの闇の中、娘の体重と声だけが存在する。なにか薬でも盛られているのか、全く身体の自由が利かない。

「あんたには悪いけど、あの娘は、わたしたちがいただく。いいこと。この後、まだあの娘のことを嗅ぎ回ってごらん──」

 そう言って唇を新九郎の耳に押し当て、

「──どうなるか、分かったもんじゃないよ」

 と囁き、ふわりと闇に滲むようにして消えた。

 そのまましばらく動くことができず、新九郎は薄っぺらい布団の中でどうにか起き上がろうともがいた。ようやく指先が動くようになってきた頃、頭も冷えてきて、ものを考えられるようになった。

 あの娘というのは、唯のことか。竜が唯を連れ去り、今の娘もまた唯を捜しているということは、今の娘は竜の一味ではない。

 板倉さま。誰なのか、見当もつかぬ。その板倉さまという者が唯を見つけるために、あの娘は雇われている。やはり、背に負っていたものは刀であり、あの漁師町にいた男どももまた、娘の一味なのであろう。


 しかし、なぜ唯が。そればかりは、分からない。

 板倉家とは、徳川幕府のなかでも名家として知られていて、徳川家康譜代の将として知られる板倉勝重いたくらかつしげが宗家初代であるとされる。勝重は領内の仕置きや裁判について大変な手腕を発揮したほか、家康の頭脳のような役割をも担い、大阪の陣の際には開戦の契機を創ったりもした。その後嫡流、傍流のうちの多くが各地の藩主になったり幕閣に入ったりするようになる非常に格の高い家筋である。もし板倉さまというのがそれらの板倉さまのうちのいずれかであったとしたら、唯はそのような名家の貴人に求められるだけの何かがあるということになる。

 いったい、板倉のような血筋の家が、博奕のに売り飛ばされてきたような、口もきけぬ娘に何の用があるのか。そこに、鍵があるということは疑いようがない。

 ふと思った。そもそも、三蔵は、なぜ唯を連れ歩いているのだろうか。売られてきて行き場のなかった唯への同情か。長らく暗い世界からも足を洗って生きていた三蔵が、老いてまた夜に足を踏み戻すだけの理由は、何なのだろう。

 唯を連れ出したとき、雇われていた有力なやくざ者と揉め事になり、そのために追っ手がかかっていることは新九郎も知っている。竜は、それに雇われて三蔵をつけ狙っているのだろう。

 あのような凄腕に命を狙われるというのは、どういう心境なのであろう。竜は、新九郎が見たところ、まだ三十を幾つか過ぎたくらいの歳でしかない。ふつうの侍ならばともかく、新九郎が向き合っても分かるほどに研ぎ澄まされた殺しの技を持つ彼に、もう五十をとうに超えているであろう三蔵が対峙して、はたして生き残れるのか。


 考えれば考えるほど、何もかもが分からない。

 竜。暗い仕事。それを押してでも、三蔵には唯を守らねばならぬ、あるいは守りたいと思う理由があるのか。

 とにかく、板倉さまという者のことを、三蔵に伝えなければ。

 自由にならぬ身体の内に巡る思考の中で、夜が明けてからのことをそう定めた。

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