第3話 図書迷宮の噂

図書迷宮ビブリオラビリンス』。当然、メルもその名前は知っている。この図書館の最奥部の書庫がそう呼ばれている。そこは果てしなく書庫が連なっており、あまりに奥へ入り込んでしまうと迷って帰ってこれなくなるという噂だ。だが、所詮与太話に過ぎない。この図書館が、メルたち図書館司書でも把握しきれないほどの書物を収蔵しているために生まれた与太話だ。メルなど最奥部の書庫にも入ったことがあるが、果てしなく書庫が連なっているなどということはなく、ちゃんと書庫の終わりはあったし、迷うこともなかった。その旨を目の前のこの少年に伝えなければと思いながら、メルは彼の問いに答える。


「もちろん知っていますよ。ですが、そんなもの与太話でしかありません。私など、実際に最奥部の書庫へ入ったことがありますが、決して書庫が果てしなく続いていることもなければ、迷うこともなく、普通の書庫でした。図書迷宮なんてありません」


 だが少年は、メルの話を聞いても主張を頑として曲げなかった。


「いいや、ある。俺は信じてるね」


「では、実際に最奥部まで行かれてみてはどうですか?一応そのあたりが、噂話では図書迷宮と呼ばれていますから」


「もう行ったさ。確かにあの場所は図書迷宮じゃなかった」


「もうないってわかってるんじゃないですか」


 呆れてメルが言うと、少年は「そういう意味じゃない」と腕を組んでメルを見据えた。


「俺のじいちゃんが若い頃、ここに来た時に図書迷宮に迷い込んだんだ。じいちゃんの話によれば、図書迷宮は、どこまでも広がる広いきれいな空間で、宙に浮いたいくつもの階段があって、幾億冊もの本があり、幾億もの知識が詰め込まれていて、それらを守る竜がいたんだって。あんたが与太話だっていう図書迷宮の噂よりも、もっととんでもない場所を、じいちゃんはこの目で見たっていうんだ。あそこが、真の図書迷宮だったんだ。間違いないってじいちゃんはそう言ってる」


「お爺様が言っておられることは本当なのですか?」


 確証など、何もないではないですか。おじいさんは、ただ昨日のあなたのように図書館で眠っていて、そういう夢を見ただけなのではないですか。


メルはそう続けようとしたが、少年の瞳があまりに一生懸命なので、それ以上先を言わなかった。言えなかった。だが、メルの言いたいことは口に出した言葉で十分伝わったのか、少年は少し肩を落とした。


「そりゃあ確かに、実はじいちゃんが嘘を言っているのかもしれないと、俺だって思ってたさ。周りの家族や近所の人たちも、どうせ作り話だって言って、真面目に取り合ってなかったし。でも、そういう風に扱われると、じいちゃんはすごく悲しそうな目をするんだ。嘘をついている人間のする目じゃなかった。俺は、じいちゃんが大好きだからさ、嘘つき呼ばわりされるのは見るに堪えなかった」


そこで少年は「だからさ」と瞳を輝かせて、さらに言葉を続ける。


「じいちゃんの代わりに、俺が図書迷宮の存在を証明してやろうと思ったのさ。それに何より、そんな場所が本当にあったら、面白いだろう」


 さっきまで肩を落としていたというのに、いつの間にか少年は胸を張って、期待と希望に満ち溢れた目でメルを見ていた。メルは思わず目をそらしてしまう。好意的であれなんであれ、人に見つめられるのは少し苦手だった。


「なあ、あんた。あんたも一緒に探さないか?図書迷宮」


 いきなりそんなことを言われ、メルは「え?」と気の抜けた声を出した。今の会話の流れでどうしてそんなことになるのか。

メルがぽかんと恥ずかしさも忘れて少年の顔を見ていると、彼はくすぐったそうに笑って頰を指でかいた。


「いやあ、一人で探すよりか、この図書館を知り尽くしている図書司書さんの力を借りた方が、効率的かなと思ってさ。それに、図書迷宮を探していることを言った相手は、王都に来てあんたが初めてなんだ。なんか縁を感じる。年も近そうだし、うまくやれそうだ。なあ、どうだ?」


 再度少年に尋ねられたメルは、「お断りします」とぶっきらぼうに答えた。


「えええ。ダメ?」


「どうして今の話の流れでそうなるんですか。そもそも私は図書迷宮の存在なんて信じていませんし。どうせ一緒に探すのなら、存在を信じている人と一緒に探した方があなただっていいでしょう」


「まあ、それもそうか……」


 少年は納得したように大真面目に頷く。変わった少年だと思いながら、メルは「では、失礼します」と少年に頭を下げた。


「ああ、悪かったよ。仕事中に呼び止めちゃって……」


「いえ、かまいません」


 そう言ってメルは、台車を押して少年の元から立ち去った。だが、ちょっぴり心残りで、メルはすぐに少年のいる後方へ振り向いて言った。


「……図書迷宮。見つかるといいですね」


 思わぬメルの言葉に、少年は目を丸くする。だが、またすぐに笑顔になって、「ああ!」と手を振ってきた。


 メルは小さくお辞儀をしてから、少年に背を向けてまた台車を押して歩き出した。



 我ながら、なぜ最後に少年にあんな言葉を投げかけていたのかと、メルは台車を押しながら思案した。図書迷宮の存在など信じていないはずなのに。だがじきにメルは、自分が心のどこかで図書迷宮があったら面白いと思っているようであることに気がついた。そもそも、少年が祖父の見たという図書迷宮の様子を話してくれた時、おくびにも出さなかったが、実はメルはその光景を頭に思い浮かべてわくわくしてしまったのだ。どこまでも広がる美しい空間。宙に浮く不思議な階段。幾億もの本、幾億もの知識。そしてそれらを守るという竜。まるでお伽話の世界のようではないか。そんな場所が本当にあったらなんて素敵なんだろう。そんな気持ちが、あの時ふつふつとメルの心に芽生えたのだ。


 もしメルが小さな女の子だったなら、目を輝かせて自分も図書迷宮を探すと言ったかもしれない。だが、メルはもう分別のついた大人だった。そんなお伽話に出てくる夢のような場所があるわけがないのだ。無論、今が太古の昔、まだこの大陸に豊潤な魔力が溢れていた時代だというのなら話は別だが。


とにかくも、今の時代にいつまでもそんなものを信じていたら、周りの大人に笑われるだけである。だからいつしか、そういうものを信じるのをメルはやめたのだ。だから、あの少年が少し羨ましかったのかもしれない。自分と同じくらいの年でありながらも、あんなに目を輝かせて祖父が見たという図書迷宮の話を語って聞かせてくれた、あの少年が。

 

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