第24話 生贄

「……俺だけ帰るわけにはいかない」


 エルヴェスタム・デ・エスタンテの反応を気にしたのか、アーサーはもう自身の祖父の名を口にしなかった。ただ、これだけは譲れないと言わんばかりに傲然と告げる。


「俺を帰らせるために扉を開くなら、ここへ呼び込んだ人たちを全員俺と一緒に帰らせろ。でないと俺は帰らないぞ。絶対に」


「強情な奴だな」


 エルヴェスタム・デ・エスタンテは呆れたように言った。


「どうしてもか?」


「どうしてもだ。みんなを残して、一人だけここを出るなんて俺にはできない。そもそも、図書迷宮の封印が解けたのは俺のせいだ。元凶の俺だけがのうのうと無事に帰るなんて、俺自身が許さない」


「ならばこうしよう」


 何を思いついたのか、エルヴェスタム・デ・エスタンテが目を爛々とさせながら言った。


「最低ひとり、僕の友達としてここに残ってもらう。そうしたら、それ以外の人たちは返してやってもいい。もう何十人も呼び込んでいるけど、みんな怯えて全然僕と話してくれそうもないし、だったら僕の話し相手になってくれる人が、一人か二人残ってくれればそれでいい」


「な……」


 アーサーが絶句した。だがそれも一瞬のことで、「だったら」と声をあげた。


「俺が残る。俺があんたの話し相手になってやる。これは、図書迷宮の封印を知らず知らずのうちとは言え解いちまった俺の役割だ」


「君はダメだ。さっき言っただろう。あいつの孫の顔なんて見たくもないって。あいつを思い出してしまう。残るなら君以外だ」


「俺以外……」


 アーサーは俯いた。だらりと下がった拳がぎゅっと握りしめられ、自分では何もできないことを悔しがっているようだった。

 メルは、アーサーから視線を外してエルヴェスタム・デ・エスタンテの方を見た。

 それから、ここへ呼び込まれ、わけもわからず怯える人々や親に会いたいと泣く子供たちの姿を思い浮かべる。皆帰るべき場所がある。待つ人々がいる。帰してやらなければならない。もちろんシャーロットもだ。そして、アーサーも。


「君が、残るかい?」


 メルの視線に気がついたのか、エルヴェスタム・デ・エスタンテが不意にこちらを見てそう言った。


「え?」


「いや、無理にそうしろとは言ってないよ。誰も残らないというのなら、皆でここにずっと残るだけだしね」


 そう言うと、エルヴェスタム・デ・エスタンテは閉じていた翼をバサリと広げた。黒い翼が、メルたちの頭上に天幕のように覆いかぶさる。


「今すぐにここで決めろとは言わないよ。それに、無理して決めなくてもいいし。もしも答えが用意できたら、どこからでもいいから僕の名前を呼んで。そしたらすぐに飛んでいくから」


「あ、ちょっと……」


 待って、と続きを言ったメルの声は、エルヴェスタム・デ・エスタンテが力強く大樹から飛び立つ音にかき消された。翼で巻き起こされた風が、大樹の枝々を揺らし、メルの銀の髪をもみくちゃにする。風が収まった頃には、もうあの黒い竜の姿はどこにもなかった。



 メルたちは一旦大樹から下り、迷い込んできた人々のいるあの場所へ戻った。そして、他のうろの中にいた人々も呼んで、皆に大樹で何があったのかを伝えた。最後の部分、誰か一人がエルヴェスタム・デ・エスタンテの話相手としてここに残るのなら、それ以外のすべてを解放するという話まで来ると、人々はどよめいた。


「言い換えれば生贄みたいなもんか……」


 どよめきの中で、あの壮年の男が苦々しげに呻くのがメルの耳に届いた。


『生贄』

 確かにそう言い換えることもできるだろう。一人をエルヴェスタム・デ・エスタンテに差し出せば、残りの人々は元の場所へ帰ることができるのだから。そして反対に、誰も差し出さなければ、全員がここへ閉じ込められることになる。一人を犠牲にしてここを出るか。皆でここに残るか。


 アーサーが、「念のために聞いておく」と群衆へ声を投げかけた。皆が一様に口をつぐみ、アーサーへ注目する。


「みんなのために、進んでここに残る者はいるか」


 当然、誰も名乗り出る者はいなかった。当たり前だ。誰もが家に帰りたいのだ。誰が進んでここに残ると言うだろう。だが、それは皆でここに残ることを選択することでもある。名乗り出るにしろ出ないにしろ、結局は同じことだ。ただ名乗り出た場合、どれほどの苦しみを味わうのだろうか。自分一人だけは取り残され、それと引き換えに皆は帰っていくのだ。自分のいるべき場所に。自分だけ、ここに残され、エルヴェスタム・デ・エスタンテと共にいることになる。彼の気が変わらない限りは。


