第28話 帰還
「僕を……?」
エルヴェスタム・デ・エスタンテは、目をパチクリさせた。
「そう。ここから、あなたを連れ出す。封印の解かれている今が機会よ」
「でも、僕がここから出たらこの空間がどうなるかわからない」
エルヴェスタム・デ・エスタンテは怯えたように首をすくめる。
「僕はここを形成している魔力そのものだ。僕が出たら、ここは崩壊するかもしれない。それはできない。シーグリッドに言われたんだ。『身分も性別も人種も関係ない。みんなが学べて、みんなが知識を共有できる場所。あなたはそういう場所になるのよ』って。そういう場所になるために僕は生まれた。その『場所』を、壊すわけにはいかないよ」
「『場所』は、目に見えるものでなければならない?」
「……?」
メルはエルヴェスタム・デ・エスタンテの大きな広い額にそっと手を置いた。黒い鱗に覆われた体からは、確かに彼の体温がメルの手を通して伝わってくる。
「私ね、ここに一人で残ってから、あなたとたくさん話すうちに思ったの。あなたの頭の中には、ここにある書物の知識が全部詰まってる。だからあなたはとても物知りで、知らないことを尋ねたら何でも教えてくれる。何か面白い物語を聞かせてってせがんだら、面白い物語を語って聞かせてくれる。そこに本棚がなくても、書物がなくても、あなたの声が私にいろんなことを教えてくれた。あなたと知識を共有できた。まるであなたのいる場所が、図書迷宮みたい」
「僕の、いる場所……」
「シーグリッドさんがあなたに言った言葉は私も夢で聞いた。——『身分も性別も人種も関係ない。みんなが学べて、みんなが知識を共有できる場所。あなたはそういう場所になるのよ』。——お願い。そういう場所に、そういう存在にもう一度なって。あなたの持つ知識を、物語を、みんなへ届けて。そしてあなたには、友達をいっぱい作って欲しい。何百年もの孤独なんて吹き飛ばすくらい、思い切り笑って、外の世界を見て欲しい。……ダメ、かしら?」
竜の額から手を離して、メルは彼を見つめた。
心の赴くまま、自分の考えを随分と大仰な言葉で述べたものだと、今になってメルは恥ずかしくなってきた。だが後悔はない。今まで口に出したことはすべて本心だ。彼は長い間孤独だった。封印が解かれても、その孤独を癒すために多くの人をここへ取り込んだ。それでもちっとも彼の心は満たされているようには見えなかった。メルと話をしている時でさえも。彼に知って欲しいのだ。かつてのメルのように。外の世界はとても美しくて、楽しいものだと。もちろん楽しさばかりではないけれど、苦しさや悲しみだって同じくらいあるけれど、それでも、彼に知って欲しい、見て欲しい。そしてあわよくば、彼の持つたくさんの知識を、メルにしたようにいろんな人に教えてあげて欲しいと。
「メル」
エルヴェスタム・デ・エスタンテは、メルの名を呼んだ。
「ダメ……じゃないよ」
メルは目を見開き、息を呑んで彼の言葉を聞いた。
「不思議だな。メルの言葉は魔法みたいだ。今まで考えたこともなかったし、外へ出ることがとても怖いのに……なのに、どうして僕をこんな気持ちにさせるんだろう」
エルヴェスタム・デ・エスタンテは立ち上がると、背中の両翼を広げた。翼は弧を描くようにして、メルの体を優しく包み込む。
「メル、僕はもう閉じこもるのはやめる。今のままじゃ、シーグリッドに言われたような場所にもう一度なることはとても無理だってことは、薄々わかってた。それに、エディの事。彼の事情もよく知らないで、裏切りだと決めるけるのは……よくない事だよね。……でもやっぱり色々怖いから、メル」
背を猫のようにかがめ、エルヴェスタム・デ・エスタンテはメルと同じ視線の高さになる。
「君も、ついてきてくれるよね」
メルの顔を覗き込んだ二つの大きな深緑の瞳には、もう、暗い翳りのようものは見えない。宝石のようにキラキラと瞬いて、でも、ちょっぴり自分が今からする事に恐れを感じているような、素直な子供のような目だ。
その目を見つめながら、メルはとそっと頷いた。
「もちろんよ。お供するわ」
*
「メル……」
リヴレ王国王立図書館の書庫の奥で、アーサーは膝を冷たい大理石の上について、うなだれていた。そのすぐ後ろには、シャーロットとマクレガン館長の姿がある。
書庫の壁の高い位置にある小さな窓から、夕日が差し込んできて、アーサーの背に降りかかっている。オレンジ色の光に照らされて、書庫に積もった埃が、キラキラ瞬きながら光の軌跡を舞う。
「俺のせいだ……」
絞り出すように虚空へ放たれた彼の声が、殺風景な書庫に空しく響いた。そんな彼を見かねて、シャーロットがそっと歩み寄る。
「アーサーさん……」
