第26話 紡がれる記憶

「これで大丈夫。きっと、うまくいくはずだわ」


 優しい母を思わせるような女性の声が、メルの耳に響く。


「この場所では、身分も性別も人種も関係ない。みんなが学べて、みんなが知識を共有できる場所」


 図書迷宮のことを言っている、とメルは思った。


「あなたはそういう場所になるのよ」


 視界が開けて、メルの目の前に見知らぬ女性が現れた。年の頃は二十代後半から三〇代くらいだろうか。夜空色のローブをまとい、豊かな栗色の髪を一房、赤いリボンでまとめて背中に流してある。全体的に落ち着いた大人の雰囲気を醸し出していたが、瞳だけが、無邪気な子供のように煌めいているのがひどく印象的だった。

 メルは、そんな彼女のことを少し離れた位置から見ていた。彼女はメルの存在に気がついていないらしく、ちらりともこちらに視線をよこさない。


 彼女が話しかける先には、キラキラした星のようなものがいくつも浮かんでいる。その星々にそっと手を差し伸べると、女性は巣から落っこちた小鳥を空へ返すような仕草で、星々をつっと上に押しやった。その影響で、星々は女性の手から解き放たれ、流星のように四方に飛び散ってゆく。

 女性はそれを眩しそうに見送った。メルも同様にして、飛び散っていった星々の軌跡を目で追う。


 光の線を描いて飛んでいった星々は、均等に分かれて飛んで行き、やがて弧を描くようにして墜ちてゆく。そして星々が地平線に触れた途端、パッとまばゆい光が巻き起こった。かと思うと、星々の墜ちた地平線の彼方から光が波のように押し寄せ、メルと女性のいる何もない空間をきらめきで満たし始めた。


 光の波はやがてメルの足元にも押し寄せ、驚いたメルはたたらを踏む。同様に女性の方にも光の波が押し寄せていたが、彼女は浜辺で波打ち際に佇んでいるかのように微動だにしない。


 きっと危険なものではないのだろう。女性の落ち着き振りからそう判断して、メルも足元を流れてゆく光の波を気にしないことにした。だが、そうやって心を落ち着かせた途端、メルは仰天する出来事に陥る羽目になった。


 というのも、光の波がそれこそ本当の波のようにあちこちに波紋を広げたかと思った途端、いきなり地面から何かが隆起してきたのだ。それも何本も。

 メルは、自分の足元がぐらっと蠢いたのを感じ、拍子にコロンと尻餅をついてしまった。地面から隆起した何かのうち何本かが、ちょうどメルの足元からその鎌首をもたげたのだ。

 果たして、光の波しぶきをあげながらメルを持ち上げたそれは、巨大な緑の蔓の姿をしていた。蔓は本来なら長い時間をかけてゆっくりするであろう成長を早回しするようにして、どんどん上に伸びていった。もちろんメルを乗せたまま。


 メルは小さく悲鳴をあげて、必死で蔓にしがみついた。蔓は天に向かって下から突き上げるようにして上へ上へと伸びていく。凄まじい速度だ。


 最初、メルは恐ろしくて目を瞑っていたが、周囲が一体どんな状況になっているのか知りたくて、恐る恐る目を開いて状況を確かめた。


 すると、メルがしがみついている蔓のように、早回しで成長するたくさんの緑の蔓たちが視界いっぱいに広がった。皆ぐんぐん上へ伸び続けている。だが、よく見ると単に上へ伸びているだけではない。蔓と蔓が伸びる途中で複雑に絡まりあい、さらに巨大な蔓を形成する。蔓と蔓の間には木製の階段が無数に現れ、蔓から蔓へ行き来できるように道を作る。そして、上へ伸び続ける蔓にらせん状の道が据えられ、さらには絡まった蔓の間に本棚が出現し始めた。


 あまりの出来事に、メルは恐ろしさも忘れてぽかんと口を開けてその光景に目を見張っていた。だがめくるめく不可思議な冒険は終焉を迎えようとしていた。蔓の伸びる速度がぐんと落ち、やがて何かに絡みついて止まったのだ。


 ほっと一息ついてから、メルは蔓をよじ登り、蔓が絡みついた大きな何かの足元へ足を落ち着かせた。

 それから自身の頭上を見やる。


「これ……」


 メルの頭上には、樹齢いくばくかも知れぬ大樹がその巨大な梢を伸ばしていた。どこからかこの空間を照らす光が、大樹の緑のカーテンを通し木漏れ日となってメルの体に降りかかる。雄々しい大樹の姿を感慨深げにしばし仰ぎ見てから、メルは大樹から視線を外して背後に広がる景色の方を見やった。


「これ、図書迷宮だわ……」


 そう呟いたメルの視界いっぱいに広がるのは、紛うことなき図書迷宮の姿だった。大樹を支える何本もの巨大な蔓。蔓の間に横たわる階段、あちこちから顔を覗かせる本棚。もっとも、本棚にはまだ何の本も収められてはいなかったが。


 その時、誰かの足音が聞こえてきて、メルは音のする方へ顔を向けた。すると、大樹の大きく無骨な根を越えて、誰かがこちらやってくるのが見えた。先ほどの女性だ。

 相変わらず女性はメルに気づいていないようで、すぐ目の前にいるメルに見向きもしない。気がついていないというよりは、メルの姿が見えていないのかもしれない。

 メルは所在無げにしながらも、女性の動きを観察した。

 女性は図書迷宮の景色を見渡して、満足そうに微笑む。


「やっぱり、うまくいったわ。次は名前をつけなくちゃ」


 呟くと、女性は「そうね」と顎に手をあてがい思案する仕草をする。


「……良いのがパッと思い浮かばないわ。あまり洒落た名前にして逆に親しみがなくなっちゃったら嫌だし。そもそも私にネーミングセンスなんてないでしょうし、……ううむ、あまりこだわるのはよしとこう」


