第9話 迷子
「今度は十区画の本」
上司のヘインズが、文字のなくなった本を険しい目で見つめながら硬い口調で言った。その後ろで、メルは沈鬱な表情を浮かべている。
本の文字が消えるという昨日から始まったこの不可解な現象。十三区画で発見されたそれは、翌日十区画の本にも現れていた。これ以上続くようであれば、図書館の沽券に関わる問題だ。
図書館には、王から賜った大切な三つの役目がある。それは、書物の保存、研究、普及の三つである。本は、その装丁そのものにも価値が認められているものもあるが、本を形成する要素の中で最も重要視されるものは、言うまでもなく書かれた文字。つまりは内容だ。本にはあらゆる知識や先人たちの教訓、経験が詰まっている。それらはすべて後世の人々にも継承されていかねばならない。そのためにあるのが図書館なのだ。本を保存し、未来へ残す。未来へ伝えていく。この国の人々が気の遠くなるような時間の中で紡いできた、歴史を、過ちを、文化を、美しい物語を、それを残し、伝えていくのが図書館の役目。ひいてはメルたち図書館司書の役目。それが今、文字の消失という現象によって崩れようとしている。
最初は、文字が消えるという不可解な現象にばかり囚われていたメルだったが、この現象が抱える本質的な問題に気づいたのだ。すなわち、この国の知の財産が失われるということに……。
「そういえば……ミス・クラプトンの帰りが遅いですね」
文字の消えた本を棚に戻しながら、ふとヘインズが言った。確かに、彼女の言う通り戻るのが遅すぎると、メルも感じていた。
シャーロットとメル、ヘインズの三人は、さっきまで一緒にいた。十三区画以外の区画の本にも、昨日の現象が現れていないか調べるためである。しかし途中で、探している本が見つからないと来館客に声をかけられ、その対応に回ったシャーロットと別れたのだ。対応が終わり次第戻るはずだが、随分と時間が経っている気がする。
「本を探すのに手間取っているのでしょうか」
メルがそう言うと、ヘインズは肩をすくめ、ずれた眼鏡をクイッと上へ押しあげる仕草をした。
「まあどっちにしろ、もうすぐお昼ですし。今更戻ってきたとしてももう遅いですね。先に事務室へ戻っているのかもしれません。私たちも昼休憩にしましょう」
ヘインズのその言葉で、メルはいつもより少し早めに昼休憩に入った。
事務室に戻ってみると、シャーロットの姿はなかった。しばらくしたら帰ってくるだろうと、メルは昼食用に持ってきていたサンドイッチを食べるのを待つことにした。
しかし、それから三十分経ってもシャーロットは帰って来なかった。さすがにお腹もすいてきて、メルはバスケットの中からサンドイッチを取り出して先に食べ始める。そうするうちに、休憩時間も終わってしまった。
一体どうしたことかと、メルは疑問に思いつつも次は受付の方へ回らなければならないため、彼女を探しに行くわけにもいかない。
急いで残りのサンドイッチを口へ投げ込み、慌てて事務室を出て、図書館正面玄関辺りの大広間にある受付カウンターの座席に座る。
この大広間は、本棚がひしめくこの図書館の中で唯一と言って良いほど広い何もない空間だ。ただ、何もないと言っても、美しい色と模様の入った大理石に、真上に吊るされた豪奢なシャンデリア、大広間の周囲を円形状に取り囲む受付カウンターと本棚群が、この何もない空間を荘厳なものにしていた。それに、この大広間は祝福祭などの祭りの時にはちょっとした舞踏会の会場として使われることもある。メルは人前で男性と手をつないで踊るなどもってのほかなので、その舞踏会に参加したことはないのだが。
メルが、カウンターの上に置かれた本の貸し出しリストを何気なくめくっていると、若い女性がメルの元へやってきた。何か困り事でもあるのか、綺麗に整えられた眉尻が下がっている。
「あの、すいません」
「はい。何でしょうか」
接客は苦手だったが、毎日嫌でもやっていたらスムーズに対応することはメルにもできる。
メルは顔を上げて、その女性へ要件を尋ねた。女性は本を持っていなかったから、要件は返却でも貸し出しでもないだろう。
「その、子供を見失ってしまって。どこを探してもいないんです」
「お子さんが迷子ということでしょうか?」
「はい。私が目を離したばっかりに」
こういうことはよくある。広い図書館だ。しかも国内最大の蔵書数を誇る。小さい子供ならこの城のような図書館に興奮して、あちこち探検しようとするだろう。そして、親が目を離したすきにどこかへ行ってしまう。
「お子さんの着ている服や、特徴、見失った場所を教えてください。こちらで探しますので」
メルはそう言って、メモ用の紙とペンをカウンターの引き出しから取り出した。母親の話す子供の特徴を聞き取って、紙の上にペンを走らせる。聞き取りが終わると、メルは立ち上がって母親をカウンター近くの座席へ案内した。
「奥様は、こちらにお掛けになってお待ちください」
「はい。ありがとうございます。お願いします」
母親は、メルにお礼を言いながら椅子へ座った。
メルは、同じ受付担当の司書のうちの一人に断ってから、メモを頼りに迷子の子供を探しに出かけた。
手始めに、子供を見失ったという場所を起点に、その周囲を探ってみる。しかし、母親自身探しても見つからなかったと言っていたので、そんなに近くにはいないだろう。ひょっとしたら、奥の方の書庫に入り込んでしまったのかもしれない。
メルは来館客が多くいる区画を抜けて、子供を見失った場所から一番近い書庫へ向かった。
書庫は、昼でも奥へ行けば行くほど日の光が差し込んでこないため、全体的に陰気で薄暗い雰囲気が漂っている。子供ならこんなところに一人で迷い込んでしまったら泣いてしまうかもしれない。そう考えて、メルは子供の泣き声が聞こえてこないか立ち止まって耳を澄ましてみたが、何も聞こえなかった。
「ビリーくん?」
子供の名前も聞いていたので、メルは誰もいない空間に向かってそっと呼びかけた。予想はしていたが、やはりそれに返答する声は聞こえない。
メルは、さらに奥へ入ろうと足を前へ一歩踏み出した。
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