だが、彼の名を呼ぶだけで他にかける言葉が見つからず、シャーロットは一言そう言っただけで、力なくアーサーの背を見つめた。
メルが図書迷宮に残り、取り込まれていた人々や本の文字が解放されてから、すでに三日が経過していた。この五日間、アーサーはほぼ一日中書庫に篭っていた。たった一人、図書迷宮に残してきたメルのことが気がかりで、彼女が戻ってきやしないかと、その帰りを待つために。
「ミスター・ウォルホード」
コツコツと靴音を響かせて歩み寄ると、マクレガン館長がシャーロットに変わって声をかけた。
「もう閉館時間です。そろそろ帰りましょう」
ひどくやつれた顔で、アーサーは振り返った。
「……館長さん」
ゆったりした動作で立ち上がり、アーサーはマクレガン館長に向き直る。
「今日もメルは、帰ってこなかった」
アーサーの言葉に、マクレガン館長は目を伏せた。
彼女の手には、知らない言語で書かれた本——図書迷宮の鍵が抱えられている。本来なら、一刻も早く図書迷宮を封印せねばならないのだが、メルが帰ってくるまで、館長も待ってくれているのだ。
ぐるぐるぐる……と、誰かのお腹の虫が鳴いた。顔を真っ赤にしたシャーロットが、ハッと自身のお腹に手を当てる。
「ご、ごめんなさい。こんな時に」
「どんな時でも、お腹は空くものです」
マクレガン館長は落ち着いた口調で言うと、相変わらず虚空を見つめているアーサーへ、
「ほら、あなたも」
と急かすように声をかけた。
「お腹も空いたでしょう。ミス・アボットを待つのはまた明日にして、今日は帰りましょう」
マクレガン館長に促されて、アーサーはようやく書庫の出口に向かって歩き出した。それでも後ろ髪を引かれるように、ちらりちらりと書庫の奥を盗み見る。シャーロットも、時折振り返っては書庫の奥を眺めた。光のいたずらか、本棚の影から、銀色の光がきらめいているように見えることがあった。二人には、それがメルの銀髪のようでどうしてもどうしても振り返って確認してしまうのだ。
アーサーとシャーロットを連れて前を歩くマクレガン館長は、相反して振り返るようなことはしない。図書迷宮の鍵を固く握りしめて、コツコツと一定のリズムで踵を鳴らしながら歩いていく。
三人を見下ろすようにして両側に並び立つ本棚は、巨人の衛兵のように身動き一つしない。黙したまま、足元を通る三人を静かに見送る。静まり返った大図書館の書庫に響くのは、館長の足音と、それに紛れて聞こえる二人の若者の足音だけ。
だが、不意に、書庫の奥底から、何かが深いため息をこぼすような、不思議な音色が聞こえてきた。じっと、誰かに読まれるその時まで、静かな眠りについていた幾万冊もの本が、かすかに震えたようだった。
それは歩いていた三人の耳にも届いてきて、まずアーサーが足を止めた。ついで、シャーロットとマクレガン館長が怪訝な顔をして止まる。
「今の……何?」
怯えたように、シャーロットが肩を縮ませた。さっきから何度も何度も振り返っては確認していた書庫の奥を、恐々と見つめる。
「……メル?」
シャーロット同様、書庫の奥をじっと見ていたアーサーが、自信なさげに少女の名を呼んだ。
書庫の奥は、窓から差し込む夕日でかろうじて照らされてはいるものの、最奥部までは見透かすことはできない。だが、確かに、その暗がりの中で、銀色のきらめきが見えた気がしたのだ。
「いるのか?そこに」
アーサーの声が、広い書庫内に反響して響いた。
マクレガン館長も何かを感じ取ったのか、アーサーとシャーロットの肩越しに書庫の奥へ向けた目を、キュッと細める。
やがて、三人の耳に、靴音が聞こえてきた。それは今三人が固唾を飲んで見つめている、書庫の奥から聞こえてくる。ヒールの高い館長の靴音とはまた異なった靴音。革靴の音。
不意に、書庫の暗がりから、珍しい銀の髪をした少女と、その傍らを静々と歩く黒猫が姿を現した。
銀色の髪の少女は、長い髪を首元に近い位置で左右に結わえ、リヴレ王国王立図書館の司書の制服を着ている。その隣を足音一つ立てずに歩く、毛艶の良い黒猫の眼窩には、宝石のような深緑色の眼が二つ並んでいる。
アーサーは、銀の髪の少女を見て、それから傍らの黒猫を見て、もう一度銀の髪の少女へ視線を向けた。
「メル……!」
二度目に彼の口から放たれた少女の名を呼ぶ声は、さっきとは打って変わり、確信めいたものだった。それに少し遅れる形で、シャーロットが「メル!」と感極まったように叫ぶ。次の瞬間、二人は書庫の暗がりから出てきた銀の髪の少女へ向かって、小さな子供のように一目散に駆けて行った。
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