第25話 メルと竜

 大樹の枝に腰掛けて、メルは本を読んでいた。

 美しい装丁の施された本は、古い友のようにメルの手に馴染み、羊皮紙の上に書かれた文字は、メルを物語の世界に連れて行ってくれる。

 想像の翼を働かせながらメルが本に読みふけっていると、不意に翼が空を切る音が聞こえてきた。やがて、ブワリと風が吹き寄せてきて、メルの頭上に暗い影が差す。

 風で乱れた髪を手で押さえながらメルが頭上を見上げると、黒い竜がキラキラした深緑の瞳でメルを見つめていた。


「それは何の本?」


 無邪気な少年のような声で竜に尋ねられたメルは、本を閉じて表紙に書かれた題名が竜に見えるように、頭上へ高く掲げた。


「ここからずっと遠くにある国に伝わるという、昔話や伝説をまとめた本よ。国の名前はモモヨって言うみたい。何だか不思議な響きね。モモヨって」


「それなら、僕も読んだことがあるよ」


 竜——エルヴェスタム・デ・エスタンテは嬉しそうに言った。感情表現なのか、犬のように尾をブンブンと振っている。


「魔法の剣とかが出てくるやつだよね。あと竜とか」


「たぶん私がちょうど今読んでいるところね」


 読んでいた部分にはしおりを挟んでいたので、メルはさっきまで読んでいたページを開けた。


「面白い?」


「ええ。とても」


 メルは愛おしむように、インクで書かれた文字が並ぶ紙の上を撫でた。


「お話を読んでいたら分かるわ」


「何がわかるんだい?」


「この話の伝わる国のことよ。私たちとは全く異なる文化や価値観が、この国にはあって、面白いわ。本当に異国を見ているみたい」


「異国を見ているみたい……か。僕はあんまりそういう風にして本を読んだことがないや。今度そうしてみよう」


 その時、メルのお腹がぐるぐると鳴り響いた。エルヴェスタム・デ・エスタンテがそれを聞いて可笑しそうに笑った。


「あはは、メルはお腹が空いているんだね。ご飯にしようか」


「ええ」


 エルヴェスタム・デ・エスタンテは、背中を低くしてメルのそばへ伏せた。それから目で背中へ乗るように合図する。

 メルは読んでいた本を小脇に抱えると、エルヴェスタム・デ・エスタンテの黒いなめらかな鱗に手をかけてよじ登った。そうして背中まで登って、腰を下ろす。


「メル、今日は何が食べたい?」


 エルヴェスタム・デ・エスタンテに尋ねられ、メルは「そうね」と思案した。それから、「蜂蜜を塗ったトーストが食べたいわ」と答えた。


「蜂蜜を塗ったトーストね。僕もそれが食べたいや」


 そう言うと、エルヴェスタム・デ・エスタンテは背中に生えた黒い大きな翼を羽ばたかせ、大樹から飛び立った。


 エルヴェスタム・デ・エスタンテの背中に乗って空を飛んでいると、図書迷宮をまた違った角度で見ることができる。相変わらず美しい景色に変わりはないが、大樹を支える無数の蔓の間を器用に抜けて行く竜の背中に乗っていると、目まぐるしく景色が変わっていって楽しいのだ。そして、正面から吹きつけてくる風が心地よい。


 メルは風を感じようと目を閉じた。メルの長い銀髪は天の川のように後ろへたなびき、露わになった彼女の額や頬を風が優しく撫でていく。鳥になったような気分だ。


 やがて、エルヴェスタム・デ・エスタンテは蔓からバルコニーのように張り出した場所へ降り立った。天蓋のように広がっていた翼を折りたたみ、メルが降りられるように体を伏せる。


 メルは本を落っことさないように気をつけながら降りると、すぐ近くにある木の下へ歩いていった。木は地面に埋め込まれた一冊の本に根を生やして立っている。


 この木のように、本を養分にして生えている木は図書迷宮にはたくさんある。最初にアーサーとシャーロットと一緒に見た木には、甘そうな果実が実っていた。だが、この木には何も実ってはいない。ただ若々しい緑の葉を茂らせているだけだ。だが心配する必要はない。


