第27話 私の番

 図書迷宮の歴史を、記憶の断片を彷徨っていたメルは、不意に現実に引き戻された。どうも眠ってしまっていたらしい。背中は相変わらずエルヴェスタム・デ・エスタンテの硬い鱗で覆われた体に預けてあった。そっと彼から背中を離し、メルがエルヴェスタム・デ・エスタンテの顔を覗き込むと、彼の閉じていた目が唐突に開いた。相変わらず宝石のような輝きを放つ美しい瞳だ。


「メル……」


 エルヴェスタム・デ・エスタンテは、まだ少し眠いのかゆったりと首をもたげる。


「君、僕の記憶を覗いたね……」


「え?」


 不意にそんなことを言われ、メルは首を傾げた。だが、すぐに彼がさっきまでメルの見ていた夢のことを言っているのだろうと合点がいく。


「ひょっとして、私の見ていた夢のこと……?」


「夢……?ああ、そうだね。それだ」


「私はどうしてあなたの記憶を?」


 メルが尋ねると、エルヴェスタム・デ・エスタンテは目を瞬かせた。


「きっと、くっついて眠ったから僕の魔力が君に干渉しやすくなっていたんだろう。それに影響されて、君は夢という形で僕の記憶を見たんだと思う」


「あなたは……見たの?」


「いいや。僕はそもそも夢を見ない。でも、君が夢の中で僕の記憶と接しているのはわかったよ」


「ごめんなさい。勝手に見ちゃって」


 メルが謝ると、エルヴェスタム・デ・エスタンテはびっくりして目をまん丸に開いた。


「どうして謝るのさ。僕は別に怒ってはいないよ」


「……そうなの?」


 てっきり機嫌を損ねてしまったのではないかと思っていたメルが尋ね返す。


「怒るわけないだろう。別に君は意図して見たわけじゃないんだから」


「それはそうだけれど……」


 しばし、一人と一匹の間に沈黙が降りた。

 怒ってはいないと彼は言ったが、誰だって自分の記憶を他人にのぞかれるのにいい気分はしないだろう。メルに色々と知られたことが気まずいのか、エルヴェスタム・デ・エスタンテはどこか落ち着かない。

 メルもなんとしたものかと困った。唐突に話題を変えるのもわざとらしい。かといって、メルの見たエルヴェスタム・デ・エスタンテの記憶についてこれ以上話すのは気がひける。


「……ねえ、メル」


 だが、メルがこれ以上次の話題に悩む必要はなかった。迷っていたメルに、落ち着かなげにしていたエルヴェスタム・デ・エスタンテの方から声をかけてきたからだ。


「なに?」


「君は……その……見たかい?エディの事を」


 エディ、その名前に、メルは夢で見たアーサーによく似た少年の事を思い出す。

 メルはエルヴェスタム・デ・エスタンテの目をまっすぐに見据えて、無言で頷いた。メルの言葉のない返答に、エルヴェスタム・デ・エスタンテは「そうか」と吐息のような言葉を吐いた。それから彼は、メルから目をそらしどこか遠くの方を見やった。メルは、すぐにそれがエディの去っていった方向を眺めていることに気がついた。どうしようかと戸惑いながらも、メルはおずおずと声をかける。


「ずっと、待っていたの?彼のことを」


「……うん」


 エルヴェスタム・デ・エスタンテは静かに頷く。もう、アーサーが自分の祖父の名前・エディの名を口にした時のように怒ったりはしなかった。


「ずっとずっと、待っていたんだ。何年も、何十年も。でも彼は来ない。また来るって、僕と約束をしたのに……。彼は僕のことを、もう忘れてしまったんじゃないだろうか。だから来ないんじゃないだろうか」


 滔々と語るエルヴェスタム・デ・エスタンテの横顔を見ながら、メルは「彼は、来ないんじゃなくて、来ることができなかったんじゃないかしら」と自分の考えを述べた。


「来ることが……できなかった?」


「ええ。図書迷宮は、あなたは、長いあいだ封じられてきた。でも、今から六十年前に一度封印が解けてしまったことがあるらしいの。きっとその時にここへ迷い込んだのが、エディだった。彼があなたと別れてここを出た後、あなたは再び封じられた。だからきっと、あなたに会いたくても会いにここへ来ることができなかったのよ」


