助ける

「戻ったぜ」

 竜は、江戸で顔のきく口入れ屋の一軒のうちに、唯を預けていた。三蔵とは利八のところから出てすぐにそのまま別れた。怪我をしたという新九郎のところに行くと言っていた。

 数日ぶりの再会というわけであるが、べつに唯は珍しがりもせず、まるい瞳をただ向け、あとは竜がべっとりと血糊のついた衣をどこかで替えていることを訝しがる素振りを僅かに見せるだけだった。

「なあ、唯」

 できるだけ穏やかな声で、言った。

「お前、お母おっかさんに、会いたいか」

 問われて、唯は少し困ったような顔を見せた。会いたいかと問われても、死んでいない者に会えるわけがない。母の死がなにかひどい心の傷になっているらしく、困ったような顔のままぜえぜえと音を立てて息をし始めた。

「じゃあ、お父っつぁんは、どうだ」

 唯の息が、静かになった。しばらく考えて、分からぬといった具合に首を傾げた。

「お父っつぁんを、知らないんだな」

 こくり、と頷く唯の頭を優しく叩いてやり、立ち上がった。どこへ行くのか、というような顔を、唯が向ける。

「会わせてやるよ」

 のっそりとした鬼の背が、脳裏をよぎった。ぞっとするような殺しの技を持っている。いったい、どれだけの数の者を殺せば、あれほど研ぎ澄まされるのだろう。ふつう、刃物を持った者と素手の者が向かい合った場合、十中八九、刃物を持つ方が勝つ。武道のうちには武器を持たぬときに相手の刃物を制するような技を伝えるものもあるが、実践の場合なら、たいていはその技と鍛錬を発揮する前に斬られるか刺されるかして終わる。しかし、あの鬼は、素手で何十人もの人間を殺した。ときに刃物を用いたりもしたが、せいぜい肘から先くらいの長さの頼りないものであった。

 ぞっとするのは、竜の理性の部分ではない。もっと奥深い、たとえば獣でも持ち合わせているような部分においてである。そういう、生き物としての原始的な部分が、三蔵を目にしてひどい悲鳴を上げるのである。


 その鬼は、徳という女を探していたらしい。その手がかりを少しでも掴もうと、鬼であることをやめ、つまらぬ賭場のり番になった。若い衆に馬鹿にされ、侮られても、

「実際、爺だからな」

 などと言ってへらへら笑い、ひたすらその存在を秘匿し、徳の行く先のことを知ろうとひたすら潜み、十年以上を過ごした。

 では、それを捨て、また鬼として夜の中に舞い戻ったのは、なぜか。

 唯のためだ。唯が利八の賭場に連れて来られたとき、それまで軒先の老犬のように大人しかった三蔵が、いきなり鬼になった。乾分こぶんの一人を殺し、唯を連れ出し、追っ手も全て叩きのめし、江戸を目指した。

 この口の利けぬ少女のために、なぜそこまで。答えは、一つしかない。想像することしかできぬが、想像することができる。


「おじさんのことが、嫌いかね」

 竜にそう問われて、唯は首を横に振った。竜のどこをどうひいき目に見ても悪人であるが、唯にはそうは映っていないらしい。新九郎を打ちのめして自分を連れ去ったこの男は、さらにそれを奪ったあの水仙という女のもとに、自分を助けに来た。そのとき、彼は言った。

「どういうわけか、俺は、お前を助けなきゃいけねえようだ。だから、手伝ってくれ」

 と。何を手伝うのかは分からない。だが、今なお彼女の腰にある赤い小さな風車を与えてくれたこの男は、自分に手伝ってくれと言ったのだ。それは、鮮やかな驚きであった。

 今まで、人のいいようにしかされて来なかった。唯は今自分が幾つになるのか考えたこともないが、物心ついたときには母は既に骨と皮になって咳ばかりし、夜毎、

「あの男が来る」

 と怯えて過ごしていた。実際にその男が来たとき、母にどのような仕打ちを加えていたのか知らぬではないが、そのことについて何かを思うような生を歩んではこなかった。ただ、毎夜の怒声と、物言わぬようになり、ごみのように辻に運ばれてゆく母の姿が、昼間の行灯のように薄ぼんやりと浮かんでは消えるのみであった。どこかで、自分とは関わりのない世のことと思っていたのかもしれず、また、そう思うことしかできなかったのかもしれぬ。