「アーサー」


 メルは呼びかけた。

 一人声を発したメルに、黙していた人々も注目した。


「私が、ここに残ります」


 メルの言葉に、アーサーの目がひときわ大きく見開かれる。続いてシャーロットの「メル!」と叫ぶ声が大きく響いた。


「何を、言ってるの……?」


「私が、ここに残ってエルヴェスタム・デ・エスタンテの話相手になります」


 一呼吸置いて、人々がまたざわつき始めた。皆、メルを気の毒そうにチラチラ見やりながらも、帰れるかもしれないという希望は隠せていない。そんな彼らの中で暗い表情を見せているのは、アーサーとシャーロットだけだった。


「メル、それはダメだ」


 アーサーがメルの目をまっすぐに見つめて言った。


「一緒に帰るんだ」


「それでは、私以外の人に頼むつもりですか?」


「そんなことはしない。……やっぱり、誰かを犠牲にしてここから出るのは間違ってると思うんだ。もう一度エルヴェスタム・デ・エスタンテに会って、説得しよう。皆を解放してくれと」


「彼の目を見ましたか?」


「目?」


 アーサーが訝しげに眉をひそめる。メルは続けた。


「暗い光を湛えていました。悲しそうな目でした。きっと、今の彼に何を言っても無駄です。それどころか、ますます意固地になって、この件をなかったことにしてしまうかもしれません。それならば、私がここに残ります」


「どういうことかわかってるのか。帰れないんだぞ、自分だけが」


「いいえ。帰れます」


「そうだ、帰れない。……って、え?今なんて」


 アーサーは目をパシパシさせてメルに聞き返した。メルは力強く答えた。


「帰れます。いいえ、帰ります。どれだけ時間がかかるかわからないけれど、どうにかして彼を説得します。」


「無茶だ」


 アーサーはうわ言のように言ったが、メルは聞かなかった。くるりとアーサーに背を向けて、メルは空を見上げた。


「ちょ、ちょっとメル。嘘だって言って」


 シャーロットが今にも泣き出しそうな声を上げながら、メルの腕にしがみついてきた。


「嘘じゃないわ」


「じゃあ、私もここに残る。メルと一緒にここに残るわ」


「シャーロット、あなたは帰って。お父さんやお母さんが心配してる」


「そんなの、メルだって一緒じゃない。おばあちゃんがいるでしょう」


 メルは少し困ったような顔をシャーロットへ向けた。


「おばあちゃんなら、わかってくれると思うの」


「え?」


「一人ぼっちで悲しんでいる子がいたら、手を差し伸べてあげなさいって、おばあちゃんからそう教えられた。お母さんとお父さんを亡くして、一人ぼっちだった私の孤独を癒してくれたのはおばあちゃんだった。私には、一人で寂しいという彼の気持ちが、ちょっとだけわかるの。放っておけないの」


「だからってーー」


 何かを言いかけたシャーロットの言葉を遮るようにして、メルは空に向かってできる限り大声で叫んだ。


「エルヴェスタム・デ・エスタンテ。出てきてください。私がここに残ります」

 

 突如、黒い大きな竜が、どこからともなく真っ黒な翼をはためかせてメルたちの前に飛来してきた。

 竜を間近で見た人々が悲鳴を上げて逃げ惑う。何人かは逃げることもせずに、呆然と竜を見上げる。

 竜——エルヴェスタム・デ・エスタンテは、メルたちの前にあった宙に浮いている階段へ降り立った。巨大な竜が上に乗ったというのに、階段はビクともしない。


「聞こえたよ。君がここに残るんだね」


 エルヴェスタム・デ・エスタンテの確認の問いに、メルは頷く。


「本当に良いのかい?」


「自分で決めたことです。けれど、みんなを解放する前に私のお願いを一つ聞いてください」


「なんだい」


「あなたが王立図書館の本から取り込んだ知識も、元の場所へすべて返してください。そして、もう二度とこんなことはしないで」


「……わかった。そうしよう」


「ありがとうございます」


「じゃあ、扉を開くよ」


 エルヴェスタム・デ・エスタンテは、メルを見下ろしながら告げた。

 アーサーが「メル」と叫ぶ。


「ダメだ。よせ。メルが犠牲になることはない」


 がっしりと、力強くアーサーに腕を掴まれる。メルは振り返った。


「アーサー」


 その時、メルの耳にギイィィィと扉が軋みながら開く音が聞こえてきた。皆が何の音だとどよめき始める。そして次の瞬間、辺りが白い光に包まれた。図書迷宮に呼び込まれた時と全く同じだ。白い光で何も見えなくる。


「メル、ダメだ。ダメだっ。今からでもいいからとり消すんだ。自分は残らないって」


 姿は見えないが、アーサーが悲痛に叫ぶ声がメルの耳に届いてきた。アーサーはまだメルの腕を掴んで離さない。しかし、光が収縮すると同時に、アーサーの手の感触も消え失せる。

 光が消え、辺りを見渡すと、さっきまで大勢いた人々の姿はどこにもなかった。もちろん、アーサーとシャーロットの姿も。


「さあ、これで残ったのは君だけになった」


 無言で周囲を見つめるメルに、エルヴェスタム・デ・エスタンテはそっと告げた。

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