第12話 鍵


「エルヴェスタム・デ・エスタンテ……」


 メルは、何かの呪文のようなその単語を小さく呟いた。エスタンテは本棚を意味する言葉だ。そして、エルヴェスタムは人の名。


「エルヴェスタムは、大昔に実在したとされる、シーグリッド・エルヴェスタムと云う名の魔女からとったもの。その魔女が自身の魔法で作り出した巨大な図書館。それが、エルヴェスタム・デ・エスタンテ。図書迷宮の噂の元になったものです」


 再びざわめき始めた皆の前で、マクレガン館長は語る。


「エルヴェスタム・デ・エスタンテ、長いのでここからは図書迷宮と呼びましょう。図書迷宮は、エルヴェスタムの死後、暴走状態となり、長らく封印状態にありました。ところが現在、その封印が解けているようだということが、調査により判明しました。図書迷宮の扉が開いたのです。暴走状態にある図書迷宮は、際限なく知識を吸収しようとします。その働きが、本の文字が消失するという現象を引き起こしているのです。つまり、本の文字、本に記されている知識が、図書迷宮によって吸収されているということです。行方不明事件も図書迷宮の仕業でしょう。消えた人々は、おそらく図書迷宮に迷い込んでいるはずです」


 マクレガン館長は、口を閉じるとそばにいた司書に水を持ってくるよう指示した。水の入ったコップを受け取ったマクレガン館長は、それを上品にすすってから再び前を向く。彼女の視界いっぱいに広がるのは、不安と驚きが入り混じった司書たちの顔。皆、まだ説明を求めているのだ。


「図書迷宮が実在することは、王立図書館の館長だけに知らされる事実。いわばこの図書館における最高機密です。本来は、皆さんに話すべき内容ではありません。しかし、この事態を収拾するには私一人の力では不可能。ですから、規則を破ってでも皆さんにこのことをお話ししておく必要があったのです。では、前置きはこのくらいにして本題に入りましょう。私たちがしなければならないのは、図書迷宮の封印と、図書迷宮に迷い込んだ人々の救出です。不幸中の幸いか、今より六十年前にも図書迷宮の封印が解けており、その際にどう対処したのかについて書かれた資料を発見しました。それによれば、図書迷宮の封印を施す鍵があるようです。その鍵は、私たちの知る鍵の姿ではなく、一冊の書物の姿をしています。本には私たちには理解できない文字で文章が記されており、真ん中のページには歯車の絵があるそうです。この本はこの図書館のどこかにあるはず。今から皆さんには、それを探していただきたいのです。封印の鍵を手に入れた上で、図書迷宮に迷い込んだ人々を救出します。救出方法については、まだ確立できておりませんが−−」


 マクレガン館長の情報の嵐のような言葉が、メルの頭の中を駆け巡る。

 

 図書迷宮。シーグリッド・エルヴェスタム。エルヴェスタム・デ・エスタンテ。魔女。解かれた封印。鍵。理解できない文字。歯車の絵。


 そして一度見たら忘れないような、燃え立つような美しい色をした、赤毛。


『あのさ、変なこと聞くけど、見たこともない文字、少なくともこの大陸にはないような文字が書かれていて、ちょうど真ん中のページくらいに歯車の絵が描かれている本のこと、知ってるか』


 いつだったか。それほど前ではなかったはずだ。アーサーはメルに駆け寄ってきて、そんなことを尋ねてきた。本人は大したことじゃないと言っていたが、随分と考え込んでいる様子だったのを覚えている。

知らない言語、歯車の絵。それはつまり......


「アーサー!」


 メルは周囲に大勢の人がいることも忘れて、その名を大声で叫んでいた。館長始め、皆がびっくりした顔でメルの顔を見ている。それに気がついたメルは、慌てて開いた口を手で覆った。だがもう遅い。メルは穴があったらはいりたい気持ちに駆られる。頬が上気して、端から見えなくても自分の顔が羞恥心で真っ赤になっているのがわかる。いたたまれなくなったメルは、脱兎の如くその場から駆け出していた。

 背後から、「ミス・アボット!」とマクレガン館長の呼ぶ声が聞こえた気がしたが、メルは振り返らず、そのまま図書館から走り出た。


 図書館の敷地を出てから、メルはようやく立ち止まった。走ったことでドキドキと高鳴る胸の動悸を抑えながら、はあはあと肩で息をする。空から降ってくる雨粒がメルの肩を叩いては、彼女の髪を、服を濡らしていく。そんなメルを、道行く人々が不思議そうな目でちらちらと一瞥していく。


 ウォルフォードさんは。アーサーは、どこにいるのだうか。メルは雨に濡れるのも構わず、息を整えながら考えた。アーサーが何日か前にメルに尋ねてきた本は、図書迷宮の鍵だったのだ。彼はそれをすでに見つけていたのかもしれない。それがわかった今、アーサーに聞くしかない。その本をどこで見つけたのかを。メルは全く何も考えずに図書館から飛び出してきたわけではなかった。


 しかし、アーサーがどこにいるのかは皆目検討もつかなかった。メルが知っているアーサーの情報といえば、名前くらいだ。今は図書館も閉まっているから、アーサーと会う手段もない。


「どうしよう……」


 メルはぽつりと呟いた。何の手がかりもなしに、この広い王都で人一人探すなんて無茶にもほどがある。勢い余って図書館から駆け出してきた自分が馬鹿みたいだ。


 膨大な蔵書数を誇る図書館から一冊の本を見つけることと、王都で人一人を探すことのどちらが大変だろうか。メルはそんなことを一瞬考えたが、やはりアーサーを探さない選択肢はないように思えた。鍵となっている本の場所を聞くことも目的の一つだが、今は何よりもまず、アーサーに図書迷宮が本当にあったのだということを伝えたい。どちらかといえば、そっちの方がメルの本心なのかもしれない。


 メルは上がっていた息が落ち着いてきたのを確認すると、顔を上げた。

 確か、アーサーは王都に来てから図書迷宮を探していることを言った相手はメルが初めてだ。というようなことを言っていなかったか。だとすれば、その口ぶりから察するに、アーサーは地方から王都に出てきている可能性が高い。おそらく、わざわざ図書迷宮を探すために王都に来たのだろう。ならばどこかで宿を取っているはずだ。王都にある宿、特に王立図書館の周囲の宿屋を片っ端からあたっていけば、アーサーに会えるかもしれない。


 ここまでくれば話は早い。メルは自分が人見知りなのも忘れて、宿屋を探しに街へ繰り出した。

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