 何やら一人でブツブツ呟いた後、女性は「よし、決めた」と元気そうに宣言した。


「私の苗字をとって……エルヴェスタム・デ・エスタンテ!」


 すると、大樹が突然さわさわと嬉しげに梢を揺らした。

 メルはそれを不思議そうにちらと見てから、また女性を見始め、さっき彼女の放った言葉について思案し出した。

 女性は、自分の苗字をとってエルヴェスタム・デ・エスタンテと名付けた。つまり、彼女こそが図書迷宮——魔女の本棚エルヴェスタム・デ・エスタンテを作った張本人のシーグリッド・エルヴェスタムという推測が立つ。だが、これはメルの夢のはず……。


 その時、メルの視界が揺らめき出した。なんだろうと思う間もなく、目前の光景が女性——シーグリッドもろともに崩れ去る。かと思うと、再びメルの周囲を色が彩り始め、また違った光景を映し出した。といっても、場所は変わっていないようだ。図書迷宮のどこからしく、蔓の間の階段を多くの人々が行き交っている。行き交う人々の性別や年齢、服装も様々だ。続いてまた周囲の景色が移り変わる。また図書迷宮のどこかだ。今度はいかめしい服装に身を包んだ学者が、民衆に向かって何やら講義している。場所はどうも、シャーロットに案内されて入った蔓に空いたうろの中らしい。何の講義だろうとメルが興味深げに耳を傾け始めた頃、また景色が変わった。


 次々に移り変わってゆく景色を眺めながら、メルは次第にこれが図書迷宮の歩んできた歴史だということがわかってきた。シーグリッドの手によって生み出された図書迷宮ビブリオラビリンス——魔女の本棚エルヴェスタム・デ・エスタンテ、人々に受け入れられ、彼女が望んだ皆が学べる場所となり、学びの楽しさを人々に与え、華やいだ。だが、その華やぎは永遠には続かない。


 人々のさざめきで賑わいでいた図書迷宮は、次にメルの周囲で景色を変えた時、その雰囲気を一変させていた。人が、誰もいない。誰一人としていない。それは、メルが見てきた現在の図書迷宮そのものだった。人のいない図書迷宮はただただシンとしていて、美しいがどこか寂しげだ。棚に並ぶ本も、読み手を失い死んだように沈黙している。


「ここももう見納めですな」


 誰もいないかに見えた図書迷宮に、重々しい男の声が響いた。

 ハッとしてメルが振り返ると、学者風の白髪交じりの男と、こちらもまた学者風の出で立ちをした老爺がゆっくりした足取りで歩いてくるのが見えた。


「エルヴェスタム殿は素晴らしい場所を作ってくださった。だが残念だ。彼女の死後、ここを形成する魔力が暴走するとは」


 さっきメルが聞いたのと同じ声で、白髪交じりの男が言った。男の言葉に、老爺が「本当に残念じゃよ」と吐息をつく。


「暴走した図書迷宮は、際限なく知識を取り込む怪物に成り果ててしまった。こうなってしまっては、封印するしかない……」


 メルは二人の会話をもっと聞きたかったが、あいにくまた周囲の景色が揺らいで変わり始めた。

 封じられ、誰もいなくなった図書迷宮の中で、シーグリッドの手から放たれたのと同じような星々がキラキラと宙を漂っている。それらは次第に一定の形を形成し始める。天蓋のような翼。鋭いかぎ爪。伸びた鼻面。あれは竜だ。よく見慣れた、黒い竜。

 メルは思わず彼に声をかけようとしたが、また景色が変わった。


「エルヴェスタム。君は本当に良いやつだな」


どうしたわけか、燃え立つような色をした赤毛の少年が、楽しげに黒い竜——エルヴェスタム・デ・エスタンテに話しかけていた。


「急にどうしたのエディ?褒めたって何も出ないよ」


「あはは、別にそういうつもりで言ったんじゃないよ」


 エディと呼ばれた少年は、愉快そうに笑った。

 メルはじっとその少年のことを見つめた。目立つ赤毛にそばかすの浮いた頰。アーサーとよく似ているが少し違う。エディという名前からも、彼はきっと……。


「ごめんな。エルヴェスタム。そろそろ家に帰らなくちゃならないんだ。親父に言っておいた、王都での滞在期間もとっくに過ぎちまったし」


「エディ……」


 さっきまでと会話の流れが変わっていて、メルはまた景色が変わったのだと悟る。

 さっきまで楽しげに語らい合っていた一人と一匹は、どちらも寂しそうな表情を浮かべている。


「次王都に来ることがあったら、また来るよ」


「うん……。待ってるよ、エディ」


「ああ。約束だ」


「うん、約束……だね」


 最後にちょっぴり笑って、赤毛の少年はエルヴェスタム・デ・エスタンテを残して、どこかへ歩き去って行った。

 残されたエルヴェスタム・デ・エスタンテは、悲しげにうつむいた。だが、すぐに顔を上げて、エディの去っていった方向を見やる。その背中からは、友との別れを悲しんではいたが、来る再会の喜びを見据えて少し元気になった彼の心情を推し量ることができた。

 メルは彼らの別れを少し離れたところで見ながら、ぽつりと呟いた。


「でも、約束は果たされなかった」

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