第8話 臨時書庫

 館長室を辞したメルとシャーロットは、マクレガン館長に言われた通り、すぐにこの異状事態を他の司書に伝えた。受付などの来館客の対応に回っている司書を残し、それ以外の司書は十三区画にある全ての本を臨時書庫に移すという大仕事にかかった。


 臨時書庫は、普段は使われていない書庫だ。そのため、整然と並ぶ本棚に入っている本は一冊もない。なぜこのような書庫が存在するのかというと、何か災害が起こった時に貴重な本を一時避難させるためらしい。この図書館は、すでに築百年以上の代物だが、この臨時書庫だけは後から増築してつけたものらしく、防火などの災害対策が部屋を囲む壁と扉に施されているのだ。


 メルは、なぜ十三区画の本を臨時書庫に移す必要があるのだろうかと考えながら、大量の本を乗せた台車を臨時書庫に向けて押し進めていた。本の文字が消えるという不思議な現象が、臨時書庫へ本を移動させることでなくなるとでも言うのだろうか。さっぱりわからない。だが、館長の命令は絶対だ。自分たちでこの事態を判断できない以上、マクレガン館長の指示通りに動くしかない。

 

 メルが台車を臨時書庫に運び込むと、すでに多くの本が臨時書庫へ納められていた。だが、これで全部ではないだろう。たった一つの区画と言っても、何百冊もの本が納められているのだから。


「メル、僕に渡して」


 大勢の図書司書たちが、大量の本を本棚へ収納していく光景など、図書司書見習い時代からここへ通っているメルでも見た事がないものだった。そんな類を見ない異状事態に一瞬ぼーっとなっていたメルへ、若い男の声がかけられる。

 メルがハッと声のした方へ視線を投げると、一つ年上の先輩・ラーシュがこちらへ手を伸ばしてきていた。メルは慌てて台車に乗せてあった本の中から、適当な数冊を選んでラーシュへ手渡す。メルから本を受け取ったラーシュは、可動式の梯子に登って書棚の上部へ本を並べていく。


 メルが見渡すと、周囲の司書たちも皆そうして役割分担をしていた。台車に乗せて十三区画から本を運んでくる係、運ばれてきた本を臨時書庫の書棚へ並べていく係。皆、最初は本の文字が消えたというメルとシャーロットの報告に不安そうな顔をしていたが、いざ作業が始まると、目の前のやるべきことに集中している様子だった。自分だけが異状事態に圧倒されている場合ではない。なぜ本の文字が消えたのか、なぜマクレガン館長は文字の消えた本のあった、十三区画の本すべてを臨時書庫へ移動させるように指示したのか。そういうことをごちゃごちゃと考えるのは後でいい。今は、自分の役割をしっかり果たすべきだ。

 そう思い直したメルは、台車に乗った本を全てラーシュへ渡し終えると、空になった台車を押して、駆け足で再び十三区画へと向かった。



 夕方、閉館時間よりギリギリ前に、十三区画の本の臨時書庫への移動が終わったことを知らされたメルは、なんだかほっとした気分になった。

 “知らされた”というのは、メルは午後からは受付の仕事に回っていたからだ。そのかわり、午前に受付や来館客の対応をしていた司書たちが、午後からは午前に頑張ってくれた司書たちと交代して作業をしてくれた。


 ちなみにメルは、受付の仕事が好きではない。もともと人と話すのは苦手だし、何より微笑むのが壊滅的に下手だ。どう考えても接客になる表側の仕事は、メルには不向きだった。マクレガン館長には、午後からもずっと裏方の仕事に回らせてくれと再三言っているのだが、館長は全く首を縦に振ってくれない。館長曰く「苦手なことから逃げてはダメよ」らしい。


「はあああ、なんだか今日は疲れたわ……。まさかこんな大事になるなんて」


 メルと打って変わり接客仕事も得意なシャーロットが、げっそりした様子で受付のカウンターにもたれかかっていた。床にぺたりと座り込み、頭をカウンター机に押し付けている。


「シャーロット。そんなところで座ってたら、服が汚れる」


「ええ、もちろんわかってるわ。今私、淑女にあるまじき格好をしてることよ……」


 メルと同じく台車を押して本を運びまくっていたシャーロットは、完全に体力を使い果たしている様子だった。メルも疲れてはいたが、昼から受付係に回っていたので体力はそこそこ回復していた。


 メルはシャーロットのそばへ行って、彼女の腕を引っ張ってなんとか立たせた。ついでにスカートについた埃を手で払ってやる。


「ほら、もう閉館時間よ。帰りましょう」


「ええ……」


 シャーロットはうわ言のような返事を寄こすと、メルと一緒に図書館の出口へ向かって歩き出す。


 しばらく疲れて口も利かなかったシャーロットだったが、図書館の正面扉に着く頃には少し元気を取り戻したようで、いつものおしゃべりが始まっていた。


「それでね、メル。昨日の晩御飯は大失敗だったわけ。私のせいでね。だってお塩と間違えてお砂糖を入れちゃったんだもの。恐ろしく甘ったるい魚だったことよ。お父様は美味しいって無理して言ってくれたけれど、お母様なんて食べれたもんじゃないって……」


 しかし、メルとシャーロットの家は図書館を出て真逆の方向にあった。だから分かれ道に来ると、自然とシャーロットのおしゃべりも止まる。シャーロットはメルへ、「それじゃあまた明日ね」と言って手を振った。メルも、「ええ、また明日」と手を振り返す。

そうしてシャーロットはメルに背を向けると、黄昏時の夕日に金色の巻き毛を煌めかせながら、家路を辿り始めた。


 しばらくそれをぼんやり見送っていてメルは、ふとあの名前も知らない赤毛の少年のことを思い出した。忙しかったせいか、今日はあの少年の姿を見かけなかった。今日も図書迷宮を探していたのだろうか……。

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