 メルの言葉に、エルヴェスタム・デ・エスタンテはしばし考え込んだ様子だった。だが、最終的には首を横に振った。


「会いたいのなら、封印を解けばいいじゃないか」


「きっとそうできない理由があったのよ」


「それでも……」


 何か言いかけたが、エルヴェスタム・デ・エスタンテは途中で口を噤んでしまった。心なしか、彼の緑の宝石のような瞳に涙が浮かんだような気がした。

メルは思い切って提案してみる。


「……ねえ、エルヴェスタム。向こうが来てくれないのなら、こちらから会いに行ったらどう?」


「え?」


「あなたから、会いに行くの」


「……何で。僕はエディに裏切られた気持ちなのに」


「言葉を交わしてみないと、本当に裏切られたのかどうかはわからないわ」


「……」


 エルヴェスタム・デ・エスタンテは、物憂げに瞳を揺らした。彼が今何を考えているのか、メルには推し量ることはできない。

 メルはエルヴェスタム・デ・エスタンテから目を離して、どこまでも広がる青い空を見上げて言った。


「あなたは、ここにいるべきではないと思う」


「え?」


 驚いた様子で、エルヴェスタム・デ・エスタンテはメルの横顔を視線でなぞった。


「あなたは、シーグリッドさんの願いの通り、すべての人にその門戸を開く、偉大な叡智の場所であり続けた。けれど、シーグリッドさんの亡くなった後、あなたは暴走してしまって、それが原因で封印された。そして誰もここへ訪れなくなった。そうしてあなたは、ここでずっと孤独に耐えてきた」


 メルは言葉を切って、一呼吸した。そしてまた続ける。


「私もね、一人でとても寂しい時があったの。父と母を亡くした時よ」


 当時のことを思い出そうと、メルは目を閉じる。温かい父母の声は、今でもはっきりと覚えていた。

 

 龍は、スンスンと鼻を鳴らして、大きな頭をメルの体へ優しくすり寄せた。彼女の言葉へ、じっと耳を傾けている。


「元々引っ込み思案で、人と接するのが苦手な私には、友達と呼べる子は誰もいなくて、家の中が全てだったの。父と母が、私の唯一と言っていい気の置けない話相手だった。そんな二人が亡くなって、私はますます一人で閉じこもるようになってしまった」


 当時の自分が、どんな思いを抱いていたのか、メルは一つ一つ思い出して、言葉にしていく。


「それからね、結局、引き取り手が名乗り出なかったから、しばらく孤児院に預けられたけれど、私はそこでも自分の部屋から出ようともしなかった。そんな私に手を差し伸べてくれたのが、祖母だったの」


 今よりも少し若い姿の祖母が、脳裏に現れた。彼女は、メルの小さな世界を、あの日に広げてくれたのだ。


「祖母は私くらいの歳の頃から、語り部として各地を渡り歩いていたの。旅芸人みたいものね。だから、自分の娘夫婦が亡くなったことを知るのに時間がかかった。後になって、残された私の居場所を探してくれたみたいで、ある日私のいる孤児院に訪ねてきたの。今でも覚えてる」


 目を開けて、メルはまた空を見上げた。


「雨の日だったわ。どんよりした雲が空にかかっていて、鬱々とした私の心にすごく似てた。そんな日に私を迎えに来た祖母は、とても優しい目をして私に手を差し伸べてくれた。『ここにいちゃいけない、一緒に帰ろう』って。そうして、私を引き取った祖母は語り部を引退して、王都に家を借りたの」


 エルヴェスタム・デ・エスタンテは、この身の上話に退屈していないだろうかと、メルは話しながら少し不安に感じたが、彼は物語を聞いているかのように、じっと静かに、優しい眼差しをしてメルを見つめている。


 そのことに安堵して、メルは続けた。

 彼に、分かって欲しいから、伝えたいから、それには語らなければ。


「父と母を亡くして、引っ込み思案に余計拍車がかかっていた私は、その家に越してからも、やっぱり自分の部屋に閉じこもってばかりだった。そんな私を、ある日祖母は半ば強引に外へ連れ出したの。初めて歩く王都はすごい人だかりで、見たこともない大きな建物もたくさん並んでいて驚いた。その時に王立図書館へも連れて行ってもらった。私は本が大好きだったから、そりゃあもう嬉しかったわ。ここにはまだ、自分が触れたこともない本がたくさんたくさん眠っているんだわって、心がウキウキ弾んだものよ。おかげで私は毎日図書館へ通うようになった。私は学校に行っていなくて、代わりに祖母が勉強を教えてくれていたんだけれど、図書館が私にとっては学校のようなものだったわね。ある図書司書さんの話を聞くのがとても面白っかたし、しかも、たった一人だけど友達だってできた。それがシャーロットよ。あなたも会ったでしょう。金髪の巻き毛の、青い目をした女の子。シャーロットは私と違って活発でおしゃべりでね、今度は祖母の代わりに、彼女が私を色んなところへ連れ出してくれた。お城前の広場とか、出店がたくさん並ぶ市場とか、一度サーカス小屋を見に行ったこともあったわね。閉じこもったままだった私には全てが新鮮で瑞々しかった。世界はこんなに美しくて楽しいものなんだって、祖母とシャーロットが私に教えてくれたの。今思えば、祖母が孤児院の私の部屋に迎えに来た時に言った『ここにいちゃいけない、一緒に帰ろう』の『ここ』は、孤児院を示すものではなくて、私の閉じ籠る場所——小さな狭い世界そのもののことを言っていた気がする。そんなところに息を潜めてないで、外へ出てごらん、楽しいよって、祖母は言いたかったのかも。——だからね」


 メルは目を開いた。メルの蒼い瞳が、竜の深緑の瞳を映す。


「今度は私が連れ出す番。あなたを」

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