第29話 ピクニック




 王立図書館を騒がせた一連の事件が収束を迎え、メルが無事に帰還を果たしてから、もう二週間が経った。


 一時は休館に追い込まれ、閑散としていた王立図書館には、再び人々の姿と活気が戻っていた。


 親に連れられてやってきた子供達。学者風の男性。愛らしいリボンの髪飾りをつけた年若い女性。労働者風の男性たち。仲の良さそうな老夫婦。歳も立場も様々な人々が、自分の好奇心と知識欲を満たしてくれる大図書館の中を、思い思いに巡っている。そんな彼らの間を行き交い、キビキビと働いているのは、灰青色の制服に身を包んだ図書館司書たち。返却された本を積んだ台車を走らせたり、本を探すのを手伝ってあげたり、受付で来館客の対応をしたり、図書館のあちこちで彼らの姿を見ることができる。


 人々のかすかな話し声や足音、本のページをめくる音を背景音楽にして、王立図書館は普段通りの姿を見せてくれている。そこには、つい最近まで世間を騒がせていた行方不明事件があったことなど、微塵も感じさせない日常が広がっていた。


 世間を騒がせた行方不明事件、そして、図書館の本から文字がごっそり消えるという怪現象は、すべて図書迷宮の封印が解けたことによるものだった。しかし、図書迷宮の存在は本来一部の者しか知りえない機密事項。世間の人々に公開するわけにはいかず、その事実は伏せられた。表向きには、図書館周辺に潜伏していた組織的な人攫い集団によるものだったということで処理されている。真実を知っているのは、図書迷宮に囚われていた人々と、王立図書館の職員たち、捜査に関わった警吏たち、そして、かつて図書迷宮の封印に関わった王族だけ。


 世間は表向きの真相に、最初こそ騒ぎ立ててはいたものの、時が過ぎた今では随分騒ぎも沈静化した。人々の興味の移り変わりは早いもので、今では近々王城で開かれるという、第一王子の誕生会に注目が集まっている。当の図書館でも、特に女性の司書たちの間では、第一王子の話題で持ちきりだ。誕生会では一般の人々の参加も許されるので、皆王子の姿を見ることを楽しみにしているのだ。


 こうした経過を経て、もはや完全に普段の王立図書館に戻ったわけだが、騒動を引き起こした図書迷宮はどうなったのだろうか。再び封印されたのだろうか。それとも——。



「ねえ、まだ?そろそろお昼にしようよ、メル。僕ってばお腹空いちゃった」


 メルが可動式の梯子に登って本の整理をしていると、梯子の足元に黒猫が一匹近寄ってきた。光沢のある黒い毛並みに、宝石のようにきらめく深緑の瞳を持った猫は、メルを見上げてブンブンと不満げに長い尾を揺らす。


