第19話 竜
「りゅ……」
メルが、太古に滅んだとされる生き物の名を言い終えるよりも先に、すぐ近くでばさりという音がメルの耳に轟音のように轟いた。いつの間にか、さっきの音が随分と近くに来ていたようだ。
空洞の中の人々は、一様に怯えた顔をして奥で縮こまり、外の様子をうかがっている。そして彼らの視線の先に目を向けたメルは、自分の口から悲鳴が出かけるのをすんでのところで抑えた。
誰もが声を押し殺す中。メルたちのいる蔓のすぐ目の前を、巨大な怪物が大きな蝙蝠に似た翼を羽ばたかせて通り過ぎていったのだ。一瞬しか見えなかったが、それは人よりも何倍も大きくて黒い、何かだった。いや、もうその答えは知っている。さっきシャーロットが言ったではないか。『竜』だ。
「今の……」
羽音が遠ざかっていくのを確認してから、アーサーが一目散に出口の方へ駆けて行った。
「竜……。じいちゃんが言ってた竜だ!」
「おい、にいちゃん。あまり大声を出すな。また竜が来たらどうすんだ」
人々の中から若い男ができるだけささやき声でアーサーに注意した。だがアーサーの耳にはそんな声は聞こえていないらしい。それどころかメルの方へ振り返り、「メル。こっちに来いよ。すごいのが見える」と手招きする始末である。他の人の視線を受けながら、メルは仕方がなく震える足を押さえて、アーサーのそばに恐々と近づいた。
「ほら」
アーサーが指を指してメルに見るように促す。
「……」
そうして外の様子を伺ったメルは、この世のとは思えぬ光景に言葉を失った。
アーサーの指し示す指の先。緑の巨大な蔓の間を、漆黒の鱗をまとった竜が滑るように飛んでいた。時折、一定の間隔を置いて、背中の黒い翼を羽ばたかせている。竜はここからだと随分遠くを飛んでいたが、体が大きいのでこのくらいの距離が見る分にはちょうど良かった。
メルは吸い込まれるようにその竜を見つめた。
明るく煌めく青空にぽっかりと出現した、漆黒の闇。端的に言い表せば、黒い竜はまさにそんな感じだった。なんの光も反射しない鱗を持つ、黒き竜。彼、あるいは彼女は、器用に体を傾けながら、蔓と蔓の間を飛んで行く。そんな竜の美しくもあれば恐ろしくもある黒い体の周りに、キラキラ輝く黄色い帯のようなものが見えた。遠すぎてそうだとは言い切れないが、あれは、図書館の本から抜け出して実体化した文章だとメルは思った。
輝く黄金の帯となった文章たちは、竜に導かれるようにして空を舞っている。
やがて、竜はメルのいるところからは見えないほど高い場所へ行ってしまった。
しばらく放心して空を見上げていたメルは、シャーロットに肩を叩かれるまで微動だにしなかった。
「メル、大丈夫?」
「ええ……」
頷きながら、メルは後ろへ少し下がった。未だに竜をこの目で見たとは信じられない気持ちだった。しかし、ここは魔法でできた場所。先ほどの不思議な木のように、竜がいたとしても何も不思議ではないのかもしれない。それでもメルは、シャーロットへ聞かずにはいられなかった。
「ねえ、あの竜は一体何だったの」
「それはわからないわ。私たちみたいにここへ迷い込んでしまったのか、元からここにいる生き物なのか……」
シャーロットは一歩外へ出ると、ほぼ真上にある大樹を見上げて言った。
「さっきの竜は、たまにああやって空を飛んでいるのだけれど、いつもあの大樹の方から飛んでくるの。だからきっと、大樹に住み着いているに違いないって私たち考えてるの」
「大樹に……」
「そのせいで、俺たちは大樹へ近づけないんだよ」
さっきメルに話しかけてきた壮年の男が、いつの間にか穴の奥からでてきていた。
「竜がいるせいでな……」
「さっきの竜は人を襲うのか?」
アーサーに尋ねられると、男は「いや」と首を振った。