 その後やられた家での筆舌に難い仕打ちは、そうはいかなかった。なぜ自分がそのような家にゆくことになったのかは唯の知るところではないが、その主人あるじは、

「お前は、売られてきたんだ。物の分際で、生意気な眼をしやがって」

 と叫び、あの男が母にそうしたように、毎夜唯を打擲ちょうちゃくした。唯自身も何をされているのか分からぬようなこともされ、それを思い出すだけでも吐き気がする。

 べつに、もとから口が利けなかったわけではない。ただ、唯が人として当たり前のその行為を行うには、唯の生は渇きすぎていた。言葉を発するというのは、己の意思を他者に伝えるということであり、それをする機会も権利も与えてこられなかった唯がそれをしなくなったのは、言ってしまえば当然のことであろう。

 だから、唯は驚いている。竜が、助けてほしいと自分に頼んできたということに。それが具体的に何をどうするのかは分からぬが、竜がそう頼むのなら、助けてやらねばならぬ、と思った。三蔵も、新九郎も、竜も、無条件に自分を助けてくれた。物も金も、言葉すらも何も持たぬ自分を、ただ助け、守ろうとしてくれた。だから、唯も同じようにしてやりたくなったのだ。

 ものに感じたり、なにかを思ったりすることすら、この冬まで無かった。だが、あの月の夜、賭場から得体の知れぬ三蔵に連れ出されて以来の日々は、唯のこれまでの生には全くない新鮮なものであった。


「そういや、あの新九郎って男のことだがな」

 竜は、毛脛をむき出しにして立てひざをし、懐から取り出した煙管をくわえた。

「なんでも、怪我をしたらしい。水仙の一党とやり合ったんだ、命があっただけ、儲けもんだろうな」

 唯の顔が、ゆっくりと開いた。死んだかもしれぬ、死んだだろうと思っていた新九郎の消息を聞くのは、はじめてのことである。

「お、なんだ。新九郎が生きていて、嬉しいか」

 嬉しい、というのがどういうことか分かるようで分からず、曖昧に笑った。そうすると竜はなぜか嬉しそうに歯を見せ、そいつはいい、と頭を撫でてきた。

「会いたいか、新九郎に」

 お父っつあんに、と言っていた対象が、新九郎に変わった。それには明確に頷いて返した。竜はまた少し表情を変え、

「三蔵の旦那には、どうだい」

 と訊いてきた。それにも、唯は頷いた。

「――そうかい。じゃあ、いよいよだな」

 いよいよというのが、何のことか分からぬが、新九郎や三蔵にまた会えるらしい。竜が、彼らのところにまで連れていってくれるということなのであろう。

 ぱっと立ち上がり、竜の袖を引いた。

「煙草くらい、吸わせろよ」

 竜は苦笑しながら煙管と煙草入れを懐に戻し、仕方なくというような具合に立ち上がった。

「だがな」

 その竜の声が、少し硬くなった。

「その前に、に、もう一度会わないといけねえ」

 水仙。

 唯を攫い、身体をいましめ、どこかにまた連れて行こうとした伊賀者。そこに戻るのだけは、御免だった。またあの色も音もない、苦痛すらもない生に戻るのだけは。

 思った途端、自分でもびっくりするくらいの声を上げて喚き散らし、全力で竜を振り払おうともがいていた。おそらく、竜が三蔵を生き物として恐れるように、唯が持つ生き物としての拒絶が姿を現したものだろう。

「おい、おい、落ち着け。なにも、あの女にお前をくれてやるとは言っていないだろうがよ」

 竜に抱きしめられ、耳元で同じことを何度も強く言われ、しばらくしてようやく息ができるようになった。

「お前を、あの女にくれてやったりなんて、するもんかよ」

 ほら、見ろ、と竜は唯の腰から風車を抜いた。

「お前には、こういうのがよく似合う。だから、俺は、お前を助けなきゃならねえ。だが、俺は、俺として生きてきた生があり、それはこの先も続いてゆく。だから、俺は俺以外の者になれやしねえんだ。俺が俺としてここにあり、お前もまた三蔵の旦那や新九郎のところに帰るために、必要なことなんだ。言ったろ、だから、俺を助けてくれ、と」

 力ずくで捻じ伏せ、言うことを聞かそうなどというつもりは、竜にはないらしい。それがまた、唯には新鮮であった。これまでの生においては、このようなとき、大人は必ず唯を平手か棒かなにかで打ち、自分の思うとおりになるようにしてきたものだ。竜の言うことはまったく分からぬが、唯の知る大人とは違う。

 その意味で、竜は三蔵や新九郎と、同じ種類の大人であった。

 落ち着いた。

 静かで、強い眼であった。その顔で、ゆっくりと頷いてやった。そうすれば、竜が安心すると思ったのだ。案の定、竜は、

「いい眼をするじゃねえか」

 と言い、笑った。

 二人は、ゆく。

 江戸の南の漁師町へ。

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