 メルは整理する手を止めて、自分を見上げてくる黒猫を見下ろした。


「もうちょっとしたらね」


「それさっきも聞いたよ」


 黒猫はペッと桜色の舌を出して抗議した。それからぴょんと梯子の段差に飛び乗った。そのままメルの元まで登り、またぴょんとジャンプして、今度はメルの肩の上に乗る。


 意外とずっしり来る猫の体重にちょっと顔をしかめながら、メルは「ヴェスター」と低い声音で注意した。


「いきなり肩に乗ってこないで。特に高い場所で作業している時は。びっくりしてバランスを崩したら大変」


「誰が?」


「私が」


 ふぅんと鼻を鳴らし、ヴェスターと呼ばれた黒猫はパタパタと尾を振る。


「メル。ご飯」


「まだ」


「早くシャーロットの作ってきたサンドイッチ食べたいなあ」


「ここの整理が終わったらね」


 メルはにべもなく答える。

 ヴェスターはプウと頰を膨らませた。


「ずっと思っていたけど、メルは真面目だね」


「よく言われるわ」


 ヴェスターと喋りながらも、メルは本を整理する手を止めない。メルがあまり相手をしてくれないので、ヴェスターは膨れる。

 その時、「メル!」と梯子の下から誰かがメルを呼ぶ声がして、メルはヴェスターと一緒に振り返った。


「よっ」


 そう言って、梯子の下からメルへニッと笑いかけてくるのは、燃え立つような赤毛の少年だった。


「アーサーだ」


 メルが答えるよりも先に、ヴェスターが赤毛の少年の名を口走った。言うや否やメルの肩から飛び降りて、アーサーの方へすっ飛んで行った。


「よう、エルヴェスタム……、じゃなかった。ヴェスター」


 アーサーは腰をかがめて、ヴェスターの狭い額をチョンチョンと指でつつく。


「改めてだけど、呼びやすくて良い愛称だな。これ」


「メルがつけてくれたんだ」


 ヴェスターは誇らしげにムンと胸を張った。


「シーグリッドが付けてくれたエルヴェスタム・デ・エスタンテも大好きだけど、メルが愛称としてつけてくれた、ヴェスターという名前も同じくらい好きだよ」


「エルヴェスタムから取っただけなんだけどね」


 ちょうど本の整理が終わり、メルは梯子から降りながら二人へ言った。


「すごく単純につけたから、そんなに気に入ってもらえるとは思ってなかった」


 床に足をつけたメルは、スカートについた埃をさっと右手で払う。


「お、午前の仕事終わった?」


 アーサーに尋ねられ、「ええ」とメルは頷いた。するとヴェスターが待ってましたと言わんばかりに飛び跳ねた。


「やった。やっとお昼ご飯が食べられる。今日は外で食べるんだよね。楽しみだなあ」


「随分はしゃぐのね」


 メルが言うと、ヴェスターは「そんなことより早く行こう」とメルとアーサーを急かしながら先に歩き出す。

 メルとアーサーは目を合わせてクスリと笑うと、お腹を空かせたおしゃべりな黒猫の後ろへ着いて行った。


 前々から約束していたことだが、今日のメルのお昼はシャーロットとヴェスターに、アーサーを交えてのちょっとしたピクニックだ。ピクニックと言っても、食べる場所は近くの公園なのだが、そこには青々とした芝生が広がっていて、十分ピクニック気分が味わえるのである。お弁当の方は、最初は各自で用意していくことになっていたのだが、シャーロットが皆にぜひクラプトン家直伝のサンドイッチを食べて欲しいというので、昼食はシャーロットが用意してくれることになっている。


 途中シャーロットと落ち合い、一行は王立図書館から出た。王立図書館の正面玄関から門まで伸びるまっすぐな道を歩き、街へ繰り出す。


 目的地の公園に着いた三人と一匹は、広い芝生の一角に根をおろす、樫の木の下を、昼食を食べる場所に選んだ。シャーロットが、右腕にぶら下げていたバスケットの中から愛らしい花模様のマットを取り出して、それを木漏れ日の注ぐ芝生の上に広げる。マットの上にめいめいが座ると、シャーロットは「じゃんっ」と得意げに言って、バスケットの蓋を開けた。


「おお!」


 アーサーとヴェスターが、目をキラキラさせて涎を垂らす。メルも自分のお腹が鳴るのを抑えきれなかった。


 皆の反応を見て、シャーロットはフフン、と胸を張る。


「これがクラプトン家直伝の特別サンドイッチよ。私、料理はあんまり得意じゃないけれど、これは美味しく作れるの」


「うまい」


 シャーロットが言ったそばから、アーサーは早速サンドイッチにかぶりついていた。一体いつの間にバスケットから取ったのか。シャーロットは目を剥く。


「ちょっと、人が説明してる途中で!あなたって礼儀作法ってものが本当にないのね」


 ゴクリとサンドイッチを喉の奥へ押し込んでから、アーサーは「すまんすまん」と笑いながら言った。全く身にこたえていないようだ。


「うちは家族が多いから、飯時にぼーっとしてたらすぐ食いもんがなくなっちまうんだ。その癖でつい」


「もうっ」


 シャーロットはぷんとそっぽを向く。だがすぐに気を取り直したのか、「はい」とメルへサンドイッチを差し出してきた。メルがそれを受け取ると、今度は布を下に敷いて、ヴェスターの分をそこに置いてやる。


 メルは、渡されたサンドイッチに目を落とした。さっきからシャーロットが言っている、「クラプトン家直伝の特別サンドイッチ」は、要は彼女の祖母と母が作るサンドイッチのことである。特別と言ってはいるが、それほど他のサンドイッチと変わった特徴を持っているわけではない。だが、とにかく美味しい。使われているパンは、分厚くカットされた、素朴な味わいの田舎パン。その間からは瑞々しいレタスやトマト、生ハムがボリュームたっぷりに飛び出している。これを一口かじると、パンの弾力感と野菜のシャキシャキ感が口の中に飛び込んできて、飛び切り美味しい味がするのだ。メルはシャーロットと友達になってから、何度かこのサンドイッチを彼女の母や彼女自身から振る舞われたことがある。だが、何度食べても頰が蕩けそうなほど美味しくて飽きがこない。もちろん今回もだ。


「おいしい〜」


 ヴェスターもお気に召したのか、目の前のサンドイッチを頬張るのに夢中になっている。


「メルがすごくおいしいよって言ってたのは嘘じゃなかったね」


「ああ、下手すりゃ俺の母さんが作ったのよりかおいしいかもしれねえ」


 皆に褒められて、シャーロットの鼻は随分高くなったようだ。自身もサンドイッチを食べながら、「当然よ」と誇らしげである。


「サンドイッチはたくさん作ってきてあるから、みんなじゃんじゃん食べてね」


 バスケットにぎっしり詰め込まれたサンドイッチは、三人と一匹によってあっという間になくなった。

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