「だが、竜というのは凶暴で残忍な性格のものがほとんどだったと聞く。そんな生き物には近寄らないに越したことはないだろう。だから俺たちはあの竜が飛んでくるのを見ると、すぐにこうやって隠れているんだ」
「それでは、まだ出口を探しにあの大樹へは行っていないということですか」
感じた疑問をそのまま口に出してメルが問うと、男は「そうだ」と頷いた。
「だから、ひょっとするとあそこに出口があるのかもしれない」
「じゃあ、探しに行く価値はあるよな」
アーサーがなんてことないように言った。男はギョッとしてアーサーを見やる。
「君、正気か?もし竜に襲われでもしたらどうするつもりだ」
「でも、誰も襲われてないんだろう」
「それは俺たちがあの竜に近づかないようにしているからだ」
男とアーサーの会話を聞きながら、メルはシャーロットの隣に並んで大樹を見上げた。
大樹は青々とした葉を茂らせ、悠然とメルたちの頭上に聳えている。もはや木というよりかは、巨大な建造物だと言った方がしっくり来る。さらに、大樹を支える無数の巨大な蔓も入れて俯瞰すれば、塔のような様相を呈しているのかもしれない。そして、塔の頂上に当たるあの大樹に出口があるかもしれないというアーサーの発言は、一理あるとメルも思っていた。
普通、塔なら一番下の階に出入り口があるものだが、ここはどこまで下れば最下層までいけるのか見当もつかない。そもそもあるのかどうかすらも曖昧である。それに反して、大樹は目に見える位置に頂上としての存在が確認できる。竜に襲われる危険性を考慮しても、十分あの大樹へ行く価値はあるとメルにも思えた。
「アーサー」
まだ後ろで何やかや男と話していたアーサーへ、メルは声をかけた。
「ん?」
「行きましょう。あの大樹へ」
メルの言葉に、アーサーは少し嬉しそうに顔をほころばせた。
「ああ。俺もやっぱ行くべきだと、この人に話していたところだ」
そう言って、アーサーは隣の壮年の男に目配せを送る。目配せされた男は、「俺はいかんぞ」と迷惑そうに顔をしかめた。
「メル、連れていってちょうだい。出口を探すなら、一人でも多い方がいいでしょうし」
男の代わりに、そう言って前へ進み出たのはシャーロットだった。
「いいの?シャーロット。竜に襲われる可能性もあるのよ」
メルが真剣な口調で言うと、シャーロットは「わかってる」と真面目な表情をして頷いた。
「でも、メルにだけ危険な思いはさせたくないわ。メルが危険を冒してでも行くというのなら、私も一緒に行く。それが友達というものじゃなくて?」
「シャーロット……」
彼女の言葉にメルが心を打たれていると、アーサーが「決まりだな」と二人に笑いかけた。
「俺とメルとシャーロットさん。この三人で大樹へ行き、出口を探す。そしてもしも出口が見つかれば、ここに引き返してきて、今度はみんなでここから出口に向かって外に出る。そういうことでいいよな」
「ええ」
メルは頷く。隣でシャーロットも真剣な表情で頷いた。
「本当に行くんだな」
壮年の男が重々しい口調で三人に言った。
「ああ、そうしなきゃなにも始まらん」
答えたアーサーを、男は少し眩しげに見つめる。
「俺にも君らみたいな勇気があればな……。どうしてもあの竜のことを考えると恐ろしくて……。こんな俺が言えたことじゃないが、十分気をつけて行くんだ。極力竜に見つからないように……。蔓には、ここみたいにうろができているところがあるから、隠れながら進むといい」
「ああ、わかった。ありがとうな、おっさん」
男に礼を言い、三人は他の人々にも見送られながら外へ出た。
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