 メルは木が生えている本に手を伸ばすと、根の間から覗く紙の部分に指先で触れた。


「蜂蜜を塗ったトーストを二つ」

 と、一言そう告げる。


 メルは木から離れると、その時を待つ。するとすぐに、木がギシギシと揺れ始めた。同時に根元の本が淡い光を放ち始める。やがて、ポン、と軽快な音が響いたかと思うと、さっきまで何もなかった木の枝に、蜂蜜がたっぷり塗られたトーストが二つ、果実のようになった。


 背伸びしてそれを取り、メルは片方をエルヴェスタム・デ・エスタンテに差し出す。


 エルヴェスタム・デ・エスタンテはあーんと口を開けて、トーストを美味しそうにむしゃむしゃと頬張った。メルも、蜂蜜が垂れてこないように気をつけながらトーストへかぶりついた。甘い蜂蜜の香りが鼻腔をくすぐり、口の中に甘い蜜の味が広がる。ゆっくり舌で味わいながら一口目を食べ終えたメルは、何度体験しても不思議なものだと思った。


 初めてエルヴェスタム・デ・エスタンテに果実の実っていない木から食べ物を出す光景を見せてもらった時は、心底驚いた。遊び心のあるシーグリッドが編み出した魔法だとエルヴェスタム・デ・エスタンテは言っていたが、すごすぎて声も出なかった。エルヴェスタム・デ・エスタンテのもっと詳しい解説によれば、木が生えている本は料理に関することが書かれた魔法の書らしい。つまりはレシピ本だ。それを媒介にして生えた木には、料理を生み出す力が宿るらしい。だがそれを現実の世界でやっても成り立たないらしく、図書迷宮という人工的に魔法で作られた空間だからこそできる芸当だという。


 それでも普段魔法とは縁遠い暮らしをしているメルからすれば、説明を受けても全くもってその仕組みに対する理解が及ばなかった。だが仕組みがイマイチ理解できなくても、この夢のような木に魅力を感じないわけがない。


 トーストを食べ終えたメルは木の幹に背を預けると、満足げにふうと息を吐いた。エルヴェスタム・デ・エスタンテもその隣で猫のように丸まる。


「おいしいね。蜂蜜トースト。僕なんかよりも、メルはずっといろんな料理を知っているなあ」


「また今度、あなたの気に入りそうな料理で何かいいのがあったか、考えておくわ」


「うん、頼むよメル」


 そう言ったエルヴェスタム・デ・エスタンテは、しばらくするとクウクウと、子供のような寝息を立て始めた。お腹が膨れて眠くなったのだろう。


 メルはその寝顔を見つめた。一見すると恐ろしい竜の顔は、無警戒に目を閉じて猫のように丸くなって眠っているせいか、どこか可愛らしい。


 メルはそっと近づいていって、エルヴェスタム・デ・エスタンテの大きな鼻面を撫でてやる。そして、エルヴェスタム・デ・エスタンテの体に自分の背中を預けた。


 みんなを帰すためにここに残ると決めてから、どれほど時間が経ったのかメルには把握し切れていなかった。何せ、ここには夜というものが存在しないのだ。いつも春のような光に包まれていて、時間の経過を確認するすべがない。だが、エルヴェスタム・デ・エスタンテとは最初より随分と仲良くなったのは確かだ。彼は好奇心旺盛で探究心に溢れている。メルの話を楽しそうに聞くし、普段人と話すのが苦手なメルでもとても話しやすい。それに、エルヴェスタム・デ・エスタンテから教えてもらう図書迷宮や魔法の話、その他様々な知識や物語は面白かった。だが、ここを作った魔女シーグリッド・エルヴェスタムに関する話を、彼はほとんどしてこなかった。彼女の死を、思い出してしまうからだろうか。


 そうこう考えているうちに、メルも眠たくなってきた。エルヴェスタム・デ・エスタンテの規則正しい呼吸でゆっくり動く彼の体に心地よさを覚えながら、メルは眠りに落ちてゆく。


 そうやって眠りに落ちたかと思うと、メルはすぐに夢を見始めた。不思議な夢だった。

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