第7話 消えた文字

「メル!」


 翌朝、メルが梯子に登って本棚の整理をしていると、下から焦ったようなシャーロットの呼ぶ声が聞こえてきた。


「どうしたの」


 下を覗くと、メルの登った梯子のすぐ下でシャーロットが手招きしているのが見えた。


 メルは一旦仕事を中断して、するすると梯子を降りる。そしてメルの足が床についたのを確認した途端、シャーロットが突進するような勢いでメルの腕に分厚い本をねじ込んできた。革張りの深い緑色の表紙に、金字で題名の書かれた古めかしい本だ。


「え、なに?」


「いいから、その本を開いてみてちょうだい」


 シャーロットが自分になにを言おうとしているのかさっぱりわからなかったが、言われるがままにメルは渡された本を開いた。


「なに、これ……」

 

 本を開いてみて唖然とした。本来紙に刻まれているはずの文字が、ない。まったく、ない。あるのはなにも書かれていない無地の紙ばかりだ。ひょっとして書物の見た目をしたノートなのでと思い、メルは本をひっくり返して表紙の金字を目で追う。


『リヴレ王国年代記』


 表紙にはそう書かれてあった。この本はメルも知っている。100年ほど前に書かれたリヴレ史を総括的にまとめた歴史書だ。本には、書かれた当時の国の情勢も詳細に記されており、歴史研究の資料として学者たちの間で重宝されていると聞く。


「どういうこと?」


 わけがわからなくなって、メルは目の前のシャーロットに尋ねてみたが、もちろん彼女が知るわけもない。


「私だって全然わからないわ。この本は昨日、確かにちゃんと文字があったの。あ、これ、昨日ヘインズさんに言われてた仕事のやつね。えらい学者様が見たいとおっしゃってた本の一つ。だから私も中身をちゃんと確認してるの。それが今日、たまたまこの本のある書棚に行って、本を整理していたら、その棚にある本が丸ごと、もちろん『リヴレ王国年代記』も含めて全部中身が真っ白になってたのよ」


「本棚の本、全部が」


 この本だけかと思いきや、そうではないと聞いてメルは目を丸くした。本の中の字が全部消えるなんて、そんな摩訶不思議な話聞いたこともない。


「ねえメル。これ何なのかしら。悪戯な魔法使いが魔法でもかけちゃったのかしら」


 シャーロットが怯えた顔をしてそんなことを言った。メルは「それはないと思うわ」と首を横にふる。


「魔法使いなんて何十年何百年も前ならともかく、今じゃもうほとんどいないと言うし」


「でも、全くもってこの世にいないというわけではないじゃない?今でも大陸にあるどこか深い森の奥に、ひっそりと暮らしているという噂があってよ」


「だからって、わざわざこんなことをする意味がわからない。第一、悪戯好きな魔法使いは後世の人が創作の中で作り上げた勝手なイメージよ。実際の魔法使いは、魔法学という学問を研究する立派な学者。こんな馬鹿らしいことはやらない。とにかく、文字がごっそり消えている本のある棚まで案内してちょうだい」


 魔法使いがどうのという方へ話題が逸れていたのを無理やり元に戻して、メルはシャーロットを急かした。シャーロットは頷くと、「こっち」と言ってメルの前に立って歩き出した。


 シャーロットが案内したのは、幾つかに分けてある区画のうちの13の区画だった。美しい木目の入った、年月を感じさせる焦げ茶色の本棚が、城を守る衛兵のように整然と並んでいる。シャーロットは、その中の一つの本棚の前で立ち止まった。


「この本棚よ」


 シャーロットが示した本棚の前に立ったメルは、適当な一冊を手にとって中を開いてみた。やはり、シャーロットの言う通り中身は真っ白だった。何も書かれていない白い紙がひたすら続いている。その本を元あった場所に戻して、今度は別の一冊を手にとってみる。こちらもやはり文字が消えており、白い紙が何百枚も立派な装丁の中に綴じられている。


「ね、消えているでしょう?」


 メルのすぐ隣で、不安な顔をしたシャーロットが言った。


「シャーロット、他の棚に入った本は?」


 本を閉じながらメルは尋ねる。シャーロットは「ちょっと待って」と言って、

すぐ隣の本棚に入っている本を何冊か抜き取って確認した。


「ああ、よかった。ここの本は無事みたい」


「……どうしてこの本棚だけが……。いいえ。そもそもどうして文字が消えたの」


 メルは考える。だが、そうしたところで何もわからない。これは一図書館司書が対処できるような問題の範疇を超えている。とりあえず、に報告することくらいしか、今の自分たちにできることはない。

 メルは、顔を上げると言った。


「シャーロット、館長室に行きましょう。このことをすぐに報告しなきゃ」


 

 シャーロットと共に4階にある館長室へ向かったメルは、コンコンと部屋の扉をノックした。しばらくして、「どうぞ」と優しげな女性の声が扉の向こうで答える。


「失礼します」


 部屋の主の答えを待ってから一拍おき、メルはオーク材でできた扉のノブを回して、館長室へ足を踏み入れた。そのすぐ後に問題の本を抱えたシャーロットが続く。


 館長室には、上品な色をした暗めの赤い絨毯が床に敷かれ、左右に二つのずっしりとした本棚、入り口の正面にある大きな窓の前には事務机が置かれていた。その事務机とセットになった座り心地の良さそうな椅子に腰掛けている、初老の女性がリヴレ王国王立図書館館長ソフィ・マクレガンその人であった。


「どうしました?」


 マクレガン館長は読んでいた書類から目を離して、部屋に入ってきたメルとシャーロットを見上げた。もう六十近いはずだが、椅子の背もたれに預けた背中はまっすぐに伸び、銀縁眼鏡の奥の意志の強そうな瞳は、老いと言うものをまるで感じさせない。


「緊急のご報告があります」


 メルは、マクレガン館長の前へ進み出ると単刀直入に言った。


「今朝、こちらのミス・クラプトンが、一部の本から中身の文字が丸ごと消えているのを発見しました」


 メルが話すのと同時に、シャーロットが抱えていた幾冊かの本をどさりと館長の事務机の上へ置いた。マクレガン館長は、メルを一瞥してから積まれた一番上の本を手に取る。無造作に適当なページを開いたマクレガン館長の目は、たちまち大きく見開かれた。


「なんということ……」


 だが、すぐに驚いた表情を引っ込めると、マクレガン館長はパタリと文字の消えた本を閉じて、シャーロットの方へ尋ねた。


「これは、どこの区画にあった本です?」


「十三の区画です、館長」


 シャーロットが答えると、マクレガン館長は積み上がった本の上に、先ほど中身を見た本を置いた。


「わかりました。あなた方は、他の司書にもこのことを伝えて、十三区画にある本を全て臨時の書庫へ移動させておいてください。詳しい調査は、私がしておきます」


「あの、何か心当たりがあるんですか。文字が消えた原因に」


 テキパキと指示するマクレガン館長に、メルはおずおずと尋ねた。だが、マクレガン館長は「今はまだ何も言えません」と曖昧な返事を寄越しただけだった。

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